世界への切符
第55話「世界への切符」
2028年。
ロサンゼルスオリンピックの年がやってきた。
大学へ進学してから、早苗と直樹はシニアの世界で何度も走った。
勝ったレースもあった。
負けたレースもあった。
自己ベストを更新して喜んだ日もあれば、狙っていたタイムから遠く離れ、二人そろって無言で帰った日もあった。
早苗は、スタートから五十メートルまでの爆発的な加速だけに頼らなくなった。
七十メートル。
八十メートル。
九十メートル。
最後まで肩を上げず、ストライドを崩さず、速度を維持する。
シニア初戦で水野彩香と藤崎玲奈に抜かれた最後の二十メートル。
あの敗北が、早苗の百メートルを変えた。
直樹も同じだった。
速い巡航ペースについていくだけではない。
その状態から残り千メートル。
さらに残り四百メートル。
最後の二百メートル。
何段階にもペースを上げる練習を積み重ねた。
ロサンゼルスへ。
二人は着実に近づいていた。
ただし。
その裏で。
本人たちの知らないところで、もう一つの「大流行」が起きていた。
大学陸上界を襲った謎の文化
ある日の練習後。
早苗は百五十メートルを数本走り終え、トラック脇へ戻ってきた。
「はぁ……きっつぅ……」
宮原琴美がタオルを渡す。
「早苗、お疲れ」
「ありがと」
そこへ黒木沙月がやってきた。
手にはペットボトル。
「じゃあ、いきます」
早苗が首をかしげた。
「何を?」
黒木は飲み物を一気に飲んだ。
そして腰に手を当てる。
「ぷっはぁぁぁ〜! 走ったあとのこの一杯、たまらんねぇ!」
「えっ」
宮原も続いた。
「ぷっはぁぁぁ〜!」
永瀬美琴まで。
「ぷっはぁぁぁ〜!」
石原奈緒。
「ぷっはぁぁぁ〜!」
早苗の目が輝いた。
「おおおお!」
そこへ長距離ブロックが戻ってくる。
松永悠真。
城戸拓海。
有川大輝。
東郷健太郎。
彼らまでドリンクを手にした。
「せーの!」
「ぷっはぁぁぁ〜!」
早苗は両手を広げた。
「僕の文化がめっちゃ広がっとる!」
直樹が頭を抱えた。
「広がらんでいい文化が広がってしまった……」
「何言ってんの! すごいじゃん!」
「どこがだよ!」
「大学陸上界に新しい文化を作ったんだよ、僕!」
「競技文化みたいに言うな!」
黒木が笑いながら言った。
「でもこれ、意外と気持ちいいんよ」
宮原もうなずく。
「練習終わった感がある」
東郷まで、
「俺、最近これやらんと練習終わった気がせん」
と言い始めた。
直樹は愕然とした。
「末期じゃ……」
早苗は胸を張る。
「僕が大学陸上界を変えた」
「親父飲みで変えるな!」
「誰が親父じゃ! 僕はかわいい乙女じゃ!」
「そのかわいい乙女が毎日『ぷっはぁ〜!』ってやっとるんじゃ!」
「乙女にもぷっはぁ〜する権利はある!」
「何の権利だよ!」
周囲の選手たちが一斉に笑った。
宮原が腹を押さえながら言う。
「始まった」
石原がスマートフォンの時計を見る。
「本日の夫婦漫才、午後五時十二分開始」
「記録すんなぁ!」
直樹も叫ぶ。
「そもそも夫婦じゃない!」
黒木が平然と言った。
「大学陸上部ではもう夫婦漫才で登録されとるよ」
「何に登録されとるんですか!」
「みんなの認識」
「一番訂正しにくいやつ!」
また爆笑が起こった。
さらに感染拡大
問題は、早苗たちの大学だけではなかった。
地方大会。
学生競技会。
合同練習。
合宿。
早苗の「ぷっはぁ〜」を見た選手が、自分の大学へ帰って真似をする。
その選手を見た別の選手が真似をする。
いつしか練習後、スポーツドリンクや水、麦茶を飲んで、
「ぷっはぁ〜!」
とやる大学生が増えていた。
ある大会では、女子四百メートルの選手がゴール後に、
「ぷっはぁ〜!」
別の大学では五千メートルの選手が、
「ぷっはぁ〜!」
さらに投てき選手まで、
「ぷっはぁ〜!」
早苗はその動画を見て感動していた。
「直樹」
「何」
「僕の文化、日本中に広がってる」
「日本陸上界はどこへ向かっとるんじゃ……」
「ロサンゼルス?」
「そういう意味じゃない!」
久しぶりの再会
そんな騒動の中。
代表選考会が始まった。
会場へ入った早苗は、女子百メートルのスタートリストを確認する。
水野彩香。
藤崎玲奈。
林田舞。
そして。
早苗の指が止まった。
川端莉央。
「来た」
後ろから声がした。
「先輩」
早苗が振り返る。
「莉央!」
高校時代より身体つきが少し変わっていた。
細身ながら、下半身にはスプリンターらしい強さが増している。
「速くなったね」
