ロサンゼルスへ
第56話「ロサンゼルス」
2028年夏。
飛行機の窓の向こうに、巨大な都市が見えてきた。
ロサンゼルス。
早苗は窓へ顔を近づけた。
「直樹」
「ん?」
「本当に来たね」
「ああ」
「オリンピックだよ」
四年前とは違う。
アトランタ・ユースオリンピックでは、高校生だった。
世界というものを初めて知った。
ケイラ・ブラウン。
エマ・ジョンソン。
ダニエル・キプトゥ。
三浦拓海。
林田舞。
そこで出会ったライバルたちは、四年間でさらに強くなった。
そして早苗と直樹も、もう高校生ではない。
大学生。
シニア日本代表。
胸には日の丸。
早苗が小さくつぶやいた。
「ここまで来たんだね」
直樹がうなずく。
「でも、まだスタートラインだぞ」
「分かってる」
早苗は笑った。
「ここからでしょ」
ロサンゼルス到着
空港へ降り立つ。
日本代表の一行が到着ロビーへ出た、その瞬間だった。
「Sanae!」
早苗が振り向く。
「ん?」
そして。
「Ume Juice Puhaa Girl!」
「増えとるぅぅぅぅ!」
到着ロビーに早苗の声が響いた。
声の主はケイラ・ブラウンだった。
その隣にはエマ・ジョンソンもいる。
エマが笑う。
「Welcome to Los Angeles, Ume Juice Girl!」
「その呼び方、まだ生きてんの!?」
ケイラがスマートフォンを見せた。
そこには、日本の大学陸上選手たちが練習後に飲み物を飲み、
「ぷっはぁ〜!」
とやっている動画。
早苗の目が輝いた。
「世界にまで届いてる!」
直樹は頭を抱えた。
「終わった……」
「何が?」
「親父飲みが海を渡った……」
「誰が親父じゃ!」
「お前じゃ!」
「僕はかわいい乙女じゃ!」
ケイラがエマを見る。
「They’ve started already.」
「もう始まったね」
エマが笑った。
周囲の海外選手たちまで笑い始める。
その少し離れたところでは、キプトゥが直樹を見つけた。
「Naoki!」
「Daniel!」
二人は握手し、そのまま抱き合った。
キプトゥが笑う。
「Four years.」
「Four years.」
四年前。
アトランタでは直樹が勝った。
だがキプトゥは、その後世界トップクラスへ成長していた。
「This time, I’ll beat you.」
「今度は僕が君に勝つ」
直樹も笑う。
「Try it.」
「やってみろ」
横から早苗が言った。
「直樹、英語だとちょっと格好つけてない?」
「今そこ突っ込むな!」
ロサンゼルス到着から十分も経たず、通常運転だった。
開会式
数日後。
オリンピック開会式。
巨大なスタジアム。
各国の選手たちが入場する。
日本選手団の一員として歩く早苗は、観客席を見上げていた。
数え切れないほどの人。
光。
音楽。
歓声。
「すご……」
直樹が隣を歩く。
「早苗」
「何?」
「口開いとる」
「開くわ、こんなん!」
早苗は笑った。
だが、その目には涙が浮かんでいた。
幼稚園の頃から一緒だった二人。
学校へ歩いた。
部活で走った。
ホークス戦を聴いた。
告白した。
アトランタへ行った。
世界一になった。
受験した。
大学へ進んだ。
シニアに負けた。
そして今。
オリンピックの開会式を、一緒に歩いている。
早苗が小さな声で言った。
「直樹」
「ん?」
「一緒に来られてよかった」
直樹も前を向いたまま答えた。
「俺も」
二人の目の前に、巨大な聖火が灯った。
女子100メートル予選
そして。
陸上競技が始まった。
女子100メートル。
早苗の最初のオリンピック。
予選。
スタートラインへ向かう早苗に、スタンドから大きな歓声が飛ぶ。
「Sanae!」
「Ume Juice Girl!」
さらに別方向から。
「Puhaa Girl!」
早苗が一瞬だけ振り返った。
「もう何でもありじゃん!」
しかし、スターティングブロックへ入ると表情が変わった。
予選第4組。
主な選手は、
大石早苗、日本。
オリビア・ハート、イギリス。
アミナ・オコエ、ナイジェリア。
マリア・サントス、ブラジル。
エレナ・ロッシ、イタリア。
号砲。
早苗は鋭く飛び出した。
30メートル。
トップ。
50メートル。
後続との差を確認する必要すらない。
最後は明らかに余力を残す。
フィニッシュ。
1位 大石早苗 10秒91
