競技か、進学か
第45話「競技か、進学か」
アトランタで世界一になった。
その結果は、早苗と直樹が想像していた以上に、二人の進路へ大きな影響を与え始めていた。
大石早苗。
女子100メートル、11秒39。
ユースオリンピック金メダリスト。
田中直樹。
男子5000メートル、13分17秒62。
ユースオリンピック金メダリスト。
二人のもとには、全国各地の大学から資料が届くようになっていた。
スポーツ推薦。
競技特待。
授業料の減免。
充実したトレーニング施設。
専門スタッフによる競技支援。
強豪陸上部からすれば、二人は喉から手が出るほど欲しい高校生だった。
まだ一年生。
それでも、大学側はすでに二人の将来を見ていた。
だが。
本人たちが見ていた未来は、競技だけではなかった。
早苗への誘い
放課後。
進路指導室。
福留千鶴先生と有馬剛志監督の前に、早苗は座っていた。
机には複数の大学資料が置かれている。
「すごいね……」
早苗がつぶやく。
有馬監督が頷く。
「世界一だからな」
「まだ実感ないです」
「向こうにはある」
早苗は一つずつ資料を見る。
全国大会常連。
オリンピック選手輩出。
全天候型トラック。
トレーニングセンター。
専門コーチ。
スポーツ科学。
競技を最優先するなら、魅力的だった。
ある大学は、かなり踏み込んだ条件まで提示していた。
早苗が小さく息を吐く。
「こんなところで練習できるんだ……」
有馬監督。
「大石なら、もっと上を目指せる」
「はい」
「次はシニアの世界大会。オリンピックも見えてくる」
早苗は黙った。
嬉しくないわけではない。
むしろ嬉しい。
自分の走りを評価してもらえる。
世界一になった結果が、未来へつながっている。
けれど。
福留先生が早苗を見る。
「何か引っかかってる?」
「……はい」
「何?」
早苗は資料を閉じた。
「僕、走るだけで大学決めていいんかなって」
有馬監督は何も言わなかった。
「陸上は続けたいです。もっと速くなりたいし、オリンピックも目指したい」
「うん」
「でも」
早苗は別の資料を取り出した。
最初に自分で見つけた大学。
保育・幼児教育を学べる学科。
幼稚園教諭や保育士を目指せるカリキュラム。
実習環境。
そして、陸上競技を続けられる環境もある。
「僕、これもやりたいです」
福留先生。
「子どものこと?」
「はい」
「幼稚園の先生になる夢は変わってない?」
「変わってません」
早苗は即答した。
「むしろ、前よりなりたいです」
有馬監督が腕を組む。
「だったら、大石」
「はい」
「陸上だけで選ぶ必要はない」
早苗が顔を上げる。
「でも、せっかくこんなに声かけてもらって」
「声をかけてもらったから、その大学へ行かなきゃいけないわけじゃない」
「……はい」
「お前の人生だ」
その一言は重かった。
「11秒39は、お前の人生の一部だ。全部じゃない」
早苗はゆっくり頷いた。
直樹にも
一方。
直樹にも同じことが起きていた。
長距離の名門大学。
駅伝強豪校。
全国から有力選手が集まる環境。
5000メートル13分17秒62。
高校生世代として驚異的な記録を持つ直樹には、当然のように声がかかる。
だが。
直樹は大学案内をめくるたび、同じところで止まっていた。
「ないんだよな……」
父の克也が尋ねる。
「何が?」
「俺が勉強したい学科」
陸上は強い。
申し分ない。
しかし。
交通工学。
鉄道システム。
都市交通。
運行管理。
直樹が大学で学びたい分野とは一致しない。
克也が息子を見る。
「陸上だけなら?」
「すごくいいと思う」
「じゃあ迷うな」
「うん」
克也は少し考えた。
「直樹」
「何?」
「お前、何になりたいんだ?」
直樹はすぐに答えた。
「鉄道の仕事がしたい」
「陸上選手じゃないのか?」
「陸上も続けたい」
「だったら答え出とるじゃないか」
直樹が父を見る。
「両方できるところ探せばいい」
「……うん」
「競技だけで人生決める必要はないだろ」
それは、早苗が有馬監督から言われたことと、ほとんど同じだった。
