金メダルのその先へ
第57話「金メダルのその先へ」
ロサンゼルスから帰国して数日。
大石早苗と田中直樹は、日本中から祝福される存在になっていた。
女子100メートル、10秒47。
男子5000メートル、12分34秒88。
二人そろって世界新記録。
二人そろってオリンピック金メダル。
鹿児島へ戻れば、空港にも駅にも人が集まった。
大学には祝福の横断幕が掲げられ、母校の鹿児島高校からも盛大な祝福が届いた。
ところが。
記者会見で、早苗は思いもよらない事実を知らされることになる。
「大石選手」
「はい」
「世界記録を出した決勝の映像なんですが」
早苗が胸を張る。
「はい!」
「その後の『ぷっは〜』の映像のほうが、再生回数が伸びています」
「なんで!?」
会見場が爆笑に包まれた。
隣に座っていた直樹は、驚きもしなかった。
「だろうと思った」
「直樹!」
「世界記録より世界に広がっとるじゃん」
「僕は陸上選手じゃ!」
「知っとるわ!」
しかも海外では、さらに大変なことになっていた。
ケイラ・ブラウン。
エマ・ジョンソン。
さらにはダニエル・キプトゥまで。
練習後に飲み物を口へ運び、
「Puhaaa!」
SNSには次々と動画が投稿された。
早苗は目を輝かせた。
「直樹!」
「嫌な予感しかしない」
「僕の文化が世界文化になった!」
「なってない!」
「国境を越えたよ!」
「越えちゃいけないものが越えたんじゃ!」
会見場がまた笑いに包まれた。
世界一になっても。
二人は変わらなかった。
だが、時間は確実に進んでいた。
大学生活にも、終わりが近づいていた。
金メダルでは解けない問題
秋。
大学の図書館。
早苗は机の上に問題集を広げていた。
幼児教育。
発達心理。
保育原理。
子どもの健康と安全。
教育制度。
さらに実技試験への準備。
その横で、直樹も鉄道事業、安全、運輸、一般教養などの試験対策に取り組んでいる。
二人とも無言だった。
十分。
二十分。
三十分。
早苗の鉛筆が止まった。
「直樹」
「何」
「僕さ」
「うん」
「世界記録出したじゃん」
「出したな」
「10秒47」
「うん」
「これより採用試験のほうが難しくない?」
直樹の鉛筆も止まった。
「奇遇だな」
「え?」
「俺も今、同じこと思っとった」
早苗が顔を上げた。
「だよね!?」
「5000メートル12分34秒で走るほうが気楽だった気がする」
「それ!」
近くで勉強していた学生が二人を見る。
世界記録保持者二人が、
「採用試験怖い」
と真顔で話している。
なんとも奇妙な光景だった。
早苗が問題を見る。
「走るだけなら前に行けばいいじゃん」
「雑な説明だな」
「100メートルなんか特にそうじゃん。スタートして、ゴールまで全力」
「間違ってはいないけど」
「でも試験問題って、どこから攻撃してくるか分からん」
「攻撃って言うな」
「問題用紙開いた瞬間、知らん問題が『こんにちは』するんだよ」
「挨拶してくれるだけ優しいだろ」
「そのあと僕を倒しに来る!」
「試験問題を敵キャラにすんな!」
図書館。
「静かにしてください」
二人。
「すみません……」
大学へ入ってから何度目か分からない注意だった。
早苗の実技試験
幼児教育の採用試験。
早苗には筆記だけでなく、実技も待っていた。
子どもへの読み聞かせ。
簡単なピアノ。
歌。
身体表現。
そして模擬保育。
試験官の前に立った早苗は、オリンピック決勝以上に緊張していた。
「大石さん」
「はい!」
声が大きすぎた。
試験官が少し笑う。
「そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ」
「すみません。オリンピックより緊張してます」
試験官が一瞬止まった。
それもそうだった。
目の前にいるのは、オリンピック金メダリストで世界記録保持者なのだから。
模擬保育。
設定は五歳児クラス。
早苗は子ども役の試験官たちの前に座った。
「今日はね、みんなで動物になってみようと思います」
最初はウサギ。
次はゾウ。
そしてペンギン。
身体を使って表現する。
スポーツ選手としての身体能力は圧倒的だった。
だが、早苗は速さを見せつけない。
子どもが真似できる動き。
子どもの目線。
できたことを認める声かけ。
一人だけ動けない子がいるという設定では、その子を急かさなかった。
