シニアの壁
第54話「シニアの壁」
大学生として迎える、最初の大舞台。
早苗と直樹が立つ場所は、もう高校生だけの大会でも、ユース世代だけの国際大会でもなかった。
学生トップクラス。
日本代表経験者。
そして、企業の看板を背負って走る実業団選手。
日本陸上界の第一線で戦ってきた選手たちが、同じスタートラインに並ぶ。
アトランタで金メダルを獲得した実績など、ここでは関係ない。
速い者が勝つ。
それだけだった。
女子100メートル
決勝のスタートリストが大型モニターに表示された。
1レーン 北川美緒 東日本スポーツ
2レーン 黒木沙月 大学3年
3レーン 大石早苗 大学1年
4レーン 水野彩香 南日本電機
5レーン 藤崎玲奈 中央アスリートクラブ
6レーン 小野寺真帆 東都生命
7レーン 永瀬美琴 大学2年
8レーン 宮原琴美 大学1年
早苗はスタートリストを見つめていた。
水野彩香、25歳。
日本代表経験者。
自己ベスト11秒18。
藤崎玲奈、27歳。
世界大会代表経験を持つ実業団のトップスプリンター。
自己ベスト11秒20。
小野寺真帆も11秒30台を安定して出す選手だった。
黒木沙月が早苗の隣へ来た。
「すごいメンバーやね」
早苗は笑った。
「こういうの待ってた」
黒木が早苗を見る。
「緊張せんの?」
「するよ」
早苗はトラックへ視線を戻した。
「でも、それ以上に走ってみたい」
黒木は少し笑った。
「やっぱ世界一になる人は違うわ」
「いや、僕も普通に怖いよ」
「そうなん?」
「スタート前なんか毎回、お腹痛くなりそうになるもん」
「急に親近感湧いたわ」
招集が始まった。
選手たちがトラックへ向かう。
スタンドでは直樹が見守っていた。
早苗が3レーンへ入る。
軽く跳ねる。
脚を振る。
深呼吸。
その表情から、さっきまでの笑顔が消えた。
実況席から声が響く。
「女子100メートル決勝です。注目は3レーン、大石早苗。高校時代に11秒29を記録し、アトランタ・ユースオリンピックを制した期待の大学一年生です」
「しかし今日は、初めてと言っていいでしょう。国内シニアトップクラスとの真正面からの勝負になります」
早苗がスターティングブロックへ足を合わせる。
「On your marks」
腰を落とす。
「Set」
静寂。
号砲。
パン!
早苗が飛び出した。
速い。
最初の十メートル。
得意の加速局面で前へ出る。
二十メートル。
三十メートル。
早苗がわずかに先行。
実況の声が高くなる。
「大石、いいスタート! 大石が出た!」
四十メートル。
水野が来る。
五十メートル。
藤崎も上がってくる。
「水野が追う! 藤崎も来た!」
六十メートル。
早苗の表情が変わった。
速い。
高校時代なら、この位置から逃げ切れた。
しかし今日は違う。
横から水野が並ぶ。
反対側から藤崎。
七十メートル。
三人がほぼ横一線。
早苗は腕を振る。
脚を前へ運ぶ。
「大石粘る! 水野! 藤崎! 三人並んでいる!」
八十メートル。
水野が半歩前へ。
藤崎もわずかに早苗をかわす。
早苗は食らいつく。
九十メートル。
「水野先頭! 藤崎二番手! 大石も離れない!」
フィニッシュ。
三人がほぼ続けてラインを駆け抜けた。
早苗はそのまま減速し、振り返った。
大型表示板が切り替わる。
1位 水野彩香 11秒21
2位 藤崎玲奈 11秒24
3位 大石早苗 11秒30
4位 小野寺真帆 11秒35
5位 黒木沙月 11秒44
6位 永瀬美琴 11秒50
7位 宮原琴美 11秒59
8位 北川美緒 11秒62
風、プラス0.8メートル。
早苗は表示板を見つめた。
「……速っ」
悔しい。
でも。
なぜだろう。
笑っていた。
水野が早苗のところへ歩いてきた。
「大石さん」
「はい」
「いいスタートだった」
「ありがとうございます」
「五十メートルまでは、完全にやられたと思った」
早苗の目が大きくなる。
水野は続けた。
「でも、そこから力んだね」
早苗の表情が変わった。
自分でも分かっていた。
横にシニアの選手が見えた瞬間。
勝ちたいと思った。
その瞬間、肩にわずかな力が入った。
「世界大会へ行けば、最後の二十メートルでそれを見逃してくれる選手はいないよ」
