十一秒三九
第37話「十一秒三九」
決勝の日が来た。
女子100メートル。
高校生世代の世界最速を決める八人が、アトランタのトラックへ集まった。
数日前まで笑いながら梅ジュースの話をしていた。
選手村では一緒に写真も撮った。
練習場では互いの走りを見ながら冗談も言った。
けれど今だけは違う。
親友でもある。
ライバルでもある。
そして。
絶対に負けたくない相手でもある。
決勝進出者八人が招集所に揃った。
ケイラ・ブラウン。
エマ・ジョンソン。
大石早苗。
林田舞。
オリビア・ハート。
シェリー・キャンベル。
アミナ・オコエ。
アイシャ・ムベキ。
誰も大声では話さない。
それでも険悪ではなかった。
ケイラが早苗を見る。
「Ready?」
「準備できてる?」
早苗はうなずいた。
「Yes.」
「うん」
エマも笑う。
「No ume juice until after the race.」
「梅ジュースはレースが終わるまでなしね」
早苗。
「I know!」
「分かってるって!」
舞が横で笑った。
「決勝直前まで梅ジュース言われてるじゃん」
「完全に世界へ定着しちょる」
ケイラは拳を差し出した。
「Best race.」
「最高のレースをしよう」
早苗も拳を合わせる。
「Best race.」
「最高のレースを」
エマ。
舞。
そして周囲の選手たちも、それぞれ視線を交わした。
ここから先は言葉はいらなかった。
八つのレーン
夕方。
スタジアムの照明がトラックを照らす。
大型ビジョンに決勝のスタートリストが表示された。
女子100メートル決勝
1レーン アイシャ・ムベキ 南アフリカ
2レーン アミナ・オコエ ナイジェリア
3レーン 林田舞 日本
4レーン エマ・ジョンソン アメリカ
5レーン ケイラ・ブラウン ジャマイカ
6レーン 大石早苗 日本
7レーン オリビア・ハート イギリス
8レーン シェリー・キャンベル ジャマイカ
実況席の声にも、普段以上の緊張が混じっていた。
「さあ、女子100メートル決勝です。高校生世代の世界最速を決める一戦。その頂点に立つのは誰でしょうか」
解説。
「準決勝のタイムを見ても非常に接近しています。ケイラ・ブラウンが11秒43、エマ・ジョンソンが11秒44、大石早苗が11秒45、林田舞が11秒48。わずか0秒05の中に四人です」
「100メートルでは、スタート一つ、接地一つ、最後の一歩一つで順位が変わりますね」
「その通りです。おそらく11秒4前後の非常に高いレベルになるでしょう」
日本選手団スタンド。
直樹は黙ってトラックを見ていた。
三浦が横から聞く。
「緊張してる?」
「めちゃくちゃしてます」
「自分の5000より?」
「今はこっちの方がします」
「彼氏だなぁ」
「やめてください」
そう言いながらも、直樹の視線は早苗から離れなかった。
選手紹介
「1レーン、South Africa, Aisha Mbeki!」
拍手。
「2レーン、Nigeria, Amina Okoye!」
歓声。
「3レーン、Japan, Mai Hayashida!」
日本応援席が沸く。
舞が右手を上げる。
「4レーン、United States of America, Emma Johnson!」
スタジアムが大きく揺れた。
地元アメリカ。
エマが笑顔で手を上げる。
「5レーン、Jamaica, Kayla Brown!」
ケイラ。
表情は静か。
「6レーン、Japan, Sanae Oishi!」
再び日本応援席が爆発する。
早苗は一度だけ手を上げた。
直樹。
「早苗ー!」
その声は大歓声の中へ消えていく。
でも。
早苗には聞こえていた。
ほんの少しだけ口元が緩む。
そしてすぐ。
前を見る。
十一秒あまりの世界
早苗はスターティングブロックを合わせる。
右足。
左足。
一度踏み込む。
立ち上がる。
深呼吸。
篠原の言葉が頭に残っていた。
速く走ろうとするな。
いつもの動きをする。
直樹の言葉も。
いつも通り。
ただ、それだけ。
「On your marks.」
八人がブロックへ入る。
競技場の音が消えたように感じた。
早苗には、自分の呼吸だけが聞こえる。
「Set.」
腰を上げる。
一瞬。
時間が止まる。
号砲。
「スタートしました!」
実況が叫ぶ。
「オコエがいい! エマも出た! 大石も悪くない!」
最初の十メートル。
早苗は三番手あたり。
前にはエマ。
オコエ。
二十メートル。
「エマ・ジョンソンが先頭! オコエ! 外から大石!」
早苗は焦らない。
低い姿勢。
地面を押す。
三十メートル。