「見てるだけでもいいよ。やってみたくなったら、一緒にやろう」
試験官の表情が変わった。
早苗がずっと目指してきたもの。
それは世界一になることだけではなかった。
子どもの隣に座れる大人になること。
その思いは、きちんと伝わっていた。
最後に試験官が尋ねた。
「あなたにとって、幼児教育で一番大切なことは何ですか?」
早苗は少し考えた。
「子どもを、大人の思い通りに動かそうとしないことだと思います」
表情から笑いが消えていた。
「速くできる子もおれば、ゆっくりな子もおる。すぐ話せる子もおれば、なかなか言葉にできない子もおると思います。でも、その子にはその子の時間があるから」
早苗は続けた。
「僕は陸上で、ずっとタイムを縮めてきました。でも子どもの成長まで、タイムで競わせたくありません」
試験官は静かにうなずいた。
直樹の試験
一方。
直樹もJR九州への採用試験に挑んでいた。
一般教養。
適性検査。
面接。
鉄道の仕事では、速さ以上に正確さと安全が求められる。
面接官が尋ねる。
「田中さんは、オリンピックで世界記録を樹立しています」
「はい」
「なぜ競技一本ではなく、鉄道の仕事を目指すのですか?」
直樹は迷わなかった。
「昔から鉄道が好きだったからです」
そして少し間を置いた。
「でも、大学で交通について学んで、好きだから働きたいだけでは駄目だと思うようになりました」
面接官が聞く。
「と言いますと?」
「鉄道は、人の命を預かる仕事だからです」
直樹は続けた。
「競技では、自分が失敗すれば自分が負けます。でも鉄道では、自分の確認不足が多くの人に影響する可能性があります。だから、好きという気持ち以上に責任を持てる人間になりたいです」
面接官がうなずいた。
「世界記録を出した経験は、鉄道の仕事に生かせると思いますか?」
「はい。ただし、記録そのものではありません」
直樹は答えた。
「基本を繰り返すことです」
シニア初戦。
実業団選手から言われた言葉。
速くなればなるほど、基本へ戻れ。
「確認を省略しない。慣れた時ほど基本に戻る。それは競技でも鉄道でも同じだと思っています」
面接官の表情が少し柔らかくなった。
合格発表
数週間後。
早苗のスマートフォンに通知が届いた。
採用試験結果。
「……来た」
指が止まる。
大学受験の合格発表を思い出す。
あの時も怖かった。
早苗は画面を開いた。
数秒。
そして。
「……あった」
その声が震えた。
合格。
幼児教育の道へ。
「やったぁぁぁ!」
家中に声が響いた。
母の美紀が飛んでくる。
父の恒一も。
家族みんなが早苗を祝福した。
その日の夕方。
今度は直樹から連絡が来た。
「早苗」
「どうだった!?」
少しだけ沈黙。
「受かった」
早苗は飛び上がった。
「やったぁぁぁぁ!」
電話の向こうから直樹の笑い声。
「声でかい!」
「だって受かったんじゃん!」
「早苗もだろ?」
「うん!」
二人とも。
自分の脚ではなく。
自分の人生を選ぶために挑戦して。
合格した。
大学卒業
そして春。
卒業式。
今度は高校ではない。
大学生活が終わる。
早苗は幼児教育の資格を取得し、子どもたちと関わる仕事へ進む。
直樹はJR九州鹿児島支社へ。
鉄道員として現場で経験を積みながら、乗務員に必要な知識と技能を身につけていく。
運転士への道には、さらに専門的な訓練と試験が待っていた。
直樹は机上教育と実技訓練を重ねた。
車両。
信号。
閉そく。
運転取扱い。
異常時対応。
確認動作。
指差喚呼。
そして実車を使った訓練。
陸上とはまったく違う。
速ければいい世界ではない。
むしろ。
決められたことを。
決められた手順で。
確実に行う。
その積み重ねだった。
実技訓練の日。
指導員が言った。
「田中君」
「はい」
「競技みたいに速く走らせようと思うなよ」
直樹は苦笑した。
「それは絶対しません」
「世界記録保持者だから念のため言っといた」
「鉄道車両で世界記録狙いませんよ!」
指導員が笑った。
だが訓練が始まると、直樹は真剣だった。
確認。
操作。
速度。
停止位置。
安全。
何度も繰り返す。
失敗すれば復習する。
競技で身につけた、基本へ戻る習慣。
それが生きた。
そして必要な課程と試験を経て。
直樹は鉄道車両を運転するための資格を取得した。
免許を手にした日。