「はい」
「でも」
水野は笑った。
「あなた、オリンピックでメダル取れるよ」
早苗が顔を上げた。
「え?」
「素質はある」
藤崎も近づいてきた。
「私もそう思う。11秒29を出した高校生ってだけじゃない。走りがまだ完成してない」
「完成してない?」
「だから怖いんよ」
藤崎が笑った。
「まだ伸びるってこと」
水野が言った。
「基本を忘れないこと。スタート。加速。姿勢。腕振り。最後まで力まない。それを積み重ねる」
早苗は深く頭を下げた。
「はい!」
負けた。
でも。
ただ負けただけではなかった。
男子5000メートル
夕方。
今度は直樹の番だった。
男子5000メートル決勝。
主な出場選手は十二人。
田中直樹 大学1年
東郷健太郎 大学4年
有川大輝 大学3年
城戸拓海 大学2年
松永悠真 大学1年
佐伯圭介 九州中央電機
藤堂雅人 南日本自動車
高原慎吾 東都物流
柴崎亮介 中央食品
森川航平 西日本実業団クラブ
石橋健吾 東海エナジー
小松悠斗 北日本スポーツ
実業団勢はいずれも13分10秒台から20秒台を持つ。
早苗がスタンドから叫んだ。
「直樹ー!」
直樹が振り向く。
嫌な予感しかしない。
「頑張れー!」
ここまでは普通。
「好きー!」
直樹が顔をしかめた。
周囲の観客が笑う。
さらに早苗。
「愛しちょるよー!」
直樹が思わず叫び返した。
「今言うなぁ!」
スタンドが沸いた。
実況者まで笑いをこらえている。
「田中選手、スタート前からかなり強烈な応援を受けています」
解説者が答える。
「アトランタでも有名でしたね」
「ええ。耳への負荷も考慮する必要がありそうです」
直樹は額を押さえた。
「全国放送で何言っとるんだ……」
スタート。
序盤は落ち着いた。
1000メートル。
2分41秒8。
2000メートル。
5分22秒4。
実業団勢が前を固める。
直樹は五番手。
3000メートル。
8分03秒1。
速い。
だが直樹はついている。
佐伯。
藤堂。
高原。
柴崎。
その後ろに直樹。
残り二周。
鐘が鳴る前から、実業団勢が動いた。
佐伯が上げる。
藤堂が追う。
高原も行く。
「ここでペースが上がった!」
直樹も反応した。
しかし。
速い。
高校時代とは違う。
一度のスパートではない。
上げた状態から、さらに上げる。
残り600メートル。
直樹が少し離される。
早苗が立ち上がった。
「直樹ー! 粘れー!」
400メートル。
佐伯と藤堂が先頭。
高原。
柴崎。
直樹。
五番手。
「田中も食らいつく!」
直樹は腕を振った。
脚が重い。
それでも前を見る。
残り200メートル。
高校時代なら、ここから抜けた。
だが今日は、前の四人も速い。
フィニッシュ。
結果。
1位 佐伯圭介 13分08秒74
2位 藤堂雅人 13分09秒31
3位 高原慎吾 13分10秒46
4位 柴崎亮介 13分12秒05
5位 田中直樹 13分14秒28
6位 森川航平 13分16秒03
7位 東郷健太郎 13分18秒22
8位 石橋健吾 13分19秒41
9位 有川大輝 13分21秒07
10位 小松悠斗 13分23秒54
11位 城戸拓海 13分27秒18
12位 松永悠真 13分34秒62
直樹は膝に手をついた。
「はぁ……はぁ……」
13分14秒28。
悪くない。
しかし五位。
これがシニアだった。
「基本を忘れるな」
佐伯が直樹のところへ来た。
「田中」
「はい」
「強いな」
直樹は苦笑した。
「五位ですけど」
「大学一年で俺らについてきて、13分14秒だぞ」
藤堂も加わった。
「残り800で一回焦っただろ」
直樹は驚いた。
「分かりました?」
「分かるよ」
藤堂は笑う。
「俺らも昔やったから」
佐伯が言った。
「世界の五千は、今日よりもっとえげつない。速いペースで走って、その状態から最後にまた上げてくる」
直樹は黙って聞いた。
「でも、お前なら世界陸上もオリンピックも狙える」
直樹が顔を上げる。
「本当ですか?」
「お世辞で13分14秒の大学一年に言わんよ」
佐伯は直樹の肩を軽く叩いた。
「基本を忘れるな。速くなればなるほど基本に戻れ」
「はい」
そこへ早苗がやって来た。
「直樹!」
「早苗」
「お疲れ!」
