朝からサイヤ人!?
第1話 朝からサイヤ人!?
鹿児島市の朝。
青空の下、通学路には制服姿の高校生たちが行き交っていた。
鹿児島高校普通科に通う高校一年生、大石早苗は、今日も幼なじみの田中直樹を迎えに来ていた。
ピンポーン。
田中家のインターホンを押すと、中から元気な声が聞こえる。
「はーい!」
ガチャ。
玄関から姿を現したのは、制服姿の直樹だった。
その瞬間――
直樹は目を丸くする。
「お、おま……。」
「ん?」
「なんちゅうヘアスタイルしとるんだ!」
「え?」
「頭がサイヤ人みたいになっとるぞ!」
「えぇ!?」
早苗は慌てて前髪を触る。
「うそ!?」
「寝ぐせが全部上向いとる! スーパーサイヤ人第一形態みたいになっとる!」
直樹は必死に笑いをこらえようとするが、もう限界だった。
「ぶっ……あははははは!」
「ちょ、ちょっと待って!」
早苗は慌ててカバンをごそごそ探す。
「鏡! 鏡!」
しかし見つからない。
「直樹、鏡見せて!」
「ほら。」
直樹がスマートフォンのインカメラを起動して差し出す。
画面を見た早苗は固まった。
「…………。」
一秒。
二秒。
三秒。
「見るなぁーーーっ!!」
慌てて両手で髪を押さえる。
「僕のヘアスタイルがぁーー!」
直樹は腹を抱えて大笑いしていた。
「あはははは! 朝からこんなん反則だって!」
「笑わないでよ!」
「いや無理!」
「僕、ちゃんとセットしたはずなのに!」
「どこをどうしたらこうなるんだよ!」
「寝返り打ちすぎたのかなぁ……。」
「台風でも通ったんか?」
「そんなこと言わないで!」
早苗は両手で髪を必死に押さえつける。
しかし離した瞬間――
ぴょこん。
前髪が元気よく立ち上がる。
「……。」
「……。」
一瞬の沈黙。
そして。
「あっははははは!」
「もうやだぁーー!」
近所を歩いていた小学生まで振り返るほどの大笑いが朝の住宅街に響いた。
そこへ玄関から、直樹の母・真由美が顔を出す。
「直樹、早苗ちゃん、おはよう。……あら。」
早苗の頭を見る。
「今日は元気いっぱいの髪型ね。」
「真由美さんまでぇ!」
再び笑い声が響く。
その様子を見ていた直樹は涙をぬぐいながら言った。
「早苗、そのまま学校行ったら朝からクラス全員笑わせられるぞ。」
「絶対やだ!」
「じゃあ駅まで走れば風で直るかも。」
「ほんと!?」
早苗はその一言を信じ、勢いよく走り出した。
「直樹、急ごう!」
「ちょ、待てって!」
しかし走れば走るほど風を受けて髪はさらに逆立ち、ますますサイヤ人らしさを増していく。
それを見た直樹はまた笑いが止まらなくなるのだった。
「早苗! 悪化しとる! 悪化しとるって!」
「えぇーーーっ!?」
一時間目の授業が終わるころには、早苗の髪もようやく少しだけ落ち着きを取り戻していた。
完全に元どおりになったわけではない。前髪の右側だけが、まだ小さく跳ね上がっている。それでも朝のように頭全体が天井へ向かって逆立っている状態に比べれば、かなりましだった。
休み時間を知らせるチャイムが鳴ると、教室の緊張が一気にほどけた。
生徒たちは立ち上がり、次の授業の準備をしたり、友人同士で話し始めたりする。
早苗は机の上へ小さな鏡を置き、まだ残っている寝ぐせを見つめた。
「ここん毛だけ、なんで言うこと聞かんとよ」
指先で前髪を押さえる。
手を離す。
ぴょこん。
「ほら、また立った」
隣から直樹の声が聞こえた。
「見らんでよ」
「見らんでも視界に入ってくっど」
「直樹は背が高かで、上から僕の頭ばっかり見えっとじゃろ」
「そいは否定できんな」
「ずるか。僕も身長が高かったら、直樹の頭ば見下ろせるのに」
「そん場合でも、早苗の寝ぐせは見えっど」
「何で僕の寝ぐせは消えん設定なのさ」
早苗がむっとして直樹を見上げると、直樹はまた笑いそうになって口元を押さえた。
「また笑おうとしちょっど」
「いや、笑っちょらん」
「口の端が上がっちょっがね」
「気のせいじゃっど」
「朝から何回笑ったと思っちょっと」
「二十回くらいか」
「三十二回」
「数えちょったんか」
「乙女は恨みば忘れんもん」
「怖かこと言うなよ」
そう言いながらも、直樹は立ち上がった。
「どこ行くの」
「購買」
「パン買うと?」
「まあ、そげなもん」
「まだ二時間目の前だよ」
「朝飯が足らんかった」
「直樹、そげん細か体しちょっとに、よう食べるよね」
「食べても太らんとじゃ」
「僕に身長分けてよ」
「分けられるもんなら、筋肉と交換したか」
「僕に筋肉は余っとらんよ」
「じゃあ取引不成立じゃな」
直樹はそう言い残し、教室を出ていった。
早苗は再び鏡を見つめる。
ミストを少しだけ吹きかけ、ブラシで前髪を整える。今度こそ落ち着いたように見えたが、油断はできない。
「頼むから、もう立たんでね」
髪へ話しかけるようにつぶやく。
近くにいた女子生徒が、その様子を見て笑った。
「早苗、髪と話しちょっと?」
「今日は言い聞かせんと、何しでかすか分からんもん」
「朝のあれ、すごかったね」