二人の話
翌日。
放課後。
いつもの図書館。
大学資料を前に、早苗と直樹は向かい合っていた。
「直樹」
「ん?」
「僕、決めようと思う」
「大学?」
「うん」
直樹は早苗の顔を見る。
「どこ?」
「その前に直樹は?」
「俺も、だいたい決めた」
早苗が少し緊張する。
「別々になった?」
「どうじゃろな」
「何その言い方」
「おまえから言えよ」
「嫌だ。直樹から」
「なんで?」
「怖い」
直樹は少し笑った。
「じゃあ、また同時に出す?」
早苗。
「第43話と同じじゃん」
「何の話?」
「なんでもない」
二人は、それぞれ大学案内を持つ。
「せーの」
机の上へ置いた。
「……」
同じ大学。
二人とも、一番最初に選んだ大学だった。
早苗の顔が一気に明るくなる。
「やっぱり!」
「やっぱりって何だよ」
「直樹もここじゃん!」
「おまえもじゃん」
「一緒だ!」
「図書館だから静かに」
早苗は慌てて口を押さえた。
「一緒だ……!」
「小声にしてもテンション変わってないぞ」
なぜ、ここなのか
ただ。
二人は今回は、前ほど浮かれなかった。
早苗が大学案内を見る。
「僕、ちゃんと考えたよ」
「俺も」
「他の大学、すごかった」
「俺のところも」
「陸上だけなら、そっちの方がいいところもあった」
「うん」
「でもね」
早苗は窓の外を見る。
「僕、鹿児島が好き」
直樹は黙って聞いている。
「桜島の灰は嫌だけど」
「そこは嫌なんだ」
「洗濯物やられるもん」
「分かるけど」
「でも好き」
早苗は笑った。
「僕、ここで育ったじゃん」
幼稚園。
小学校。
中学校。
高校。
直樹と歩いた道。
家族。
友達。
陸上。
ホークス戦を聞きながら帰った夜。
梅ジュースを飲んだ放課後。
全部。
鹿児島にある。
「世界に出てみて、逆に分かった」
「何が?」
「僕の原点、ここなんだなって」
直樹も頷いた。
「俺も似たようなこと考えた」
「ほんと?」
「アトランタ行って、世界の選手と走って、世界一になって」
「うん」
「それでも帰ってきた時、一番ほっとしたの鹿児島中央駅だった」
早苗が笑う。
「直樹らしい」
「なんで?」
「普通は『鹿児島に帰ってきた時』って言うじゃん」
「鹿児島中央駅は鹿児島じゃ!」
「そこだけ駅指定するから鉄道オタクなんだよ」
「うるさい!」
早苗。
「でも分かる」
直樹。
「だから俺もここでいい」
「『ここでいい』?」
早苗の目が細くなる。
「何?」
「『ここがいい』でしょ」
「……ここがいい」
「よろしい」
「誰だよおまえ!」
決定
進路指導室。
数日後。
二人はそれぞれ、自分の意思を伝えた。
早苗は保育・幼児教育。
直樹は交通・鉄道。
同じ大学。
別の学問。
陸上競技も続ける。
ただし、競技のためだけには進学しない。
自分たちが、その先で何になりたいのか。
それを基準に選ぶ。
福留先生は二人の話を聞き終えると頷いた。
「だったら、今やることは分かるね?」
二人。
「勉強です」
「その通り」
早苗。
「金メダルで加点とか」
「ありません」
「まだ最後まで言ってない!」
「言うこと分かるもの」
直樹が吹き出した。
「早苗、先生に完全に読まれちょる」
「直樹、笑うな!」
決意の一杯
その日の放課後。
陸上部の練習を終えた二人は、グラウンド脇のベンチに座っていた。
早苗が鞄から梅ジュースを取り出す。
「出た」
「何が?」
「梅ジュース」
「今日はいいの」
「なんで?」
「進路決定記念」
「そんな記念日ある?」
「今できた」
キャップを開ける。
早苗はボトルを口へ運んだ。
ごく。
ごく。
ごく。
「ぷはぁ〜!」
直樹が横を見る。
「……」
「何?」
「おまえさ」
「うん」
「なんか酒好きなオヤジみたいな飲みっぷりじゃん」
早苗が固まる。
「……誰がオヤジよ」
「飲み方が」
「僕、女子高生!」
「知っとる」
「しかも彼女!」
「知っとる!」
「世界一!」
「それも知っとる!」
「将来は幼稚園の先生!」
「それも知っとるわ!」
早苗は梅ジュースを握ったまま立ち上がる。
