十三分の世界一
第39話「十三分の世界一」
男子5000メートル決勝を数時間後に控えたアトランタ。
その前に、スタジアムでは女子100メートルの表彰式が行われようとしていた。
大石早苗。
11秒39。
高校生女子世界最速。
金メダル。
レースを終えた直後は、電光掲示板を見ながら、
「へ?」
と完全に固まっていた少女が、今度は世界一の選手として表彰台へ向かう。
しかし。
待機場所にいる早苗は、やはり早苗だった。
「舞ちゃん」
「何?」
「僕、歩き方変じゃない?」
「普通」
「右足から?」
「どっちでもいいよ」
「表彰台で転んだら世界配信されるよね」
「されると思う」
「やばい」
銅メダルの舞が笑う。
「100メートル世界一になった人が、表彰台までの十メートルで緊張してる」
「走るのと歩くのは別競技だから!」
銀メダルのエマが横で首をかしげる。
「What's wrong?」
「どうしたの?」
舞が英語で説明する。
「She's worried she'll trip on the way to the podium.」
「表彰台へ行く途中で転ばないか心配してるの」
エマが一瞬止まる。
そして。
「You just ran 100 meters in 11.39 seconds.」
「あなた、さっき100メートルを11秒39で走ったのよ」
早苗。
「Running is easier than walking now.」
「今は走る方が歩くより簡単なの」
エマ。
「What!?」
舞、大爆笑。
女子100メートル表彰式
場内アナウンス。
「Women's 100 meters medal ceremony.」
「女子100メートル表彰式です」
スタジアムに拍手が広がる。
三位。
日本、林田舞。
舞が表彰台へ。
二位。
アメリカ、エマ・ジョンソン。
地元の大歓声。
そして。
「Gold medalist, representing Japan, Sanae Oishi!」
「金メダル、日本代表、大石早苗!」
日本応援席が総立ちになる。
直樹も立ち上がった。
「早苗ー!」
早苗は今度こそ転ばないように、妙に慎重な歩き方で表彰台へ。
三浦が横で吹き出す。
「田中、あれ金メダリストの歩き方か?」
直樹。
「本人、転ばんことしか考えてないと思います」
早苗は無事に中央へ。
金メダルが首へかけられる。
少し重い。
早苗はメダルを両手で持ち上げる。
金色。
本物。
その瞬間だけ。
表情が変わった。
「……ほんとに金メダルだ」
小さくつぶやく。
そして。
国旗掲揚。
日本。
アメリカ。
日本。
三つの国旗が上がる。
中央。
日本国旗が最も高い位置へ。
イントロが流れる。
君が代。
早苗の顔から笑いが消えた。
静かに国旗を見る。
直樹も立ったまま前を見る。
篠原。
高瀬。
日本代表選手たち。
誰もしゃべらない。
鹿児島から始まった。
学校のグラウンド。
放課後。
梅ジュース。
ホークスのラジオ。
直樹との帰り道。
全国合宿。
アトランタ。
全部がつながっていた。
早苗の目に少し涙が浮かぶ。
君が代が終わる。
大きな拍手。
早苗は一度深く頭を下げた。
そして。
顔を上げた瞬間。
もういつもの早苗へ戻った。
「舞ちゃん」
「何?」
「これ重いね」
舞。
「感想そこ!?」
「梅ジュースガール」
表彰式後。
場内アナウンサーが紹介する。
「And once again, the gold medalist, Sanae Oishi of Japan, now known around the athletes' village as the 'Ume Juice Girl.'」
「改めて金メダリスト、日本の大石早苗。選手村では、すでに『梅ジュースガール』として知られています」
早苗。
「ちょっと待って!」
スタジアム。
どっと笑いが起きる。
エマは隣で笑いながら拍手。
舞も肩を震わせる。
早苗は通訳スタッフを見る。
「なんで競技場でまで言うんですか!」
通訳スタッフ。
「私に言われても……」
すでに笑っている。
場内アナウンスが続く。
「Some athletes have also started calling her the 'Abs Crusher Girl.'」
「さらに一部の選手からは、『腹筋クラッシャーガール』とも呼ばれ始めています」
早苗。
「増えた!」
スタジアム。
また爆笑。
直樹。
「肩書き多すぎじゃ!」
三浦。
「100メートル王者より長いな」
金メダル後インタビュー
今度は金メダルを首から下げた状態での公式インタビュー。
インタビュアーも、前回の爆笑インタビューを担当した同じ人物だった。
早苗を見るなり。
「Oh no. You again.」
「うわ。またあなたですね」
場内が笑う。
早苗。
「Why 'oh no'!?」