莉央が笑う。
「誰のせいだと思っとるんですか」
「僕?」
「高校三年間、一回も勝たせてくれんかった人」
「だから言ったじゃん。負ける気ないって」
「今度こそ勝ちますよ」
早苗が笑う。
「来なよ」
先輩と後輩ではない。
日本代表を争うライバルだった。
そこへ林田舞が現れた。
「早苗!」
「舞!」
アトランタ以来、何度も国内外で戦ってきた盟友。
舞が莉央を見る。
「この子が例の後輩?」
「そう。後半めちゃくちゃ速いよ」
莉央がすぐに返した。
「先輩、それ世界一になる前からずっと言ってますよね」
「本当だもん」
水野と藤崎もやって来る。
シニア初戦で早苗に「基本を忘れるな」と教えた二人だった。
水野が早苗を見る。
「顔つき変わったね」
「そうですか?」
「前より余裕がある」
藤崎が笑う。
「でも梅ジュースは変わってないらしいね」
「そこは変える必要ありません!」
男子5000メートル
一方。
直樹の前にも懐かしい顔が揃った。
三浦拓海。
佐伯圭介。
藤堂雅人。
そして。
「直樹先輩」
直樹が振り返る。
森山海斗だった。
「海斗」
高校時代。
直樹を追い続けた後輩。
インターハイでは13分15秒72まで迫った。
そして今。
さらに強くなって、同じ代表選考会へ来た。
海斗が言う。
「高校卒業の時、言いましたよね」
「何を?」
「次に走る時は、もっと近づきますって」
直樹は笑った。
「ああ」
「今日は」
海斗も笑う。
「追いつきます」
直樹の目が変わった。
「追いついてこい」
その隣で三浦が笑う。
「後輩まで熱いねぇ」
「三浦もいるだろ」
「俺はアトランタからずっとお前追いかけてるからな」
佐伯が腕を組む。
「若いのが増えたな」
藤堂が言う。
「そろそろ俺らも簡単には勝たせてもらえんぞ」
誰も笑ってはいなかった。
全員が本気だった。
女子100メートル代表選考決勝
予選。
準決勝。
早苗は危なげなく通過した。
そして決勝。
スタートリスト。
1レーン 高瀬美羽
2レーン 藤崎玲奈
3レーン 川端莉央
4レーン 大石早苗
5レーン 水野彩香
6レーン 林田舞
7レーン 小野寺真帆
8レーン 黒木沙月
代表枠を懸けた一発勝負。
早苗がブロックへ足を合わせる。
隣には水野。
反対側には莉央。
さらに舞。
高校時代とは違う。
全員が強い。
だから。
面白い。
「On your marks」
腰を下ろす。
早苗は静かに息を吐いた。
基本。
水野から言われた言葉を思い出す。
スタート。
加速。
姿勢。
腕振り。
最後まで力まない。
「Set」
パン!
早苗が飛び出した。
莉央もいい。
水野も速い。
舞も出る。
三十メートル。
早苗がわずかに前。
四十。
五十。
莉央が来る。
高校時代から何度も見てきた、あの後半。
六十。
水野。
舞。
四人が並ぶ。
「大石! 川端! 水野! 林田!」
七十メートル。
早苗は肩を上げない。
力まない。
前を見る。
八十。
莉央が横にいる。
高校時代なら、ここで身体が硬くなった。
今は違う。
早苗は走り続ける。
九十。
水野も来る。
舞も離れない。
フィニッシュ。
四人が駆け抜けた。
会場がどよめいた。
早苗は電光掲示板を見る。
判定。
そして表示された。
1位 大石早苗 11秒17 自己ベスト
2位 川端莉央 11秒20 自己ベスト
3位 水野彩香 11秒22
4位 林田舞 11秒24
5位 藤崎玲奈 11秒29
6位 高瀬美羽 11秒31
7位 小野寺真帆 11秒36
8位 黒木沙月 11秒42
風、プラス1.1メートル。
早苗は口を開けたまま表示を見ていた。
「11秒……17?」
水野が後ろから肩を叩いた。
「基本、忘れなかったね」
早苗は振り返った。
「はい!」
莉央がやって来る。
「また勝てんかった……」
早苗は笑った。
「僕、まだ負ける気ないもん」
「次です」
「もちろん」
そして。
代表内定。
早苗はついに、ロサンゼルスへの切符を大きく引き寄せた。
男子5000メートル代表選考決勝
男子も始まった。
1000メートル。
2分39秒。
2000メートル。
5分18秒。
速い。
しかし直樹は動かない。
3000メートル。
7分57秒。
佐伯。
三浦。
藤堂。
直樹。
海斗。
五人が先頭集団を形成する。
4000メートル。
10分35秒。
ここからだった。
佐伯が上げる。
直樹がつく。
三浦も。
海斗も離れない。
残り800。
藤堂が少し遅れる。
残り600。
三浦が前へ。