「じゃあなんでオヤジって言うの!」
「『ぷはぁ〜』が完全に仕事終わりの一杯なんだよ!」
「陸上の練習終わりだから仕事終わりみたいなもんじゃん!」
「高校生の部活じゃ!」
「世界一の部活!」
「肩書きを便利に使うな!」
「世界一が梅ジュース飲んじゃ駄目なの!?」
「誰もそこ言ってない!」
「じゃあ何が悪いの!」
「飲み方!」
「飲み方に罪はない!」
「裁判みたいにすんな!」
早苗。
「異議あり!」
「何に!?」
「直樹の発言に!」
「却下!」
「裁判長でもないくせに!」
「裁判始めたのおまえだろ!」
そこへ有馬監督が通りかかった。
二人を見る。
立ち止まる。
「……何やってる?」
早苗。
「監督、聞いてください。直樹が僕を酒好きなオヤジ扱いするんです」
直樹。
「梅ジュースを『ぷはぁ〜』って飲んだから!」
有馬監督。
「知らん」
二人。
「監督!」
「俺を巻き込むな」
そのまま去っていく。
早苗。
「逃げた!」
直樹。
「監督が正しい!」
「彼女と監督、どっちの味方なの!」
「論点がおかしい!」
早苗。
「もういい!」
再び梅ジュースを飲む。
「ぷはぁ〜!」
「わざとやっただろ!」
「最高!」
「完全にオヤジじゃん!」
「直樹ぃ!」
二人の声がグラウンドに響く。
部員たちが笑う。
「また始まった」
「今日も夫婦漫才だ」
早苗が振り返る。
「まだ夫婦じゃない!」
直樹。
「そこだけ否定するんかい!」
「彼氏彼女!」
「知っとる!」
「将来は分からん!」
「さっき英作文で結婚の話しただろ!」
「直樹が先に想像したんじゃん!」
「それ言うなぁ!」
今度は部員たちがさらに笑った。
早苗。
「顔赤いよ」
「おまえのせいじゃ!」
「また何か想像した?」
「してない!」
「新婚旅行?」
「してない!」
「ほんと?」
「早苗!」
笑い声が夕暮れのグラウンドへ広がった。
原点から、その先へ
世界一になったから、鹿児島を出る。
そんな決まりはない。
強い選手になるために、必ず故郷を離れなければならないわけでもない。
二人は世界を見た。
だからこそ、自分たちがどこから走り始めたのかを知った。
早苗は、子どもたちの隣に立つ人になる。
直樹は、人々を安全に目的地へ運ぶ人になる。
そして。
走ることも続ける。
二人が選んだのは、競技か進学か、そのどちらかではなかった。
自分たちが大切にしたいものを、自分たちで選ぶことだった。
帰り道。
早苗が直樹の隣を歩く。
「ねえ」
「何?」
「大学でも一緒だね」
「受かったらな」
「そこは『一緒だね』って言ってよ!」
「まず勉強しろ!」
「数学がぁ!」
「早速逃げるな!」
「僕、100メートルなら世界一なのに!」
「入試に100メートル走はない!」
「大学さん、導入しません?」
「大学に直接交渉すんな!」
早苗は笑った。
直樹も笑った。
二人が選んだ道は、まだ合格したわけではない。
むしろ。
ここからだった。
鹿児島。
二人が育った場所。
二人が走り始めた場所。
二人が恋をした場所。
そして今度は。
ここから、自分たちの未来へ走り出す。
次回予告
第46話「高校二年生、世界一の春」
季節が巡る。
早苗と直樹は高校二年生へ。
後輩が入部し、二人は今度は「先輩」と呼ばれる立場になる。
だが、新入部員たちが見ているのは。
「ユースオリンピック金メダリストの大石先輩!」
「5000メートル世界一の田中先輩!」
早苗。
「そんなにかしこまらんでいいよ」
後輩。
「はい!」
早苗。
「梅ジュース飲む?」
直樹。
「初対面の後輩を梅ジュース教へ勧誘すんな!」
さらに、新年度最初の実力測定。
世界一になった二人は、どこまで成長しているのか。
そして大学進学を見据えた勉強も、いよいよ本格化する。
ところが。
早苗。
「直樹、大変」
「何?」
「僕、後輩に勉強教えてって言われた」
「教えれば?」
「数学」
「断れ」
「即答!?」
次回、第46話「高校二年生、世界一の春」。
世界一の先輩二人。
競技では頼もしい。
それ以外は。
だいたいいつも通り。