「なんで『うわ』なんですか!」
インタビュアーはすでに笑っている。
「Last time, I almost couldn't finish the interview.」
「前回、インタビューを最後まで続けられないところだったんですよ」
早苗。
「I'm serious today.」
「今日は真面目にやります」
直樹。
「一番信用できん宣言来た」
質問。
「Now that the gold medal is around your neck, does it finally feel real?」
「金メダルを首にかけて、ようやく実感が湧きましたか?」
早苗はメダルを見る。
少し考える。
「A little.」
「少しだけ」
インタビュアー。
「Only a little?」
「少しだけ?」
早苗。
「It's heavier than I expected.」
「思ったより重いです」
笑い。
「So that's your first impression?」
「それが最初の感想ですか?」
早苗。
「Yes. And I'm glad I didn't trip on the way to the podium.」
「はい。それと表彰台へ行く途中で転ばなくてよかったです」
インタビュアー。
「Why were you worried about that!?」
「なんでそんな心配してたんですか!?」
場内ドカン。
通訳スタッフが訳そうとする。
「表彰台へ行く途中で……」
途中で吹き出す。
「すみません……」
早苗。
「通訳さん!」
通訳。
「だって、11秒39で走った人が歩いて転ぶ心配してるんですよ!」
会場さらに爆笑。
インタビュアーは机へ手をつく。
「She's doing it again.」
「また始まった」
早苗。
「僕、何もしてない!」
直樹。
「存在だけでクラッシャーになっとる!」
最後の質問
「Will you celebrate tonight?」
「今夜はお祝いしますか?」
早苗。
「Yes.」
「はい」
「With what?」
「何で?」
早苗。
「Ume juice.」
「梅ジュース」
インタビュアー。
「Of course.」
完全に諦めた表情。
場内。
爆笑。
早苗。
「Why are you laughing!? It's delicious!」
「なんで笑うんですか! おいしいんですよ!」
インタビュアー。
「I know! Everyone knows now!」
「知ってます! もうみんな知ってます!」
通訳スタッフ。
腹筋崩壊。
しゃがみ込む寸前。
早苗は金メダルを首から下げたまま叫ぶ。
「やっと梅ジュースのおいしさが伝わったのだぁ!」
直樹。
「表彰式で布教活動すんなぁ!」
スタジアム全体が笑いに包まれた。
高校生女子世界最速。
金メダリスト。
梅ジュースガール。
腹筋クラッシャーガール。
肩書きが増え続けていた。
そして、直樹の番
数時間後。
空気が一変した。
男子5000メートル決勝。
十六人。
トラックへ選手たちが出てくる。
田中直樹。
ダニエル・キプトゥー。
三浦拓海。
エリアス・ベケレ。
サミュエル・オチエン。
ジョナサン・ムテサ。
ヨハネス・テスファイ。
ジェイコブ・ミラー。
ハッサン・アリ。
ピーター・ムワンギ。
イーサン・クラーク。
ルーカス・マイヤー。
アダム・ウィルソン。
ハビエル・ロペス。
マルク・デュボワ。
アリ・ベンハッサン。
実況。
「男子5000メートル決勝。注目はケニアのダニエル・キプトゥー、日本の田中直樹、そして三浦拓海」
解説。
「キプトゥーは最後の1000メートルが非常に強い。一方、田中は今大会を通して後半の加速が際立っています」
「三浦も準決勝二着。日本勢二人にメダルの期待がかかります」
スタンド。
早苗は金メダルを首から下げたまま立っていた。
舞が言う。
「それ首にかけたまま応援するの?」
「うん」
「重くない?」
「さっき重いって言ったけど、今は軽い」
「なんで?」
「直樹の応援するから」
舞が笑う。
「分かんない理屈」
スタート
十六人が並ぶ。
直樹は一度スタンドを見る。
早苗が両手を振っている。
「直樹ー!」
直樹は少し笑った。
そして前を向く。
号砲。
「スタートしました!」
序盤。
誰も出ない。
400メートル。
69秒。
800メートル。
2分18秒。
1000メートル。
2分52秒。
「かなり落ち着いた入りです」
直樹は六番手。
三浦は四番手。
キプトゥーは八番手。
誰も焦らない。
2000メートル。
5分43秒。
実況。
「まだ動きません」
解説。
「完全に後半勝負ですね」
中盤
2500メートル。
ベケレが前へ。
少しだけペースを上げる。
直樹も前へ。
3000メートル。
8分29秒。
早苗。
「直樹ー! いいぞー!」
直樹。
