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となりのスタートライン  作者: リンダ


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ロサンゼルスへの第一歩

第53話「ロサンゼルスへの第一歩」


四月。


大学生活が始まって間もない頃、早苗と直樹は大学陸上部で本格的な練習を始めていた。


高校時代とは、何もかもが違った。


練習量。


筋力トレーニング。


身体のケア。


栄養管理。


そして、周囲の選手たちのレベル。


高校では全国大会優勝者だった選手が、ここでは珍しくない。


学生選手権の入賞者もいる。


シニアの日本選手権に出場経験を持つ上級生もいる。


早苗も直樹もアトランタ・ユースオリンピックの金メダリストだったが、大学陸上部では過去の肩書だけで特別扱いされることはなかった。


それは二人にとって、むしろ心地よかった。


新しい仲間たち


短距離ブロックには、早苗と同じ大学一年生の選手もいた。


女子百メートルの宮原琴美。


高校時代の自己ベストは11秒58。スタートよりも中盤以降に強いタイプだった。


同じく一年生の石原奈緒は百メートルと二百メートルを専門とし、百メートル11秒64、二百メートル23秒72。


男子短距離には川野翔平。百メートル10秒32の自己ベストを持つ。


そして上級生。


三年生の女子短距離ブロック長、黒木沙月。


百メートル自己ベスト11秒43。


二年生の永瀬美琴は11秒49。


四年生の野村千尋は二百メートルを主戦場とし、百メートルでも11秒55を持っていた。


長距離ブロックにも強者が揃っていた。


直樹と同じ一年生の松永悠真。五千メートル13分32秒台。


二年生の城戸拓海。13分24秒台。


三年生の有川大輝。13分18秒台。


そして長距離ブロック長の四年生、東郷健太郎は13分16秒台。


入部初日。


東郷は直樹に言った。


「田中。ここじゃアトランタの金メダルは一回忘れろ」


直樹は黙ってうなずいた。


「はい」


「お前が13分13秒台持っとることは知っとる。でも、大学に入ったら身体も変わる。レースも変わる。相手も変わる」


「分かってます」


東郷は笑った。


「その顔なら大丈夫そうやな」


その少し離れた場所では、黒木が早苗に同じような話をしていた。


「大石さんも、11秒29は一回置いとこうか」


「はい」


「ユースで世界一になったことも」


「はい」


「梅ジュース六・五リットルも」


「はい……って、なんでそれまで知ってるんですか!」


短距離ブロックから笑いが起こった。


大学へ来ても、伝説は生きていた。


大学生の身体へ


早苗の練習にも、新しい要素が加わった。


高校時代以上に細かく管理されたウエイトトレーニング。


スタート直後の三十メートル。


加速局面。


最高速度。


最高速度の維持。


八十メートル以降に肩が上がらないためのフォーム修正。


さらに、これまで以上に臀部やハムストリングス、体幹を使う走りへ移行していく。


ただ筋肉を増やせばいいわけではない。


百メートルに必要な出力を高めながら、早苗本来の軽い動きを失わない。


直樹も同じだった。


高校時代より長い距離を踏む一方、五千メートルのスピードを落とさない。


ロングラン。


閾値走。


千メートルのインターバル。


四百メートル。


二百メートル。


さらに大学生になってからは、レース終盤の残り千メートルを想定した高速走が増えた。


二人はもう、成長途中の高校生ではない。


世界のシニア選手と戦う身体を作り始めていた。


「トォリャー!」


その日の短距離ブロックでは、百メートルの全力走が行われた。


早苗。


黒木沙月。


永瀬美琴。


宮原琴美。


石原奈緒。


五人が並ぶ。


黒木が隣を見る。


「大石さん、本気?」


「もちろんです」


「一回、一緒に走ってみたかったんよ」


「僕もです」


黒木が一瞬止まった。


「本当に僕って言うんだ」


「そこ!?」


宮原が笑う。


「動画で見たまんまだ」


「僕の一人称まで研究せんでよ!」


スタート位置につく。


空気が変わった。


さっきまで笑っていた早苗の目から、柔らかさが消える。


宮原がその横顔を見て息をのんだ。


これが。


11秒29。


ユース世界王者。


「位置について」


腰を上げる。


静寂。


「よーい」


パン!


