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となりのスタートライン  作者: リンダ


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卒業――そして大学へ

 第52話「卒業――そして大学へ」


 三月。


 鹿児島にも、少しずつ春の気配が近づいていた。


 桜島は今日も錦江湾の向こうにどっしりと構え、その麓を走る車も、鹿児島中央駅を発着する列車も、いつもと変わらない一日を運んでいる。


 けれど、大石早苗と田中直樹にとって、その朝だけは少し違っていた。


 早苗が制服姿で家を出ると、門の前にはすでに直樹が立っていた。


「おはよう」


「おはよう、直樹」


 いつもの挨拶。


 何百回と繰り返してきたやり取りだった。


 それなのに、二人とも少しだけ立ち止まった。


 早苗が自分の制服の袖を見る。


「これ着て学校行くの、今日で最後なんだね」


「そうだな」


「なんか変な感じ」


「三年間着たからな」


「最初の頃、僕、朝から髪の毛とんでもないことになってたよね」


 直樹は吹き出した。


「高校生活最後の日に、そこから振り返るんか」


「だって、あれが始まりじゃん」


「スーパーサイヤ人みたいになっとったぞ」


「乙女心を弄ぶな〜!」


 三年前とほとんど同じツッコミが、住宅街に響いた。


 結局、最後の日まで二人は二人だった。


 二人は並んで歩き始める。


 世界大会へ向かった日も。


 金メダルを持って帰ってきた日も。


 大学受験の日も。


 何でもない朝も。


 ずっと歩いてきた道だった。


 そして今日が、高校生として歩く最後の日になる。


「直樹」


「何?」


「僕たち、高校生活終わるんだね」


「うん」


「いろいろあったね」


「ありすぎ」


「髪の毛スーパーサイヤ人から始まって」


「だからそこから振り返るなって!」


 早苗の笑い声が、春の朝に広がった。


 卒業式


 鹿児島高校の体育館には、卒業生と保護者が集まっていた。


 大石家では恒一、美紀。


 田中家では克也、真由美。


 家族たちは少し離れた保護者席から、制服姿の二人を見つめていた。


 世界大会の表彰台に立つ姿とは違う。


 金メダルもない。


 日の丸もない。


 ただの高校生として迎える卒業式だった。


 卒業証書授与。


 名前を呼ばれた早苗が立ち上がる。


「大石早苗」


「はい!」


 体育館に、よく通る声が響いた。


 壇上へ向かう。


 今度は転ばない。


 アトランタの表彰式で、


「Running is easier than walking now.」


 とまで言っていた本人としては重要案件である。


 証書を受け取る。


 一礼。


 そして無事に階段を降りた。


 席に戻った瞬間、隣の直樹が小声で言った。


「転ばんかったな」


「そこ心配してたの!?」


 危うく卒業式の最中にツッコミが響くところだった。


 続いて。


「田中直樹」


「はい」


 直樹が立つ。


 早苗は、その背中を見つめた。


 幼稚園の頃から知っている。


 小学校。


 中学校。


 そして高校。


 いつの間にか、自分よりずっと背が高くなった。


 いつの間にか、五千メートルで世界一になった。


 そしていつの間にか。


 ただの幼なじみではなくなった。


 直樹が証書を受け取り、戻ってくる。


 早苗は小さな声で言った。


「卒業おめでとう」


 直樹も小さく答えた。


「早苗もな」


 式の最後。


 校歌が体育館いっぱいに響いた。


 早苗は歌いながら、少しだけ声を震わせた。


 三年間。


 走った。


 笑った。


 負けた。


 勝った。


 泣いた。


 恋をした。


 世界へ行った。


 世界一になった。


 そして勉強した。


 三平方の定理が阿波踊りを踊り、桜島で噴火し、錦江湾へ流され、最終的には桜島フェリーで帰還するという壮絶な事故も起きた。