スタンドがどよめいた。
予選から10秒91。
早苗は電光掲示板を見て、
「……速く走りすぎた?」
コーチが即答した。
「ちょっとな」
「やっぱり?」
それでも余裕を持って準決勝進出。
別組では、
ケイラ・ブラウン、10秒89。
エマ・ジョンソン、10秒92。
林田舞、10秒97。
世界が完全に10秒台へ突入していた。
男子5000メートル予選
直樹も予選へ。
世界の5000メートルは、四年前とはまったく違っていた。
キプトゥ。
ベケレ。
ムテサ。
そして三浦拓海。
12分30秒台を狙う選手たちが珍しくなくなっている。
直樹の組。
1000メートル。
2分38秒。
2000メートル。
5分16秒。
3000メートル。
7分54秒。
速い。
だが直樹は慌てない。
4000メートル。
10分31秒。
残り1000メートルで集団が一気に動いた。
直樹も反応する。
残り400。
順位を確認。
無理には追わない。
決勝へ進むための位置だけを守る。
フィニッシュ。
田中直樹 12分59秒74 組3着。
決勝進出。
直樹は息を整えながら電光掲示板を見る。
「12分59で予選かよ……」
世界の速度は、そこまで来ていた。
女子100メートル決勝
そして迎えた決勝。
夜のスタジアム。
八人が呼び込まれる。
1レーン 高瀬美羽 日本
2レーン 林田舞 日本
3レーン エマ・ジョンソン アメリカ
4レーン ケイラ・ブラウン ジャマイカ
5レーン 大石早苗 日本
6レーン ソフィア・カーター アメリカ
7レーン ミア・ウィルソン オーストラリア
8レーン アイシャ・ムベキ 南アフリカ
早苗が5レーンへ入る。
ケイラが横を見る。
「Sanae。」
「ん?」
「No puhaa until after the race.」
「ぷっは〜はレース終わってからね」
早苗が吹き出しそうになる。
「分かってるわ!」
会場に笑いが起こる。
だが。
次の瞬間。
静寂。
「On your marks.」
早苗がブロックへ入る。
心臓の音が聞こえる。
アトランタ。
11秒39。
高校最後。
11秒29。
大学。
11秒17。
そして今。
オリンピック決勝。
「Set」
腰が上がる。
パン!
早苗が飛び出した。
完璧だった。
10メートル。
早苗。
20メートル。
ケイラが並ぶ。
30メートル。
エマも来る。
実況が叫ぶ。
「大石! ブラウン! ジョンソン!」
40メートル。
三人が並ぶ。
50メートル。
ケイラがわずかに前。
アトランタの頃なら。
ここから焦った。
今は違う。
早苗は前だけを見る。
60メートル。
早苗が並び返す。
70メートル。
エマ。
ケイラ。
早苗。
三人。
80メートル。
早苗のフォームが崩れない。
肩は低い。
腕が真っすぐ振れている。
「大石が来た!」
90メートル。
半歩。
早苗が前へ出た。
最後の10メートル。
ケイラもエマも追う。
フィニッシュ!
スタジアムが爆発した。
早苗は走り抜けた。
振り返る。
電光掲示板。
判定中。
数秒。
そして。
表示された。
1位 大石早苗 日本 10秒47 WR・OR
世界新記録。
オリンピック新記録。
早苗は動かなかった。
「……え?」
アトランタと同じだった。
「僕?」
表示板をもう一度見る。
10.47。
WR。
「僕……世界記録?」
その瞬間。
両手で顔を覆った。
涙があふれた。
最終結果。
1位 大石早苗 日本 10秒47 世界新記録・オリンピック新記録
2位 ケイラ・ブラウン ジャマイカ 10秒54
3位 エマ・ジョンソン アメリカ 10秒57
4位 林田舞 日本 10秒68
5位 ソフィア・カーター アメリカ 10秒72
6位 ミア・ウィルソン オーストラリア 10秒77
7位 高瀬美羽 日本 10秒81
8位 アイシャ・ムベキ 南アフリカ 10秒86
ケイラが早苗へ抱きつく。
「World record girl!」
エマも来る。
舞も泣いていた。
早苗は泣きながら笑った。
「取っちゃった……」
舞が言う。
「世界記録取った人の感想、それ!?」
男子5000メートル決勝
だが。
まだ終わっていない。
今度は直樹。
男子5000メートル決勝。
16人。
田中直樹。
ダニエル・キプトゥ。
三浦拓海。
エリアス・ベケレ。
ジョナサン・ムテサ。
ヨハネス・テスファイ。