早苗が飛び出した。


一歩。


二歩。


三歩。


低い姿勢から猛烈に加速する。


黒木も速い。


永瀬も食らいつく。


三十メートル。


早苗がわずかに前へ出る。


四十メートル。


身体が起きる。


五十メートル。


その瞬間だった。


「トォリャァァァー!」


全力疾走しながら、早苗が叫んだ。


黒木の目が一瞬だけ見開かれた。


宮原も、


「えっ!?」


と反応しかける。


それでも早苗は走る。


六十。


七十。


八十メートル。


「トォリャァァァァ!」


再び叫ぶ。


そのままゴール。


電光表示。


大石早苗 11秒34


追い風、プラス0.6メートル。


黒木沙月、11秒47。


永瀬美琴、11秒53。


宮原琴美、11秒61。


石原奈緒、11秒67。


早苗はゴールを抜け、ゆっくり減速した。


「はぁ……はぁ……」


振り返る。


妙に静かだった。


「……何?」


黒木が下を向いた。


肩が震えている。


「先輩?」


「ちょ……待って……」


宮原も口を押さえている。


永瀬も笑いをこらえている。


石原は完全に後ろを向いていた。


「何なの?」


黒木が耐えきれなくなった。


「アハハハハハ!」


一斉に全員が吹き出した。


「なんで!?」


宮原が腹を押さえる。


「全力の百メートルで声出しながら走る人、初めて見た!」


「え?」


「しかも二回!」


永瀬も笑いながら言う。


「五十メートルぐらいで『トォリャー!』って!」


石原が続ける。


「八十メートルでもう一回!」


早苗は真顔だった。


「気合い入るじゃん」


「入るんだ!?」


黒木が膝に手をついた。


「こっちは集中切れかけたわ!」


「僕のせい!?」


「大石さん、世界大会でも叫んでたの?」


「いや、公式戦では叫ばんよ」


「そこは冷静なんだ!」


また爆笑が起きた。


そして恒例行事


早苗は荷物置き場へ向かった。


クーラーバッグを開ける。


一本の瓶を取り出した。


宮原が嫌な予感のする顔になる。


「まさか……」


「何?」


「それ……」


「梅ジュース」


黒木が天を仰いだ。


「本物だ」


「何が!?」


早苗はキャップを開けた。


ゴクゴクゴク。


そして。


「ぷっはぁぁぁ〜! 走ったあとのこの一杯、たまらんねぇ!」


沈黙。


一秒。


二秒。


短距離ブロック全員が崩れた。


「アハハハハハ!」


「出たぁ!」


「本物だぁ!」


「動画と一緒!」


早苗は目を丸くした。


「なんで笑うの!?」


黒木は腹を抱えている。


「十八歳の女子大学生の飲み方じゃない!」


「梅ジュースだよ!?」


「分かっとるわ!」


「お酒じゃないよ!?」


「そこじゃない!」


そこへ長距離練習を終えた直樹が戻ってきた。


「何の騒ぎ?」


宮原が直樹を指差した。


「田中君! 大石さん、百メートル走りながら『トォリャー!』って叫んだあと、梅ジュース飲んで『ぷっはぁ〜!』って!」


直樹は一切驚かなかった。


「ああ」


全員が止まった。


「ああ!?」


直樹は早苗を見る。


「いつもの早苗じゃん」


「いつもの!?」


大学陸上部員たちに、新たな衝撃が走った。


世界は待ってくれない


練習後。


ミーティングルームのモニターに、最新の世界記録ランキングが映された。


エマ・ジョンソン。


ケイラ・ブラウン。


林田舞。


さらにソフィア・カーターやミア・ウィルソン。


高校時代には年下だった高瀬美羽も、急速に記録を伸ばしていた。


男子五千メートルでは。


ダニエル・キプトゥ。


三浦拓海。


エリアス・ベケレ。


ジョセフ・チェルイヨット。


