↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
となりのスタートライン  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
58/58

先生と乗務員

 第58話「先生と乗務員」


 結婚して迎えた、最初の春。


 大石早苗は、田中早苗になった。


 そして田中直樹もまた、人生で初めて「夫」と呼ばれるようになった。


 幼稚園から一緒だった二人が、同じ家からそれぞれの職場へ向かう。


 早苗は幼児教育の現場。


 直樹はJR九州鹿児島支社。


 さらに二人には、もう一つの顔があった。


 現役アスリート。


 ロサンゼルスオリンピック金メダリスト。


 世界記録保持者。


 結婚したからといって、二人は走ることをやめなかった。


 むしろ新しい生活の中で、どう競技を続けるのか。


 新たな挑戦が始まっていた。


 早苗先生、初出勤


 朝。


 鏡の前で早苗は何度も髪を確認していた。


「よし」


 後ろから直樹がのぞく。


「今日はスーパーサイヤ人じゃないな」


 早苗が振り返った。


「新婚初年度から乙女心を弄ぶなぁ!」


「何年前のネタ引っ張ってくるんだよ」


「僕は一生覚えとるからね」


 直樹が笑った。


 早苗は通勤用の鞄を持つ。


「じゃ、行ってきます」


「頑張れ、早苗先生」


 早苗が止まった。


「……今の、もう一回言って」


「早苗先生」


 早苗の顔が緩んだ。


「へへへ」


「何その顔」


「だって、ずっとなりたかったんだもん」


 その一言だけは、ボケでも何でもなかった。


 直樹は笑った。


「行ってこい、先生」


「行ってきます!」


 ところが。


 出勤して一時間もしないうちに。


 早苗は知ることになる。


 世界最速の女性でも、幼稚園児には簡単には勝てない。


「早苗先生!」


「何?」


「走って!」


「いいよ!」


 別の子が来る。


「先生、鬼ごっこ!」


「よし!」


 さらに別の子。


「先生、世界一なんでしょ!」


「まあね!」


「じゃあ捕まえて!」


 十数人が一斉に逃げた。


「待て待て待て!」


 園庭いっぱいに子どもたちが散る。


「先生こっち!」


「早苗先生遅い!」


「世界一なのに遅い!」


「ちょっと待って!」


 早苗は叫んだ。


「先生の競技は100メートル! 一日中走る競技じゃない!」


 子どもたちは大爆笑。


「先生疲れたの?」


「疲れるわ!」


「オリンピックで走ったのに?」


「オリンピックでも100メートルしか走っとらん!」


 職員室の先生たちまで笑っていた。


 一人の先輩教諭がつぶやく。


「金メダリストを一時間で消耗させるとは……」


 隣の先生が答える。


「幼稚園児、恐るべし」


 先生は世界記録保持者


 やがて子どもたちも、早苗の過去を知った。


 園に飾られた写真。


 日の丸を背負う早苗。


 首には金メダル。


 ある男の子が尋ねた。


「先生、本当に世界一なの?」


「本当だよ」


「世界で一番速いの?」


「100メートルならね」


 女の子が手を上げる。


「ゾウより?」


「え?」


「ゾウと競走した?」


「してない!」


「チーターより?」


「チーターには勝てん!」


「じゃあ世界一じゃないじゃん」


「人間の女子100メートルの世界一!」


 子どもたち。


「難しい!」


 早苗は頭を抱えた。


「世界記録の説明、こんな難しかったっけ……」


 しかし。


 早苗は楽しかった。


 泣いている子がいれば、しゃがんで話を聞く。


 靴が履けない子がいれば、一緒にやる。


 友達同士でけんかすれば、双方の言葉を聞く。


 速くできなくても急かさない。


 大学の採用試験で語った、


「子どもには、その子の時間がある」


 その言葉を、毎日の仕事で実践していた。


 一方、直樹


 鹿児島中央駅。


 直樹は制服姿でホームに立っていた。


 競技場とは違う緊張感。


 列車。


 ホーム。


 信号。


 乗客。


 時計。


 すべてを見る。


 先輩乗務員が言った。


「田中、競技場と違ってフライングしてもやり直しはないぞ」


「分かってます」


「安全第一」


「はい」


 ここでは12分34秒88も、オリンピック金メダルも関係ない。