身体が起きる。
「大石が上がってきた!」
ケイラも伸びる。
四十メートル。
エマ。
早苗。
ケイラ。
ほぼ並ぶ。
舞も後方から追い始める。
「日本の林田も来ている!」
五十メートル。
半分。
早苗は隣を見ない。
何も見ない。
前だけ。
実況。
「エマ、大石、ケイラ! 三人並んだ!」
六十メートル。
ケイラ得意の後半。
大きなストライドが伸びる。
「ケイラが来た!」
しかし。
早苗の脚も止まらない。
高速のピッチ。
一歩。
また一歩。
直樹が立ち上がる。
「早苗!」
七十メートル。
先頭。
わずかに。
早苗。
「大石が前へ出た!」
歓声が一段高くなる。
エマが追う。
ケイラも食らいつく。
舞が猛烈に伸びる。
八十メートル。
「大石先頭! エマが追う! ケイラ! 林田も来た!」
残り二十。
早苗には、もう何も聞こえない。
一歩。
一歩。
一歩。
ただ腕を振る。
脚を回す。
九十メートル。
「大石! 大石がわずかにリード!」
エマとの差はわずか。
半歩もない。
残り五メートル。
「エマも来る!」
そして。
フィニッシュ。
八人が一気にラインを駆け抜けた。
沈黙
早苗はそのまま数十メートル走って速度を落とした。
呼吸が荒い。
「はぁ……はぁ……」
勝ったのか。
負けたのか。
まったく分からない。
エマも電光掲示板を見る。
ケイラ。
舞。
全員が振り返る。
数秒。
表示が切り替わった。
1 OISHI S. JPN 11.39
一瞬。
早苗は動かなかった。
「……へ?」
本当に。
それだけだった。
口が少し開いている。
目をぱちぱちさせる。
「……へ?」
直樹がスタンドで叫ぶ。
「早苗!!」
日本選手団が総立ち。
「うわああああああ!」
早苗はまだ分かっていない。
自分を指さす。
「……僕?」
舞が爆笑しながら叫ぶ。
「早苗だよ!」
「え?」
「一位!」
「……え?」
大型ビジョンに正式結果が表示された。
女子100メートル決勝 正式結果
1位 大石早苗 日本 11秒39
2位 エマ・ジョンソン アメリカ 11秒42
3位 林田舞 日本 11秒46
4位 ケイラ・ブラウン ジャマイカ 11秒46
5位 オリビア・ハート イギリス 11秒50
6位 シェリー・キャンベル ジャマイカ 11秒52
7位 アミナ・オコエ ナイジェリア 11秒55
8位 アイシャ・ムベキ 南アフリカ 11秒58
舞とケイラは同タイム。
写真判定。
千分の一秒単位で確認され。
舞がわずかに先着。
銅メダル。
ケイラは4位となった。
実況席。
「大石早苗! 11秒39!」
「ついに11秒3台です!」
「高校生世代の世界最速! 日本の大石早苗がアトランタで頂点に立ちました!」
「本人がまだ理解していません!」
解説者まで笑う。
「本当ですね。完全にきょとんとしています」
「僕、勝ったの?」
エマが早苗へ歩いてくる。
「Sanae! You won!」
「早苗! あなたが勝ったのよ!」
早苗。
「Really?」
「ほんと?」
エマ。
「YES!」
「本当!」
ケイラもやってくる。
「Eleven thirty-nine!」
「11秒39!」
早苗はビジョンを見る。
もう一度。
自分の名前。
1。
11.39。
「……」
ようやく。
両手で口を覆った。
「僕……勝った?」
舞。
「さっきからそう言ってるじゃん!」
早苗。
「だって……」
少し涙が出てくる。
「ほんとに?」
舞が早苗を抱きしめた。
「おめでとう!」
エマも加わる。
ケイラも笑いながら抱きつく。
八人が互いの健闘を称え合う。
負けた選手にも笑顔があった。
もちろん悔しさはある。
でも。
わずか11秒あまり。
その短い時間へ、全員が持っているものをすべて置いてきた。
これ以上ないほど濃密な11秒だった。
直樹
競技エリアを出た早苗を、直樹が待っていた。
早苗が見つける。
「直樹」
「おめでとう」
早苗は立ち止まる。
「僕……ほんとに勝ったみたい」
「まだ言っとるん?」
「なんか実感ない」
「11秒39」
「うん」
「世界一」
「……うん」
直樹が笑う。
「すげぇじゃん」
早苗の目から、また涙が出た。
「直樹」
「何?」
「抱きつくって世界に宣言したよね」
「……あ」
次の瞬間。
早苗が直樹へ飛びついた。
「わっ!」
「やったぁぁぁ!」
「急に実感来た!?」
「来た!」
「遅っ!」
日本代表選手たちが笑う。
三浦。
「宣言通りだな」
直樹。
「これ世界配信されちょるんですよね!?」
早苗。
「いいじゃん!」
「よくない!」
「彼氏なんだから!」
「さらに世界へ言うな!」
