最初の号砲
第35話「最初の号砲」
競技初日。
アトランタの空は朝からよく晴れていた。
気温はすでに高めだったが、湿度は思ったほど重くない。二日間の現地練習で身体を慣らしてきた日本代表にとって、大きな違和感はなかった。
女子100メートル予選。
全八組。
各組上位二着までが次のラウンドへ進出する。
十六人まで絞られる最初の関門だった。
早苗は日本代表のジャージ姿でアップ場に入り、軽くジョギングを始める。
いつもの早苗なら、何か一言くらいボケを入れるところだった。
しかし、この日の朝は少し違った。
表情が静かだった。
篠原美和が横から声をかける。
「緊張してる?」
「ちょっと」
「悪い緊張じゃないよ」
「はい」
「今日の仕事は勝ち切ることじゃない。二着以内に入ること」
「分かっちょります」
「自己ベストもいらない」
「はい」
「一着じゃなくてもいい」
早苗は少し間を置いた。
「……でも一着で行きたい」
篠原が笑う。
「やっぱり」
少し離れたところで舞も笑った。
「早苗らしい」
「だってスタートしたら前に行きたくなるじゃん」
「その気持ちを抑えるのも大会だよ」
「はい」
アップ開始
早苗は腿上げ、スキップ、バウンディングをこなし、三十メートルの流しへ入った。
一本目。
六割程度。
身体は軽い。
二本目。
七割。
接地も悪くない。
三本目。
八割弱。
篠原が手を上げる。
「そこまで」
「もう一本」
「いらない」
「七十五メートルだけ」
「距離で交渉しない」
「五十」
「大石」
「はい」
舞が横で笑う。
「試合の日までそれやるんだ」
「身体動くと走りたくなるんだもん」
篠原は少し笑ったあと、早苗の肩を軽く叩いた。
「動いてるからこそ、もう止める。今日は予選なんだから」
「はい」
予選第一組
女子100メートル予選第一組。
電光掲示板に八人の名前が表示される。
1レーン ナディア・ベルモン(フランス)
2レーン クララ・シュミット(ドイツ)
3レーン 大石早苗(日本)
4レーン アナ・コスタ(ブラジル)
5レーン メーガン・リード(カナダ)
6レーン ルシア・フェルナンデス(スペイン)
7レーン アマンダ・クラーク(オーストラリア)
8レーン ソフィー・ヴァンデル(ベルギー)
競技場の実況が始まる。
「女子100メートル予選第一組です。注目は3レーン、日本の大石早苗。今季自己ベストは11秒46。日本国内でも急成長を続けている高校一年生です」
日本選手団のスタンドから拍手が起きる。
直樹は前のめりになりながらトラックを見る。
三浦が横から言う。
「緊張してる?」
「俺がですか?」
「うん」
「……ちょっと」
「本人より緊張してそう」
「それはあるかもしれません」
選手紹介。
早苗の名前が呼ばれる。
「Sanae Oishi, Japan!」
早苗は右手を軽く上げた。
拍手。
そしてスタート位置へ。
スパイクをブロックへ合わせる。
足を置く。
一度立ち上がり、軽く跳ねる。
深呼吸。
実況。
「大石はスタートから中盤への加速が非常に速い選手です。小柄ながらピッチを落とさず、後半まで回転数を維持できるのが特徴です」
直樹が小さくつぶやく。
「力むなよ」
「On your marks.」
早苗が構える。
「Set.」
腰が上がる。
静寂。
号砲。
「スタートしました!」
実況の声が一気に上がる。
「3レーン大石、好スタート! 4レーンのコスタも出ています! 5レーンのリードも悪くない!」
十メートル。
早苗は低い姿勢のまま前へ進む。
二十メートル。
「大石が前へ出る! 日本の大石、早くも先頭!」
三十メートル。
早苗の身体が自然に起きてくる。
直樹が思わず声を上げる。
「いいぞ!」
四十メートル。
「大石、半歩リード! 外からカナダのリード、ブラジルのコスタが追う!」
五十メートル。
早苗は余計な力を使っていない。
肩も上がっていない。
六十メートル。
「大石が抜ける! 差は一メートル!」
七十。
「カナダのリードが二番手! フランスのベルモンが三番手へ上がってきた!」
八十。
篠原。
「そのまま!」
早苗は前。
残り二十メートル。
少しだけ力を抜く。
九十。
「大石、余裕を残している! 一着はほぼ確実!」
フィニッシュ。
「大石早苗、一着!」
電光掲示板。
予選第1組 結果
1位 大石早苗 日本 11秒58
2位 メーガン・リード カナダ 11秒66
3位 ナディア・ベルモン フランス 11秒69
4位 アナ・コスタ ブラジル 11秒74
5位 クララ・シュミット ドイツ 11秒79
6位 アマンダ・クラーク オーストラリア 11秒82
7位 ルシア・フェルナンデス スペイン 11秒88
8位 ソフィー・ヴァンデル ベルギー 11秒94
「日本の大石早苗、11秒58。自己ベストには及びませんが、明らかに余裕を残しました。非常に安定した走りです」
直樹は拳を握る。
「よっしゃ」
三浦もうなずく。
「かなり余裕あったな」
「はい」
篠原も時計を見て笑う。
「これでいい」
ゴール後
早苗は呼吸を整えながらミックスゾーンを抜けてくる。
舞が先に声をかける。
「一着じゃん」
「うん」