アトランタで出会った名前。


これから戦う名前。


直樹は画面を見つめた。


ユースでは、自分が勝った。


しかし、その結果はもう過去だ。


早苗もランキングを見る。


「みんな、速くなってる」


直樹が隣から尋ねた。


「怖い?」


早苗は首を横に振った。


笑っていた。


「ううん。めちゃくちゃ楽しみ」


その言葉を聞いた黒木が、少し驚いたように早苗を見る。


早苗は本気だった。


追われる。


追いつかれる。


抜かれるかもしれない。


だったら、自分も速くなればいい。


直樹も画面のキプトゥの名前を見つめた。


「俺も同じだな」


「でしょ?」


「また走りたい」


早苗がニヤリとする。


「今度も僕が先に金メダル取ろうかな」


「種目違うだろ」


「じゃあ先に競技があるほうが勝ち」


「それ勝負って言わないから」


後ろで宮原が小声で言った。


「始まった」


石原が尋ねる。


「何が?」


「夫婦漫才」


早苗と直樹が同時に振り返った。


「まだ夫婦じゃない!」


部屋が爆笑に包まれた。


高校を卒業しても、そこだけは変わらなかった。


大学生としての初陣


数週間後。


大学生になった二人に、最初の大きな公式戦が訪れた。


女子百メートル。


男子五千メートル。


大学トップ選手だけでなく、社会人選手もエントリーしている。


これまでとは違う。


高校生の大会ではない。


ユース大会でもない。


シニアの世界だ。


ウォーミングアップエリア。


早苗がスパイクの紐を締める。


隣には黒木沙月。


そして国内の実業団選手たち。


早苗は一度、大きく息を吐いた。


「よし」


直樹も五千メートルの招集を待ちながら、シューズを確認している。


二人の視線が合った。


早苗が拳を出した。


「行ってくる」


直樹も拳を合わせる。


「行ってこい」


「直樹もね」


「ああ」


早苗は招集所へ歩き出した。


数歩進んで、振り返る。


「直樹!」


「何?」


「終わったら梅ジュース!」


「今それ言う!?」


早苗は笑って、前を向いた。


スタンドから笑い声が起きる。


けれど、その直後。


早苗の表情が変わった。


百メートルのスタートライン。


シニアの世界への最初の一歩。


そして、その先には。


2028年。


ロサンゼルス。


ユース世界王者だった二人が、今度は本物のオリンピックを目指す。


新しい戦いが始まろうとしていた。


次回予告


第54話「シニアの壁」


大学生として迎える最初の大舞台。


女子百メートルには、早苗より年上の日本代表経験者や実業団のトップスプリンターが並ぶ。


スタートリストを見た早苗は笑う。


「こういうの待ってた」


黒木沙月が驚く。


「緊張せんの?」


「するよ。でも、それ以上に走ってみたい」


高校時代には味わえなかった、シニア選手の強さ。


スタート。


加速。


最高速度。


そして最後の二十メートル。


11秒29の早苗が、初めて真正面から「大人の世界」とぶつかる。


一方、男子五千メートル。


直樹の前にも、学生長距離界の強豪と実業団ランナーが立ちはだかる。


千メートル。


二千メートル。


三千メートル。


そして残り二周から、一気に上がるペース。


アトランタとは違う。


誰も直樹をユース選手として見てくれない。


ただ一人の競争相手として潰しに来る。


大学生になった早苗と直樹は、シニアの世界でどこまで通用するのか。


次回、第54話。


「シニアの壁」


ロサンゼルスへの道は、最初から簡単ではない。

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