「早苗もな。三位だったんだろ?」
「うん。負けた」
直樹も言った。
「俺も」
二人は顔を見合わせた。
そして。
なぜか同時に笑った。
「シニア、速いね」
「速いな」
それを聞いていた水野が笑う。
「何その嬉しそうな顔」
早苗が答える。
「だって、まだ速くなれるってことでしょ?」
水野は一瞬黙ったあと、笑った。
「やっぱ面白い子だね」
まだ見てないもの
実業団選手たちと話しているうちに、話題はいつの間にかアトランタで有名になった二人の掛け合いへ移った。
藤崎が言った。
「そういえばさ」
「はい?」
「私ら、まだ見てないんやけど」
早苗が首をかしげる。
「何を?」
「夫婦漫才」
早苗と直樹が同時に固まった。
佐伯が笑う。
「海外でも有名なんやろ?」
「The Japanese Comedy Coupleって」
「いやいやいや!」
早苗が慌てる。
直樹も言った。
「俺ら漫才師じゃないですから!」
水野がニヤニヤする。
「でも付き合っとるんやろ?」
「それは……」
早苗が直樹を見る。
直樹も早苗を見る。
「付き合ってますけど」
「じゃあ見せてよ」
「何を!?」
「夫婦漫才」
二人が同時に叫んだ。
「まだ夫婦じゃない!」
一瞬の沈黙。
そして。
実業団選手たちが一斉に吹き出した。
「もう始まっとるやん!」
「息ぴったり!」
「打ち合わせした?」
「してません!」
「そこまでそろう!?」
早苗が頬を膨らませた。
「もう!」
そしてクーラーバッグを開ける。
直樹が察した。
「あ」
早苗が一本取り出す。
梅ジュース。
水野が言った。
「来た」
藤崎も言った。
「本物だ」
「だから何が本物なんですか!」
早苗はキャップを開けた。
ゴクゴクゴク。
腰に手を当てる。
そして。
「ぷっはぁぁぁ〜! 走ったあとの梅ジュースは最高じゃぁ!」
全員が爆笑した。
直樹は額に手を当てた。
「親父がビール飲んどるみたいじゃ」
早苗の眉が跳ね上がった。
「誰が親父じゃ!」
「飲み方が完全にそうだろ!」
「僕はかわいい乙女じゃ!」
「かわいい乙女は『ぷっはぁ〜!』って腰に手当てて飲まん!」
「飲む乙女もおるわ!」
「どこに!?」
早苗が自分を指差した。
「ここ!」
直樹は即座に返した。
「お前だけじゃ!」
水野が腹を抱えた。
藤崎はしゃがみ込んだ。
佐伯は顔を背けた。
藤堂は笑いながら言った。
「なるほど」
「何がですか!」
「世界で有名になるわけや」
「競技のほうで有名になりたいんですけど!」
直樹が言った。
「もう両方で有名だろ」
「直樹まで言うなぁ!」
また笑いが起きた。
シニア初戦。
早苗、三位。
直樹、五位。
二人とも負けた。
それでも。
世界への道が遠ざかったとは、誰も思わなかった。
むしろ二人は初めて知った。
越えるべき壁が、どれほど高いのか。
そして、その壁の向こうに何があるのか。
ロサンゼルスへの道は、簡単ではない。
だからこそ。
走る価値がある。
早苗は飲み終えた梅ジュースの瓶を見つめ、ぽつりと言った。
「次は勝ちたいな」
直樹が隣で答えた。
「俺も」
「じゃあ、また練習だね」
「ああ」
二人は立ち上がった。
ゴールした場所から。
また次のスタートラインへ。
それが、二人の走り方だった。
次回予告
第55話「世界への切符」
2028年。
ロサンゼルスオリンピック代表選考が、いよいよ本格化する。
大学で鍛え続けた早苗と直樹。
シニア初戦で味わった敗北は、二人の走りを大きく変えていた。
早苗は、スタートだけではない。
中盤から後半まで速度を落とさない、新しい百メートルへ。
直樹は、速い巡航ペースからさらにラスト一周を上げる、世界仕様の五千メートルへ。
そして代表選考会。
女子百メートルには水野彩香、藤崎玲奈、林田舞。
さらに急成長した川端莉央も姿を現す。
早苗が笑う。
「来たね、莉央」
莉央も笑う。
「今度こそ勝ちますよ」
男子五千メートルには佐伯圭介、藤堂雅人、三浦拓海。
そして森山海斗。
高校時代から続く因縁と、新しいライバルたちが一つのスタートラインへ集まる。
ここで勝たなければ、ロサンゼルスには行けない。
次回、第55話。
「世界への切符」
ユース世界王者だった二人が、今度は日本代表の座を自分の脚でつかみにいく。