直樹は長い間、その文字を見つめていた。
オリンピックの金メダルとは違う。
でも。
同じくらい嬉しかった。
幼い頃から憧れていた場所へ。
ようやく一歩踏み出したのだ。
もう一つの約束
大学を卒業したあと。
早苗と直樹は、それぞれ社会人として歩き始めた。
早苗は子どもたちの前へ。
直樹は鉄道の現場へ。
競技も続ける。
仕事もする。
二人の生活は、高校や大学の頃より忙しくなった。
それでも。
帰れる日は一緒に帰った。
休みが合えば、一緒に過ごした。
幼稚園から続いてきた関係は、社会人になっても変わらなかった。
ある休日。
二人は、昔から何度も歩いた鹿児島の道を歩いていた。
直樹が突然立ち止まった。
「早苗」
「何?」
「ちょっといい?」
「うん」
直樹の表情が妙に硬い。
早苗が首をかしげる。
「どうしたの?」
「いや……」
世界記録を出したオリンピック決勝より緊張している。
早苗には、それがすぐ分かった。
「直樹」
「何」
「顔、固まっとるよ」
「分かっとる」
「フランケンシュタインみたい」
「今言う!?」
早苗が笑う。
直樹も笑った。
少しだけ緊張がほどける。
そして。
直樹は早苗をまっすぐ見た。
幼稚園から。
小学校。
中学校。
高校。
大学。
世界。
ずっと隣にいた人。
「早苗」
「うん」
「これから先も、俺の隣にいてほしい」
早苗の笑顔が消えた。
目が大きくなる。
直樹は続けた。
「結婚してください」
早苗の目から、ゆっくり涙がこぼれた。
数秒。
返事は決まっていた。
「はい」
そして笑った。
「僕も、ずっと直樹の隣にいたい」
かつて二人が作った言葉。
両隣想い。
その言葉が。
ようやく、次の形へ変わろうとしていた。
そして、夫婦へ
大学卒業後。
二人は結婚した。
長い長い幼なじみ時代。
高校時代の告白。
アトランタ。
大学。
ロサンゼルス。
採用試験。
就職。
すべてを越えて。
大石早苗と田中直樹は、本当に夫婦になった。
結婚披露宴。
大学陸上部の仲間が叫んだ。
「ついに本物の夫婦漫才になったぞ!」
早苗と直樹。
「誰が夫婦漫才じゃ!」
会場。
大爆笑。
早苗が固まった。
直樹も固まった。
黒木沙月が拍手する。
「結婚して最初の夫婦漫才!」
早苗が直樹を見る。
直樹も早苗を見る。
「……否定できなくなった」
「結婚したからね……」
二人は顔を見合わせた。
そして。
笑った。
テーブルには、当然。
梅ジュース。
早苗がグラスを持つ。
直樹が嫌な顔をする。
「まさか披露宴でもやる気?」
早苗はニヤリ。
ゴクゴク。
そして。
「ぷっはぁぁぁ〜! 結婚後のこの一杯、たまらんねぇ!」
会場が爆笑に包まれた。
直樹が叫んだ。
「結婚式で親父飲みすんなぁ!」
「誰が親父じゃ!」
「お前じゃ!」
「僕は新婚のかわいい乙女じゃ!」
「もう人妻じゃ!」
「乙女心は現役じゃ!」
笑い声が響く。
世界一になった日と同じくらい。
いや。
もしかしたら、それ以上に幸せな日だった。
金メダルの先にあったもの。
それは、新しい記録ではなかった。
自分の仕事。
自分の居場所。
そして。
これからも一緒に生きていく人。
世界一のゴールテープを切った二人は。
今度は夫婦として。
人生の次のスタートラインに並んだ。
次回予告
第58話「先生と乗務員」
新婚生活が始まった。
早苗は幼児教育の現場へ。
初めて受け持つ子どもたちを前に、オリンピック金メダリストでも大苦戦。
「先生、走って!」
「先生、鬼ごっこしよう!」
「先生、世界一なんでしょ!」
早苗。
「待って! 先生の競技は100メートル! 一日中走る競技じゃない!」
一方、直樹はJR九州鹿児島支社で現場経験を積み、乗務員として本格的な第一歩を踏み出す。
安全確認。
案内放送。
定時運行。
鉄道の仕事では、世界記録保持者という肩書など関係ない。
そして初めて乗客を乗せて担当する列車。
直樹。
「よし……」
ところが。
休日の早苗が乗っている。
直樹。
「なんでおるんじゃ!」
早苗。
「旦那の仕事見に来た!」
仕事中なのでツッコめない直樹。
さらに子どもたちからは、早苗の「ぷっは〜」がなぜか幼稚園にまで伝染し始める。
早苗。
「僕の文化が幼児教育界にも!」
直樹。
「広げるなぁ!」
次回、第58話。
「先生と乗務員」
世界一の二人にとって、社会人一年目はオリンピックより手強い。