舞。
「もう手遅れだよ」
梅ジュース決勝戦
そして。
早苗はバッグを開けた。
直樹。
「……まさか」
「約束」
出てきた。
梅ジュース。
一本。
二本。
三本。
四本。
さらに。
まだ出る。
ケイラが目を丸くする。
「How many did you bring!?」
「何本持ってきたの!?」
直樹。
「Don't ask.」
「聞かんでください」
早苗。
「今日はみんなで飲むの!」
決勝を走った八人。
スタッフが紙コップを用意する。
早苗が梅ジュースを注いでいく。
エマ。
ケイラ。
舞。
オリビア。
シェリー。
アミナ。
アイシャ。
そして早苗。
八人が輪になる。
ケイラが紙コップを持つ。
「What's the Japanese word for cheers?」
「日本語で乾杯って何て言うの?」
早苗。
「Kanpai!」
「乾杯!」
全員。
「KANPAI!」
コップが触れ合う。
そして。
一斉に飲む。
数秒。
エマの目が大きくなる。
「Oh! This is good!」
「これ、おいしい!」
オリビアもうなずく。
「Sweet and sour. I like it.」
「甘酸っぱくて好き」
アイシャ。
「This is really refreshing after sprinting.」
「走ったあと、すごくさっぱりする」
ケイラはもう一口。
「Okay. I understand now.」
「分かった。今なら理解できる」
早苗。
「何が?」
ケイラ。
「Why you brought six and a half liters.」
「なぜ6.5リットル持ってきたのか」
直樹。
「理解せんでいい!」
一同爆笑。
早苗は両手を広げる。
「やっと梅ジュースのおいしさが世界に伝わったのだぁ!」
舞。
「何の大会だったっけ?」
エマ。
「Ume Juice World Championship?」
「梅ジュース世界選手権?」
早苗。
「違う!」
直樹。
「おまえが一番原因じゃ!」
世界一を決める第二競技
ケイラがふと聞く。
「Who can drink it fastest?」
「誰が一番早く飲める?」
早苗の目が光る。
直樹。
「やめろ」
早苗。
「梅ジュース100ミリ競争?」
「やめろって!」
エマが乗る。
「Ready?」
「準備いい?」
舞。
「やるの!?」
決勝を走った八人が紙コップを持つ。
直樹は頭を抱えた。
「世界トップスプリンターが何しちょっとよ!」
早苗。
「On your marks!」
直樹。
「スターターまでやるな!」
「Set!」
「待て!」
「Go!」
全員。
ごくごくごく。
最初に飲み切ったのは。
ケイラ。
「YES!」
早苗。
「負けた!」
舞。
「本番より悔しそうじゃん!」
ケイラ。
「I finally beat Sanae!」
「やっと早苗に勝った!」
エマ。
「In ume juice.」
「梅ジュースでね」
ケイラ。
「A win is a win!」
「勝ちは勝ちよ!」
早苗。
「くっそぉ!」
直樹。
「100メートル世界一が梅ジュースで本気で悔しがるな!」
八人。
腹筋崩壊。
オリビアはしゃがみ込む。
エマは壁にもたれる。
ケイラは笑いすぎて声が出ない。
舞は早苗の肩を叩きながら、
「もう無理!」
その場で爆笑していた。
優勝インタビュー
そして。
優勝者インタビュー。
早苗が会見スペースへ入る。
首からはまだメダルはないが、世界一になった選手として大勢の報道陣が待っていた。
インタビュアー。
「Congratulations, Sanae. Eleven thirty-nine. How do you feel?」
「おめでとうございます、早苗。11秒39です。今の気持ちは?」
早苗。
「I still don't really understand what happened.」
「まだ何が起きたのか、よく分かってません」
会場から笑い。
インタビュアー。
「You didn't know you had won?」
「勝ったと分からなかったんですか?」
早苗。
「No. I looked at the board and thought, 'Huh?'」
「はい。掲示板を見て、『へ?』って思いました」
さらに笑い。
「What was your first thought after realizing you were champion?」
「優勝したと分かったあと、最初に何を思いましたか?」
早苗は考える。
「……Ume juice.」