聞こえている。
それどころか。
ほぼ毎周聞こえる。
三浦が横へ並ぶ。
「おまえの彼女、すげぇな」
「レース中に言わんでください!」
「声が!」
「知ってます!」
実況席。
「日本応援席から非常に大きな声が聞こえています」
解説。
「おそらく女子100メートル金メダリストの大石早苗ですね」
「昨日の腹筋クラッシャーガールですか?」
「その呼び名、もう公式みたいになってません?」
4000メートル
4000メートル。
11分12秒。
残り1000。
ここで。
キプトゥーが前へ。
「キプトゥーが動いた!」
一気にペースアップ。
先頭集団が縦長になる。
直樹。
三浦。
ベケレ。
オチエン。
全員が反応。
4200。
キプトゥー。
直樹。
三浦。
三人が前。
4400。
残り600。
ベケレが少し離れる。
「先頭は三人!」
早苗が立ち上がる。
「直樹ぃぃぃ!」
舞。
「来た!」
残り400
鐘。
残り一周。
キプトゥーがさらに加速。
「キプトゥー、スパート!」
直樹が食らいつく。
三浦も離れない。
残り300。
三人。
ほぼ一列。
キプトゥー。
直樹。
三浦。
実況。
「三人に絞られた!」
解説。
「田中、まだ余力があるように見えます!」
残り200。
直樹が外へ。
「田中が並ぶ!」
キプトゥー。
直樹。
ほぼ並ぶ。
三浦も半歩後ろ。
早苗。
「行けぇぇぇぇ! 直樹ぃぃぃぃ!」
残り150。
直樹の脚がもう一段回転を上げる。
「田中が前へ!」
残り100。
直樹。
先頭。
キプトゥーが追う。
三浦も追う。
「田中! 田中抜けた!」
残り50。
差。
一メートル。
二メートル。
「日本の田中直樹!」
フィニッシュ。
「金メダル!」
男子5000メートル決勝結果
1位 田中直樹 日本 13分17秒62
2位 ダニエル・キプトゥー ケニア 13分18秒11
3位 三浦拓海 日本 13分18秒46
4位 エリアス・ベケレ エチオピア 13分20秒03
5位 サミュエル・オチエン ウガンダ 13分21秒18
6位 ヨハネス・テスファイ エチオピア 13分22秒04
7位 ジョナサン・ムテサ ケニア 13分22秒59
8位 ジェイコブ・ミラー アメリカ 13分23秒11
9位 ハッサン・アリ モロッコ 13分24秒08
10位 ピーター・ムワンギ ケニア 13分24秒62
11位 イーサン・クラーク アメリカ 13分25秒30
12位 ルーカス・マイヤー ドイツ 13分26秒14
13位 アダム・ウィルソン イギリス 13分27秒06
14位 ハビエル・ロペス スペイン 13分28秒41
15位 マルク・デュボワ フランス 13分29秒25
16位 アリ・ベンハッサン モロッコ 13分31秒03
実況。
「田中直樹! 13分17秒62!」
「自己ベスト更新!」
「日本の高校一年生が、男子5000メートル世界一!」
「大石早苗に続いて、田中直樹も金メダル!」
金メダル二個
直樹はゴール後。
膝へ手をついた。
「はぁ……はぁ……」
まだ何が起きたのか整理できない。
そこへ。
「直樹ー!」
聞き慣れた声。
早苗が走ってくる。
首には金メダル。
「直樹!」
「おう……」
「勝った!」
「うん……」
「金メダル二個並ぶ!」
直樹は息を切らしながら笑う。
「おまえ、最初にそれかよ」
「約束したじゃん!」
早苗。
「おめでとう!」
そして。
抱きつく。
「うわ!」
直樹。
「汗だくじゃ!」
早苗。
「気にせん!」
「俺が気にする!」
三浦が後ろから笑う。
「世界一になって最初のツッコミそれ?」
直樹。
「こいつがいきなり抱きつくからです!」
早苗。
「愛情表現!」
三浦。
「はいはい」
優勝インタビュー
直樹が公式インタビューへ。
なんと。
担当は。
またあのインタビュアー。
早苗の顔を見る。
直樹の顔を見る。
そして。
「Please tell me you're the serious one.」
「お願いですから、あなたは真面目な方だと言ってください」
場内笑い。
直樹。
「I think so.」
「たぶんそうです」
少し離れた早苗。
「たぶん!?」
インタビュアー。
「Oh no.」
もう嫌な予感。
「How did you feel in the final 100 meters?」
「最後の100メートル、どんな気持ちでしたか?」
直樹。
「I just wanted to get to the finish line before Sanae's voice destroyed my ears.」
「早苗の声で耳を壊される前に、ゴールしたいと思ってました」
一瞬。
静寂。
早苗。
「直樹ぃ!」
場内ドカン。
インタビュアー。
笑いながら机へ伏せる。
「Not again!」
「またか!」
通訳スタッフ。
訳しながら爆笑。
「早苗さんの声で……耳を……」