 それでも最後には、ちゃんと問題を解けるようになった。


 校歌が終わった。


 高校生活も終わった。


「お前たちは、まだ途中だ」


 式のあと、陸上部員たちはグラウンドへ集まった。


 有馬剛志監督が待っていた。


 三年間、何度も走ったトラック。


 早苗はスタートラインへしゃがみ込み、白線を指で触った。


「ここから始まったんだね」


 有馬が笑った。


「正確には、お前は入学前から走っとったけどな」


「感動してるんだから細かいこと言わんでください」


「はいはい」


 後輩たちも集まってくる。


 その中から、川端莉央が前へ出た。


「先輩」


「ん?」


 莉央は少しだけ悔しそうに笑った。


「卒業するまで、一回も勝たせてもらえませんでした」


 早苗はニッと笑った。


「言ったじゃん。負ける気ないって」


「最後まで本当に勝たせてくれんかったですね」


「僕だって必死だったんだよ。莉央、後半めちゃくちゃ速いんだから」


 莉央は一度うつむき、それから早苗をまっすぐ見た。


「大学行っても勝負してください」


 早苗の答えに迷いはなかった。


「もちろん」


 二人は拳を軽く合わせた。


 高校では最後まで早苗が勝った。


 けれど、二人の勝負が終わったわけではない。


 次に会えば。


 早苗はもう先輩ではない。


 同じ一人のスプリンターだ。


 一方。


 森山海斗は直樹の前に立っていた。


「直樹先輩」


「おう」


「次に走る時は、もっと近づきます」


 直樹は笑った。


「追いついてこい」


「はい」


「でも、追いつかれるの待つつもりはないからな」


「分かってます」


 海斗も笑った。


 有馬は少し離れた場所から、その光景を見ていた。


 そして最後に言った。


「早苗。直樹」


「はい」


「お前たちは世界一になった。インターハイでも勝った。大学にも受かった」


 二人は黙って聞く。


「でもな」


 有馬はトラックを指した。


「お前たちは、まだ途中だ」


 早苗と直樹は顔を見合わせた。


「大学へ行けば、もっと速いやつがおる。世界へ出れば、アトランタで戦った連中もさらに速くなっとる」


 エマ・ジョンソン。


 ケイラ・ブラウン。


 林田舞。


 ダニエル・キプトゥ。


 三浦拓海。


 そして、これから世界へ出てくる新しい世代。


「次はユースじゃない」


 有馬が言った。


「本当のオリンピックだ」


 早苗の表情が変わった。


 直樹もまっすぐ前を見る。


「2028年」


 有馬は続けた。


「ロサンゼルス」


 早苗が小さく息を吸った。


 もう、遠い未来ではなかった。


 最後の一本


「じゃあ最後に一本走るか」


 有馬の言葉に、早苗が顔を上げた。


「百メートル?」


「違う」


「え?」


「全員で一周」


 早苗は吹き出した。


「僕、四百メートル専門じゃないんですけど」


「卒業記念ランで専門種目とか言うな」


 陸上部全員がトラックに並んだ。


 早苗。


 直樹。


 莉央。


 海斗。


 結菜。


 颯太。


 美桜。


 拓真。


 先輩も後輩も関係ない。


 有馬が手を上げる。


「位置について」


 誰もクラウチングスタートをしない。


「よーい」


 パン。


 全員が走り出した。


 もちろん、本気ではない。


 笑いながら走る。


「早苗先輩、速い!」


「卒業記念で抜かすなぁ!」


「直樹先輩、待ってください!」


「これジョギングだぞ!」


「美桜、梅ジュース持ってきた!?」


「ゴールにあります!」


「よっしゃぁ!」


「梅ジュースで加速すんなぁ!」


 最後まで。


 鹿児島高校陸上部らしい一周だった。


 ゴールすると、早苗は両膝に手をついた。


「はぁ……はぁ……」


 莉央が首をかしげる。


「先輩、百メートル世界一ですよね?」


「四百メートルは別競技!」


 直樹が即座に言った。


「またそれか!」


 笑い声がグラウンドいっぱいに広がった。


 新しい春