「……梅ジュース」
一瞬。
インタビュアー。
「Ume juice?」
記者席。
爆発。
大爆笑。
直樹が少し離れた場所で顔を覆う。
「やっぱり言った……」
早苗。
「I promised everyone we'd drink it after the race.」
「レースのあと、みんなで飲もうって約束してたから」
「And did you?」
「それで、飲んだんですか?」
「Yes. All eight finalists.」
「はい。決勝を走った八人全員で」
インタビュアー。
「Who won the ume juice race?」
「梅ジュース競争では誰が勝ったんですか?」
早苗。
「Kayla.」
「ケイラです」
会場。
ドカン。
インタビュアーまで机へ手をついて笑う。
「So you're the 100-meter champion, but Kayla is the ume juice champion?」
「つまり100メートル王者は早苗で、梅ジュース王者はケイラ?」
早苗。
「Yes. I want a rematch.」
「はい。再戦したいです」
インタビュアー。
「Please don't make this an official event.」
「公式種目にはしないでください」
今度は早苗まで吹き出す。
「僕もそれは困ります!」
通訳も笑う。
記者も笑う。
カメラマンまで肩を震わせている。
そして最後の質問
インタビュアーがどうにか呼吸を整える。
「One final question. Who do you want to thank most?」
「最後に一つ。いちばん感謝を伝えたい人は?」
早苗の表情が少しだけ真面目になる。
「My family, my coaches, my teammates, everyone in Kagoshima…」
「家族、コーチ、仲間、鹿児島のみんな……」
そして。
少し離れたところの直樹を見る。
「And Naoki.」
「それと、直樹です」
直樹。
「……」
早苗。
「He's been next to me since we were little.」
「小さい頃から、ずっと僕の隣にいてくれたから」
会場が少し静かになる。
いい話だった。
そこで終われば。
早苗。
「And he carries my ume juice when my bag is too heavy.」
「それに荷物が重い時、僕の梅ジュースを持ってくれます」
直樹。
「そこ付け足すなぁぁぁ!」
会見場。
再び大爆笑。
インタビュアーはとうとう椅子にもたれた。
「I can't do this anymore.」
「もう無理です」
早苗。
「まだインタビュー途中ですよ!」
「You're too funny!」
「あなた面白すぎます!」
直樹。
「世界一取った日にインタビュアーまで腹筋崩壊させんな!」
こうして。
大石早苗。
高校一年生。
100メートル。
11秒39。
高校生女子世界最速。
金メダル。
そして同じ日。
梅ジュースを決勝進出者八人へ布教し。
世界のトップスプリンターと報道陣の腹筋まで破壊した。
競技場を離れる時。
早苗が直樹へ言った。
「ねぇ」
「何?」
「世界一になった感じ、まだせん」
「そのうちするじゃろ」
「じゃあもう一本飲もうかな」
「何で実感を梅ジュースに求めるん!」
アトランタの夜。
金メダルより少し早く。
世界にはもう一つ。
新しい伝説が生まれていた。
――Ume Juice Girl。
その名前は、この夜を境に、本当に世界へ広がり始めることになる。
次回予告
第38話「今度は直樹の番」
早苗が世界一になった翌日。
今度は男子5000メートル。
田中直樹の大一番が迫る。
キプトゥー。
三浦。
ベケレ。
オチエン。
世界の強豪が揃う。
直樹は早苗の金メダルを見て、笑う。
「先越されたな」
早苗。
「待ってるよ」
「何を?」
「金メダル二個並べるの」
直樹。
「簡単に言うなぁ」
早苗。
「じゃあ、頑張ったら梅ジュース」
「それは俺へのご褒美なん?」
「僕とおそろい」
「金メダルより先に梅ジュース並べる気か!」
しかし。
5000メートルは100メートルとは違う。
十三分あまり。
駆け引き。
位置取り。
ペース変化。
そして最後の400メートル。
キプトゥーの強烈なスパート。
直樹が世界一になるには、それを超えなければならない。
次回、第38話「今度は直樹の番」。
十一秒の世界一の次は、十三分の世界一へ。