訳せない。
直樹。
「通訳さん頑張って!」
早苗。
「僕、応援しただけじゃん!」
直樹。
「競技場揺れちょったわ!」
インタビュアー。
「So Sanae helped you win?」
「つまり、早苗が勝利を助けた?」
直樹。
「Yes. In a very loud way.」
「はい。ものすごく大きな音で」
再び爆笑。
直樹の表彰式
そして。
男子5000メートル表彰式。
三位。
日本、三浦拓海。
二位。
ケニア、ダニエル・キプトゥー。
金メダル。
日本、田中直樹。
金メダルが首へかけられる。
直樹は一度、静かにメダルを見る。
その先。
スタンドの早苗。
早苗が自分の金メダルを持ち上げる。
二人。
目が合う。
早苗が口だけ動かす。
「二個」
直樹も笑う。
国旗掲揚。
日本国旗が中央へ。
再び。
君が代。
今度は直樹のために流れる。
早苗は立って聞いた。
さっき自分の表彰式で聞いた同じ旋律。
今度は。
直樹の金メダル。
涙が少し出る。
「……やったね」
舞が横で言う。
「泣いてる?」
「ちょっとだけ」
「今日だけで何回泣くの」
「知らん」
表彰式後インタビュー
金メダル姿の直樹。
再びインタビュー。
また同じインタビュアー。
直樹を見て。
「I survived Sanae. Now I have to survive you.」
「早苗を生き延びたと思ったら、今度はあなたです」
直樹。
「I'm sorry in advance.」
「先に謝っておきます」
インタビュアー。
「Why!?」
すでに笑いが起きる。
「Now you both have gold medals. What will you do first?」
「これで二人とも金メダルです。まず何をしますか?」
直樹が考える。
普通なら。
家族へ連絡。
チームへ感謝。
記念撮影。
ところが。
早苗が遠くから口パク。
「う・め・じゅ・う・す」
直樹が見てしまう。
「……」
インタビュアー。
「What's wrong?」
「どうしました?」
直樹。
「Sanae is telling me to say ume juice.」
「早苗が『梅ジュースって言え』って向こうから合図してます」
場内。
大爆笑。
早苗。
「言えとは言ってない!」
直樹。
「口パクしちょったやろ!」
インタビュアー。
再び机へ。
「I can't believe this.」
「信じられない」
通訳スタッフ。
もう完全に腹筋を押さえている。
直樹は笑いながら言う。
「But yes. We'll probably drink ume juice together.」
「でも、たぶん二人で梅ジュース飲みます」
早苗。
「やった!」
インタビュアー。
「Of course you will.」
「でしょうね」
直樹。
「なんで諦めた顔なんですか!」
会場全体。
再び爆笑。
二人の金メダル
すべてが終わったあと。
早苗と直樹はスタジアムの通路で並んだ。
二人とも。
首から金メダル。
早苗が自分のメダルを持ち上げる。
直樹も同じように持つ。
「並んだね」
「ああ」
「僕11秒39」
「俺13分17秒62」
「全然長さ違うね」
「種目違うからな」
「でも色は同じ」
「金だからな」
早苗は笑う。
「じゃあ」
バッグから。
梅ジュース二本。
直樹。
「用意早っ!」
早苗が一本渡す。
「金メダル記念」
「まあ今日くらいはいいか」
二人でキャップを開ける。
「乾杯」
「乾杯」
ごく。
そして。
早苗。
「ぷはぁ~!」
直樹。
「またオヤジ飲み!」
早苗。
「金メダル後の一杯、たまらんねぇ」
直樹。
「世界一になっても何も変わらん!」
アトランタの夜。
二人の首には金メダル。
その手には梅ジュース。
鹿児島からやってきた幼なじみの高校一年生二人は。
世界一になっても。
やはり。
いつもの二人だった。
次回予告
第40話「世界一になって、鹿児島へ」
ユースオリンピック終了。
大石早苗。
女子100メートル金メダル。
田中直樹。
男子5000メートル金メダル。
林田舞。
女子100メートル銅メダル。
三浦拓海。
男子5000メートル銅メダル。
日本代表は大きな成果を手に帰国する。
空港。
報道陣。
カメラ。
ファン。
そして。
鹿児島へ帰れば。
家族。
学校。
陸上部。
クラスメート。
巨大な横断幕。
「世界一おめでとう!」
早苗。
「恥ずかしい!」
直樹。
「昨日あれだけ世界中の前で梅ジュース叫んどいて今さら何言うとん!」
さらに帰国会見では、
「世界一になって何か変わりましたか?」
早苗。
「荷物が増えました」
記者。
「金メダルですか?」
早苗。
「梅ジュースのお土産です」
直樹。
「そっち!?」
次回、第40話「世界一になって、鹿児島へ」。
世界一になった二人が帰る場所は。
やっぱり、いつもの鹿児島。