ジョセフ・チェルイヨット。
世界のトップランナーが揃った。
早苗は日の丸を肩にかけたままスタンドへ移動した。
「直樹ー!」
直樹がスタート地点で気づく。
「頑張れー!」
ここまではいい。
早苗が大きく息を吸った。
直樹の顔が引きつる。
「好きー!」
会場が沸いた。
さらに。
「愛しちょるよぉぉぉ!」
直樹が両手で顔を覆った。
実況者が笑う。
「世界記録を出した直後とは思えない大声です」
解説者も笑う。
「田中選手にとっては聞き慣れた応援でしょう」
直樹が小さくつぶやく。
「オリンピックでもやるんか……」
号砲。
5000メートルが始まった。
最初の1000メートル。
2分33秒8。
速い。
2000メートル。
5分05秒9。
世界記録ペース。
3000メートル。
7分37秒2。
まだ落ちない。
直樹は五番手。
キプトゥ。
ベケレ。
ムテサ。
三浦。
直樹。
4000メートル。
10分08秒7。
スタジアムがざわめく。
世界記録が見えている。
残り1000。
キプトゥが上げた。
直樹がつく。
ベケレ。
三浦。
残り800。
ムテサが脱落。
残り600。
三浦が苦しくなる。
三人。
キプトゥ。
ベケレ。
直樹。
鐘。
残り400。
直樹はまだ三番手。
早苗が立ち上がる。
「直樹ぃぃぃ!」
300メートル。
直樹がベケレをかわした。
二番手。
200メートル。
キプトゥが逃げる。
直樹との差、三メートル。
二メートル。
一メートル。
150メートル。
並ぶ。
キプトゥも上げる。
100メートル。
直樹がもう一段階、ギアを上げた。
「田中が出た!」
50メートル。
キプトゥが追う。
直樹。
キプトゥ。
フィニッシュ!
直樹がラインへ飛び込んだ。
時計。
12分34秒88。
会場が揺れた。
表示。
WR
OR
直樹は膝へ手をついた。
顔を上げる。
大型ビジョン。
1位 田中直樹 日本 12分34秒88 WR・OR
世界新記録。
オリンピック新記録。
直樹は両手で頭を抱えた。
「マジかよ……」
最終結果。
1位 田中直樹 日本 12分34秒88 世界新記録・オリンピック新記録
2位 ダニエル・キプトゥ ケニア 12分35秒21
3位 エリアス・ベケレ エチオピア 12分36秒04
4位 三浦拓海 日本 12分37秒18
5位 ジョナサン・ムテサ ケニア 12分38秒40
6位 ヨハネス・テスファイ エチオピア 12分39秒11
7位 ジョセフ・チェルイヨット ケニア 12分40秒03
8位 サミュエル・オチエン ウガンダ 12分41秒52
直樹はキプトゥと抱き合った。
「You did it again.」
「また君にやられた」
直樹が答える。
「That was too close.」
「ギリギリだったよ」
そこへ。
早苗が走ってきた。
「直樹ぃぃぃ!」
「おい、待て!」
ドン。
抱きついた。
「やったね!」
「ああ!」
「二人とも世界記録だよ!」
直樹も、もう笑うしかなかった。
「とんでもないことになったな」
「うん!」
幼なじみの二人が。
同じオリンピックで。
同じ日に。
世界記録。
そして金メダル。
Japanese Comedian Athletes
競技後。
世界中のメディアが集まった。
先に早苗。
インタビュアーが笑顔で紹介する。
「Ladies and gentlemen, Olympic champion, world-record holder, and perhaps the most famous Japanese comedian athlete, Sanae Oishi!」
「皆さん、オリンピックチャンピオン、世界記録保持者、そしておそらく世界で最も有名な日本のコメディアン・アスリート、大石早苗選手です!」
会場が爆笑に包まれた。
早苗は目を丸くした。
「ちょっと待って!」
インタビュアーが笑う。
「What’s wrong?」
「どうしました?」
早苗。
「I’m an athlete!」
「僕はアスリートです!」
さらに笑いが起こる。
直樹が後ろから、
「もう諦めろ」
早苗が振り返る。
「直樹まで!」
インタビュアーが直樹を見る。
「And here is the other Japanese comedian athlete!」
「そして、もう一人の日本のコメディアン・アスリートです!」