 確認。


 指差喚呼。


 扉扱い。


 放送。


 異常がないことを確かめる。


 一つずつ。


 直樹は基本を繰り返した。


 やがて、乗客を乗せて担当する最初の列車の日が来た。


 直樹は深く息を吐いた。


「よし……」


 車内を確認する。


 その時だった。


 見覚えのある小柄な女性が座っている。


 目が合った。


 ニコッ。


 直樹の顔が固まった。


 早苗だった。


 口だけが動く。


「なんでおるんじゃ……」


 早苗も口だけで返す。


「旦那の仕事見に来た!」


 直樹はツッコみたい。


 猛烈にツッコみたい。


 しかし勤務中。


 我慢する。


 早苗は笑いをこらえている。


 直樹は仕事へ戻った。


 案内放送。


「ご乗車ありがとうございます――」


 いつもの直樹とは違う。


 落ち着いている。


 聞き取りやすい。


 安全に関わる案内は簡潔で正確。


 早苗は黙って聞いていた。


 やがて、その表情が柔らかくなった。


 幼い頃から、直樹がずっと憧れていた仕事。


 本当に乗務員になった。


 列車が駅へ到着する。


 停車。


 扉が開く。


 早苗は降りる時、小さな声で言った。


「かっこよかったよ」


 直樹は勤務中なので、大げさには反応しない。


 ほんの少しだけ笑った。


「ありがとうございます」


 早苗も笑う。


「また乗ります」


「ご利用お待ちしております」


 列車が発車してから。


 直樹は心の中で思った。


 帰ったら絶対ツッコむ。


 夜の夫婦漫才


 帰宅。


 玄関が開いた。


「ただいま」


 早苗が台所から顔を出す。


「おかえり!」


 直樹は鞄を置いた。


「早苗」


「何?」


「なんで乗っとったんじゃ!」


「旦那の晴れ舞台じゃん!」


「仕事だわ!」


「ちゃんとお客さんとして乗ったよ」


「それは分かっとる!」


「放送、かっこよかった」


 直樹が止まる。


「……ありがと」


 早苗がニヤニヤする。


「照れた?」


「照れてない」


「照れた」


「照れてない!」


「顔赤いよ」


「うるさい!」


 結婚しても。


 いや。


 結婚したからこそ。


 夫婦漫才はますます完成度を増していた。


 二人は、まだ走る


 仕事が終わった夕方。


 二人は母校となった大学へ向かうことがあった。


 大学側の協力を得ながら、陸上競技場で練習を続ける。


 早苗はスターティングブロックを調整する。


 直樹はトラックを周回する。


 現役大学生たちも一緒だった。


「田中先輩!」


「大石……じゃなかった、田中先輩!」


 早苗が振り返る。


「まだ慣れないよね」


「僕も慣れない!」


 結婚後も競技登録上や報道では旧姓の「大石早苗」が広く知られていた。


 練習開始。


 早苗は30メートル。


 60メートル。


 120メートル。


 直樹は1000メートルのインターバル。


 仕事をしながらの競技生活。


 大学時代より時間は少ない。


 だからこそ、一回の練習を大切にする。


 そして終了後。


 大学生たちが飲み物を用意した。


 直樹が嫌な顔をする。


「まだやっとるんか……」


 全員。


「せーの!」


「ぷっはぁぁぁ〜!」


 早苗が両手を広げる。


「文化は生きとる!」


「滅びてくれ!」


 幼稚園にも感染


 問題は数日後だった。


 園庭で遊び終わった子どもたち。


 水筒を持つ。


 ゴクゴク。


 そして一人が、


「ぷっはぁ〜!」


 早苗が振り向く。


「え?」


 二人目。


「ぷっはぁ〜!」


 三人目。


「ぷっはぁ〜!」


 そのうち十人以上が、


「ぷっはぁぁぁ〜!」


 早苗の目が輝いた。


「僕の文化が幼児教育界にも!」


 帰宅後、その話を聞いた直樹は叫んだ。


「広げるなぁ!」


「僕、何も教えてないよ!」


「じゃあどこで覚えた!」


「テレビ?」


「世界記録よりそっち覚えられとるじゃん!」


 早苗は胸を張った。


「これぞ教育」


「違うわ!」


 翌年、再び世界へ


 ロサンゼルスオリンピックから一年。


 世界陸上。


 早苗と直樹は、再び日の丸を背負った。


 社会人アスリートとして迎える最初の世界大会。


 早苗の肩書には、


 幼児教育者。