 そして四月。


 二人は大学生になった。


 同じ大学。


 けれど学ぶ分野は違う。


 早苗は保育・幼児教育の道へ。


 直樹は交通・鉄道に関わる分野へ。


 大学の正門前。


 真新しい服を着た二人が並んで立っていた。


 早苗がキャンパスを見上げる。


「広っ」


「高校とは全然違うな」


「迷子になりそう」


「地図見ろ」


「直樹がいるから大丈夫」


「俺を構内ナビ扱いすんな」


「鉄道オタクなんだから地図強いじゃん」


「大学は鉄道路線じゃない!」


 入学初日から通常運転だった。


 けれど。


 二人には、もう一つの場所が待っている。


 大学陸上部。


 グラウンドへ向かうと、すでに多くの選手が練習していた。


 高校時代とは明らかに違う。


 体格。


 スピード。


 筋力。


 フォーム。


 大学日本トップクラスの選手たちがいる。


 さらに社会人選手との合同練習も予定されていた。


 早苗はトラックを見つめた。


 その顔には、不安よりも楽しさが浮かんでいた。


「直樹」


「何?」


「またゼロからだね」


 直樹も笑う。


「そうだな」


 早苗はスタートラインへ歩いていく。


 大学生として初めて立つ白線。


 アトランタの金メダリスト。


 高校女子百メートル11秒29。


 それでも。


 この線の前では、ただの一人のランナーだ。


 早苗がスパイクの位置を確かめる。


 直樹も、少し離れた五千メートルのスタート地点を見る。


 次の目標。


 2028年。


 ロサンゼルスオリンピック。


 ユースではない。


 世界中のトップアスリートが集まる、本物のオリンピック。


 早苗が振り返った。


「直樹!」


「ん?」


「ロサンゼルス、一緒に行こうね!」


 直樹は笑った。


「ああ」


 そして付け加えた。


「ただし」


「何?」


「梅ジュース六・五リットルは持ってくんなよ」


 一秒。


 早苗の顔が固まった。


「まだ言うかぁぁぁぁ!」


 大学のグラウンドに、初日から早苗のツッコミが響き渡った。


 周囲の大学生たちが一斉に振り向く。


「……あれが大石早苗?」


「世界一の?」


「梅ジュースの?」


 早苗の耳がピクリと動いた。


「待って」


 直樹は嫌な予感がした。


「早苗」


「なんで大学にまで梅ジュース伝説が広がってんのぉぉぉ!」


 世界一になっても。


 高校を卒業しても。


 大学生になっても。


 やっぱり二人は変わらない。


 ひとつのゴールは、次のスタートラインになる。


 二人の前には今、新しい白線が伸びていた。


 その先にあるのは、ロサンゼルス。


 そして。


 まだ二人自身も知らない、もっと長い人生だった。


 次回予告


 第53話「ロサンゼルスへの第一歩」


 大学陸上部で、本格的なトレーニングを開始した早苗と直樹。


 高校時代とは違う練習量。


 違う身体づくり。


 そして何より、二人はもう「高校生世界王者」ではなく、シニアの世界へ挑む一人のアスリートになる。


 そんな中、海外から届く記録。


 エマ・ジョンソン。


 ケイラ・ブラウン。


 そしてダニエル・キプトゥ。


 アトランタで戦ったライバルたちも、すでに2028年を見据えて動き始めていた。


 さらに日本国内では林田舞、三浦拓海。


 そして高校時代にはまだ年下だった新世代も急成長する。


 早苗は最新ランキングを見て笑う。


「みんな、速くなってる」


 直樹が尋ねる。


「怖い?」


 早苗は首を横に振る。


「ううん。めちゃくちゃ楽しみ」


 そして迎える、大学生として最初の大きな公式戦。


 早苗の百メートル。


 直樹の五千メートル。


 ロサンゼルスへの道が、ここから本格的に始まる。


 次回、第53話。


「ロサンゼルスへの第一歩」


 卒業は、終わりじゃない。


 二人はもう一度、世界へ向かって走り始める。

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