直樹。
「俺まで!?」
会場が再び爆笑。
早苗は腹を抱えている。
「直樹も仲間じゃん!」
「お前が巻き込んだんだろ!」
「夫婦漫才ですね」
インタビュアーが言った。
二人。
「まだ夫婦じゃない!」
完璧に重なった。
一瞬。
そして。
スタジアム全体から巨大な笑い声が上がった。
インタビュアーは机へ手をついた。
「Perfect!」
「完璧です!」
直樹が頭を抱える。
「何が完璧なんだよ……」
「最後に、あれを」
インタビューの最後。
インタビュアーが早苗へ尋ねた。
「Sanae, before you go, can we ask you one favor?」
「早苗選手、最後に一つお願いしてもいいですか?」
「What?」
「何?」
インタビュアーがニヤリとする。
「Can you do… that?」
「例の……あれをやってもらえますか?」
早苗は首をかしげる。
「That?」
「あれ?」
会場のどこかから声が飛んだ。
「PUHAAA!」
別方向からも。
「UME JUICE!」
早苗は固まった。
直樹が天を仰いだ。
「世界に完全にバレとる……」
インタビュアーが笑う。
「The famous Ume Juice Puhaa!」
「有名な梅ジュースの『ぷっは〜』です!」
早苗の顔が輝いた。
「Of course!」
「もちろん!」
「やるんかい!」
スタッフが用意していた梅ジュースを早苗へ渡す。
会場から歓声。
早苗がキャップを開ける。
直樹は嫌な予感しかしない。
「早苗」
「何?」
「世界記録保持者になったんだから、ちょっとくらい上品に飲めよ」
早苗がニヤリとする。
「任せて」
直樹はさらに不安になった。
早苗は瓶を持ち上げた。
ゴク。
ゴク。
ゴク。
ゴク。
飲み干す。
一瞬、静寂。
そして。
腰に手。
早苗は満面の笑みで、
「ぷっはぁぁぁぁぁぁぁ〜! この一杯、たまらんねぇ!」
スタジアムが爆発した。
大歓声。
大爆笑。
ケイラは腹を抱える。
エマはしゃがみ込む。
舞は顔を覆う。
キプトゥまで笑っている。
インタビュアーは完全に机へ突っ伏した。
直樹が叫んだ。
「だから親父がビール飲んどるみたいなんじゃ!」
早苗が即座に振り返る。
「誰が親父じゃ!」
「お前じゃ!」
「僕はかわいい乙女じゃ!」
「世界記録10秒47で走る乙女が『ぷっはぁ〜!』って腰に手当てて飲むな!」
「世界記録と飲み方は関係ないじゃん!」
「世界中に放送されとるんだぞ!」
早苗はカメラへ向かって胸を張った。
「Japanese athlete culture!」
直樹。
「違うわぁぁぁぁぁ!」
その瞬間。
ロサンゼルスのスタジアムは、その日最大級の笑い声に包まれた。
世界新記録。
オリンピック新記録。
二つの金メダル。
そして。
世界へ輸出された「ぷっはぁ〜」。
大石早苗と田中直樹。
二人が幼い頃から走ってきた道は、ついにオリンピックの頂点へ届いた。
けれど。
二人の物語は、まだ終わらない。
世界一になったその先にも。
人生という、もっと長いレースが待っている。
次回予告
第57話「金メダルのその先へ」
ロサンゼルスオリンピック。
大石早苗。
女子100メートル、10秒47。
世界新記録。
田中直樹。
男子5000メートル、12分34秒88。
世界新記録。
幼なじみだった二人は、そろってオリンピックチャンピオンとなった。
帰国後。
空港には大勢の報道陣。
鹿児島では家族、恩師、大学の仲間、川端莉央、森山海斗たちが二人の帰りを待っている。
しかし。
記者。
「世界記録を出した瞬間より、『ぷっは〜』の映像のほうが再生されています」
早苗。
「なんで!?」
直樹。
「だろうと思った」
さらに海外では、ケイラやエマをはじめとする選手たちが次々と「ぷっは〜」を再現。
早苗。
「世界文化になった!」
直樹。
「なってない!」
だが、大学生活には終わりが近づいていた。
早苗が目指してきた、幼稚園の先生。
直樹が目指してきた、JR九州の乗務員。
金メダルの先で、二人は今度は「どう生きるか」を選ぶことになる。
そして直樹の胸には、もう一つ。
長い間温め続けてきた未来があった。
早苗と、これからも隣を歩きたい。
次回、第57話。
「金メダルのその先へ」
世界一のゴールテープを切った二人は、人生の次のスタートラインへ向かう。