 オリンピックチャンピオン。


 世界記録保持者。


 そして海外メディアが勝手につけた、


 Ume Juice Puhaa Girl


 まで並んでいた。


「最後いらん!」


 記者席から笑いが起きる。


 女子100メートル。


 エマ。


 ケイラ。


 舞。


 ソフィア。


 世界のトップが再び集まる。


 決勝。


 早苗はロサンゼルスのように簡単には抜け出せなかった。


 50メートル。


 ケイラ。


 エマ。


 早苗。


 70メートル。


 三人横一線。


 80メートル。


 早苗が少し前へ。


 90メートル。


 ケイラが追う。


 フィニッシュ。


 1位 大石早苗 10秒52


 2位 ケイラ・ブラウン 10秒55


 3位 エマ・ジョンソン 10秒58


 早苗。


 世界陸上初優勝。


 直樹の男子5000メートル決勝も壮絶だった。


 1000メートル、2分34秒。


 2000メートル、5分07秒。


 3000メートル、7分39秒。


 4000メートル、10分12秒。


 キプトゥと直樹が抜け出す。


 残り400。


 キプトゥ。


 直樹。


 残り200。


 並ぶ。


 100メートル。


 直樹が前へ。


 1位 田中直樹 12分37秒42


 2位 ダニエル・キプトゥ 12分37秒81


 3位 三浦拓海 12分40秒16


 直樹も世界陸上初優勝。


 夫婦そろって。


 オリンピックに続く世界タイトルを獲得した。


 世界陸上でも


 そして。


 インタビュー。


 海外インタビュアーが早苗を見る。


 ニヤニヤしている。


 早苗はすぐ察した。


「……何?」


「Sanae。」


「Yes?」


「You know what everyone wants.」


「みんなが何を期待しているか分かりますよね」


 早苗が笑う。


 直樹は後ろで頭を抱えた。


 スタッフが梅ジュースを持ってくる。


 会場が沸いた。


 早苗。


「世界陸上まで用意しとるんかい!」


 キャップを開ける。


 ゴクゴクゴク。


 そして。


「ぷっはぁぁぁ〜!」


 スタジアムが爆笑と歓声に包まれた。


 今度はケイラまで梅ジュースを持つ。


 エマも。


 舞も。


 キプトゥも。


 三浦も。


 全員。


 ゴクゴク。


「PUHAAA!」


 直樹は両手で顔を覆った。


「世界陸上まで侵略された……」


 早苗は誇らしげだった。


「世界文化じゃ!」


「だから違うわ!」


 会場がまた笑った。


 世界記録保持者。


 オリンピック王者。


 世界陸上王者。


 幼稚園の先生。


 JR九州の乗務員。


 そして夫婦。


 競技場では世界一を争い。


 仕事では一年生。


 家に帰れば、いつもの二人。


 人生には。


 100メートルより長い道がある。


 5000メートルより長い道がある。


 そして二人は、その道も。


 隣同士で走っていた。


 次回予告


 第59話「四人家族のスタートライン」


 結婚生活にも慣れ、仕事と競技を両立する早苗と直樹。


 そんな二人の人生に、新しい家族が加わっていく。


 やがて二人は、一男一女の父と母になる。


 オリンピック金メダリスト夫婦の子育て。


 しかし、世界記録など何の役にも立たない。


 夜泣き。


 おむつ。


 食事。


 保育園。


 そして兄妹げんか。


 早苗。


「100メートルより大変なんだけど!」


 直樹。


「5000メートルにも給水所あるぞ!」


 子ども。


「お母さん、ぷっは〜して!」


 早苗。


「任せて!」


 直樹。


「教えるなぁ!」


 さらに子どもたちは、父が乗務する列車に乗りたがり、母とは園庭で競走したがる。


 そして月日は流れる。


 二人の競技生活も、少しずつ次の段階へ。


 若手選手に追われる立場となっても。


 仕事が忙しくなっても。


 父と母になっても。


 二人は走ることをやめない。


 その先には。


 シニア世代で挑む、もう一度のオリンピック。


 次回、第59話。


「四人家族のスタートライン」


「両隣想い」だった二人の隣に、今度は二人の子どもが並ぶ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。