「忘れて」
「教室入ってきた瞬間、全員目が覚めたよ」
「目覚まし時計じゃなかよ、僕は」
「でも、朝から楽しかった」
そう言われると、早苗も強く否定できなかった。
恥ずかしかったのは間違いない。それでも、眠そうだった教室が一気に明るくなったことも確かだった。
将来、保育士になった時、子どもたちを笑わせることができたらいい。
そんなことを考えながら、早苗は鏡を鞄へ戻した。
しばらくすると、直樹が購買から戻ってきた。
右手には菓子パン。
左手には、紙パックの飲み物が二つ握られている。
「ほら」
直樹は、そのうちの一つを早苗の机へ置いた。
薄い桃色の紙パック。
そこには大きな梅の実の絵が描かれている。
「梅ジュースじゃん」
早苗の顔がぱっと明るくなる。
「僕に?」
「そい以外に誰がおっとよ」
「なんで?」
「朝から、よう笑わせてもろたお礼」
早苗は嬉しそうに紙パックを持ち上げたが、その言葉を聞いた瞬間、目を細めた。
「それ、謝っとっとか、けなしちょっとか、どっちね」
「感謝しちょっと」
「絶対笑いの材料にしちょっが」
「まあまあ。早苗の好きな梅ジュースじゃっで、許してくれ」
「乙女心は梅ジュース一本じゃ安売りせんよ」
「じゃあ返して」
「返さん」
早苗はすぐに紙パックを胸元へ引き寄せた。
「返さんのか」
「これは僕の梅ジュースになったもん」
「現金なやつじゃな」
「直樹がくれたんでしょ」
「そいなら、ありがたく飲め」
「いただきます」
早苗はストローを紙パックへ差し込み、一口飲んだ。
甘酸っぱい梅の味が口いっぱいに広がる。
「おいしか」
「そいはよかった」
直樹も自分用に買った飲み物のストローを差し込んだ。こちらは牛乳だった。
早苗は直樹の手元を見て、少し首をかしげる。
「直樹は牛乳なんだ」
「筋肉と身長のため」
「身長、もういらんでしょ」
「俺が欲しかとは筋肉じゃっど」
「牛乳だけで、がっしり体型になれると?」
「飲まんよりはよか」
「僕も牛乳飲んだら背が伸びるかな」
「毎日飲めば、少しは伸びっかもな」
「よし。今日から一日三リットル飲む」
「腹壊すが」
「じゃあ二リットル」
「多か」
「一リットル」
「急に増やすな。普通でよか」
「でも僕、百七十センチくらい欲しかとよ」
「そげん伸びたら、今の早苗じゃなくなる気がすっど」
「何それ」
「小さか体で、教室中かき回しちょっとが早苗じゃっで」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「うるさか」
「ひどか!」
早苗が直樹の腕を軽く叩く。
直樹は牛乳を持ったまま、笑いながら体をそらした。
「こぼるっど」
「僕の乙女心を弄んだ罰」
「まだ言うちょっとか」
「今日は一日言うよ」
「梅ジュースで許してくれたんじゃなかったか」
「ジュースはジュース。乙女心は乙女心」
「面倒くさか仕組みじゃな」
「女心は複雑なの」
「自分で乙女って言い切るところが早苗らしか」
「僕っ子でも乙女は乙女だよ」
「分かった、分かった」
二人は教室の窓際に並んで座り、それぞれの飲み物を飲んだ。
窓の向こうには、鹿児島市の街並みが広がっている。遠くには桜島が見え、白い噴煙がゆっくりと空へ伸びていた。
教室には、休み時間のにぎやかな声が響いている。
誰かが黒板の前で話し、別の誰かが廊下へ走っていく。その中で、早苗と直樹だけは少し落ち着いた時間を過ごしていた。
「直樹」
「何ね」
「ありがと」
「何が」
「梅ジュース」
「朝から笑わせてもろたでな」
「そこは言わんでよか」
「でも、本当に面白かったど」
「僕は大変だったんだからね」
「知っちょっ」
「知っちょって笑ったんでしょ」
「幼なじみの特権じゃ」
「そげな特権いらん」
早苗はそう言いながらも、どこか嬉しそうだった。
直樹もまた、早苗の表情を見て安心したように牛乳を飲む。
幼いころから、二人はいつもこうだった。
早苗が何かを起こし、直樹が笑いながら突っ込む。
直樹が少し不器用なことをすれば、今度は早苗が遠慮なく笑う。
喧嘩をしても、気づけばいつも隣にいる。
それは恋人とも、ただの友人とも少し違う、長い時間を一緒に過ごしてきた二人だけの距離だった。
早苗が梅ジュースをもう一口飲み、満足そうに息を吐く。
「やっぱり梅ジュースは最高じゃっど」
「急におっさんみたいな言い方すんな」
「鹿児島の女子高生だよ、僕は」
「頭はサイヤ人じゃったけどな」
「また言った!」
早苗が勢いよく立ち上がる。
その瞬間、前髪が再びぴょこんと跳ね上がった。
直樹は一度それを見て、必死に笑いをこらえた。
「笑ったら、明日も梅ジュースね」
「もう笑っちょらん」
「肩が震えちょっど」
「気のせいじゃ」
「顔、こっち向けて」
「嫌じゃ」
「直樹!」
教室に、また二人の声が響く。
周りの生徒たちもつられて笑い始めた。
結局、二時間目が始まる直前まで、鹿児島高校一年生の教室には、早苗と直樹が生み出した笑いが途切れることはなかった。