直樹は焦らない。
シニア初戦。
ここで反応しすぎた。
今日は違う。
残り400。
鐘。
直樹が動いた。
「田中が来た!」
三浦が反応。
佐伯も追う。
海斗も食らいつく。
残り200。
直樹と三浦。
二人が並ぶ。
アトランタから続く勝負。
残り100。
直樹がもう一段上げた。
フィニッシュ。
結果。
1位 田中直樹 13分09秒84 自己ベスト
2位 三浦拓海 13分10秒21
3位 佐伯圭介 13分11秒06
4位 森山海斗 13分11秒92 自己ベスト
5位 藤堂雅人 13分13秒40
6位 高原慎吾 13分15秒08
7位 東郷健太郎 13分17秒61
8位 城戸拓海 13分21秒32
直樹はフィニッシュ後、大きく息を吐いた。
海斗がやって来る。
「また……届かんかった」
直樹は笑った。
「近づいたな」
「次は追いつきます」
「ああ」
三浦が二人の間へ入る。
「俺もいるからな」
「分かっとる」
三人が笑った。
直樹もまた。
ロサンゼルスへの切符をつかんだ。
二枚の切符
競技終了後。
早苗と直樹はスタンドの下で合流した。
早苗が駆け寄る。
「直樹!」
「早苗!」
「行けるね!」
「ああ」
「ロサンゼルス!」
幼稚園から一緒だった。
高校で世界を知った。
アトランタでユース世界一になった。
大学でシニアに負けた。
そこからもう一度、走り方を作り直した。
そして今。
二人は本物のオリンピックへ向かおうとしていた。
早苗がクーラーバッグを開ける。
直樹が言った。
「まさか」
「もちろん」
梅ジュース。
その瞬間。
周囲の大学生たちまで一斉に飲み物を取り出した。
「え?」
黒木が叫ぶ。
「代表内定記念!」
宮原が続く。
「みんな準備!」
早苗の顔が輝いた。
「おお!」
直樹だけが嫌な予感を覚えた。
「待て」
全員がキャップを開ける。
「せーの!」
ゴクゴクゴク。
そして。
「ぷっはぁぁぁぁ〜!」
競技場の一角に響き渡った。
早苗は感動していた。
「僕の文化が……」
直樹は頭を抱えた。
「親父文化がオリンピック代表選考会まで来てしまった……」
早苗が振り返る。
「誰が親父じゃ!」
「お前だよ!」
「僕はかわいい乙女じゃ!」
「11秒17で走った直後に腰へ手当てて『ぷっはぁ〜!』ってやる乙女がどこにおる!」
「ここにおる!」
「またそれか!」
周囲から大爆笑。
黒木が言った。
「代表内定して最初にやることが夫婦漫才って」
早苗と直樹が同時に叫んだ。
「まだ夫婦じゃない!」
一瞬の静寂。
そして。
さらに大きな爆笑。
宮原が腹を押さえた。
「もう無理。完全に夫婦漫才」
水野まで笑っている。
「ロサンゼルスでもこれやるん?」
早苗が胸を張った。
「世界へ日本文化を!」
直樹が即座に返した。
「日本文化に勝手に登録すんなぁ!」
笑い声が競技場に広がった。
ロサンゼルスへの切符。
二人は、それを自分たちの脚でつかんだ。
しかし。
ここからが本当の勝負だった。
エマ。
ケイラ。
キプトゥ。
世界中のライバルたちもまた、同じ場所を目指している。
早苗は梅ジュースの瓶を握った。
直樹は、その隣に立つ。
今度の舞台は。
ユースではない。
オリンピック。
二人が夢見た場所は、もう目の前まで来ていた。
次回予告
第56話「ロサンゼルス」
2028年夏。
ついに二人はアメリカへ。
四年前ではない。
アトランタ・ユースオリンピックで世界一になった高校生たちは、大学生となり、本物のオリンピック日本代表としてロサンゼルスへ向かう。
そして空港で待っていたのは、懐かしい声。
「Ume Juice Girl!」
早苗。
「その呼び方、まだ生きてんの!?」
ケイラ・ブラウン。
エマ・ジョンソン。
そして男子五千メートルではダニエル・キプトゥ。
アトランタで戦ったライバルたちとの再会。
だが、四年間で世界はさらに速くなっていた。
女子100メートル。
10秒台へ迫る世界。
男子5000メートル。
13分を切る領域へ突入するトップランナーたち。
早苗と直樹は、これまで経験したことのないスピードの中へ飛び込む。
そして選手村では、なぜか日本の大学陸上界で広がった「ぷっはぁ〜」文化が海外選手にまで発見される。
「What’s that?」
早苗。
「Japanese athlete culture!」
直樹。
「違うわぁぁぁ!」
次回、第56話。
「ロサンゼルス」
二人が幼い頃から走り続けた道は、ついにオリンピックのスタートラインへつながる。