「11秒58」
「思ったより出てた」
篠原が言う。
「前半はよかった。後半はちゃんと抜けてたね」
「はい」
「余計なことしなかったのは合格」
早苗が笑う。
「僕も学習します」
直樹がやってくる。
「出だし良かったな」
「ほんと?」
「かなり」
「じゃろ?」
「でも六十過ぎから完全に一着欲しくなったじゃろ」
早苗が黙る。
「……ちょっと」
「先生に言われたこともう忘れた?」
「最後は抜いたもん!」
「最後だけ!」
そこへスタッフから早苗のバッグが渡される。
早苗の目が変わる。
「来た」
直樹。
「何が」
早苗はバッグを開ける。
梅ジュース。
舞。
「やっぱりそれ」
早苗はキャップを開けた。
ごく。
ごく。
ごく。
「ぷはぁ~!」
満足そうに空を見上げる。
「走った後のこの一杯、たまらんねぇ」
直樹。
「酔っぱらったオヤジかよ!」
早苗が振り返る。
「梅ジュースで酔うわけないじゃん」
「飲み方の話じゃ!」
舞が吹き出す。
聡子も笑う。
「完全に仕事終わりの一杯だべ」
早苗はさらに一口。
「いやぁ、五臓六腑に染み渡るねぇ」
「高校一年生が言うセリフじゃなか!」
舞が腹を押さえる。
「もう居酒屋じゃん」
早苗。
「本日のおすすめ、南高梅ジュース」
直樹。
「店開くな!」
三浦も現れる。
「つまみ何?」
早苗は即答する。
「スポーツ羊羹」
「アスリート居酒屋!」
周囲の日本代表選手まで笑い始める。
予選第二組
続いて第二組。
主な注目選手はイギリスのオリビア・ハート。
実況。
「第二組は4レーン、イギリスのオリビア・ハートが今季11秒44。安定したスタートを持つ選手です」
レースはハートが中盤から抜け出す。
予選第2組 結果
1位 オリビア・ハート イギリス 11秒52
2位 マリサ・トーレス メキシコ 11秒67
3位 エレナ・ロッシ イタリア 11秒71
4位 ジュリア・マイヤー スイス 11秒76
5位 ハンナ・リー ニュージーランド 11秒83
6位 イネス・モレノ ポルトガル 11秒89
7位 ソラヤ・カーン インド 11秒96
8位 マリア・ストヤノバ ブルガリア 12秒03
予選第三組
第三組には日本の林田舞。
実況。
「3レーン、日本の林田舞。長身を生かした大きなストライドが特徴です。大石とは対照的なタイプ」
舞はスタートで少し遅れた。
「林田、出遅れた!」
しかし三十メートル以降に加速。
「林田が伸びる! 一気に二番手!」
七十メートルで先頭へ。
「林田、前へ出た!」
そのまま一着。
予選第3組 結果
1位 林田舞 日本 11秒55
2位 サラ・ミラー アメリカ 11秒61
3位 アリシア・グラント 南アフリカ 11秒68
4位 リナ・ヨハンソン スウェーデン 11秒73
5位 クロエ・マルタン フランス 11秒78
6位 エヴァ・クラーク アイルランド 11秒85
7位 アンナ・ノヴァーク チェコ 11秒91
8位 ミリアム・ベンアリ モロッコ 11秒98
早苗は戻ってきた舞へ言う。
「一着じゃん!」
「スタート遅れた」
「後半すごかったよ」
「早苗は11秒58?」
「うん」
「じゃあ次は同じくらいで走れそう」
早苗が梅ジュースを差し出す。
「飲む?」
「まだいい」
「遠慮せんでいいよ」
「一リットル三本持ってるんでしょ?」
「そこ言うな!」
予選第四組
第四組はエチオピア、オーストラリア、ドイツなどが並ぶ。
勝ったのはドイツのレナ・フォーゲル。
予選第4組 結果
1位 レナ・フォーゲル ドイツ 11秒56
2位 アイシャ・ムベキ 南アフリカ 11秒64
3位 アメリア・ウォーカー オーストラリア 11秒70
4位 ベアトリス・シルバ ポルトガル 11秒75
5位 ルーシー・ブラウン イギリス 11秒79
6位 メルセデス・ルイス アルゼンチン 11秒86
7位 ティナ・コバチ クロアチア 11秒93
8位 ナオミ・メコネン エチオピア 12秒01
予選第五組
第五組にはジャマイカ代表ケイラ・ブラウン。
早苗の表情が少し引き締まる。
「来た」
直樹。
「見る?」
「見る」
ケイラは4レーン。
実況。
「ジャマイカのケイラ・ブラウン。今大会優勝候補の一人。特に六十メートル以降の伸びは非常に強烈です」
スタート。
「ケイラ、まずまず!」
二十メートルでは二番手。
三十。
「ケイラが加速!」
五十。
「一気に先頭!」
七十。
完全に抜けた。
「余裕があります!」
最後は明らかに流しながらフィニッシュ。
予選第5組 結果
1位 ケイラ・ブラウン ジャマイカ 11秒47
2位 ルイーザ・サントス ブラジル 11秒62
3位 マリー・デュポン フランス 11秒70
4位 ソフィア・ペレス スペイン 11秒77
5位 アンネ・デフリース オランダ 11秒82
6位 ローラ・ベル カナダ 11秒88
7位 エスター・アデバヨ ナイジェリア 11秒94
8位 カミラ・ロハス チリ 12秒02
早苗は電光掲示板を見る。
「11秒47」
直樹が言う。
「しかも最後抜いてる」
「うん」
「怖い?」
「怖い」
少し間。
「でも走りたい」
直樹は笑う。
「なら大丈夫じゃな」
予選第六組
第六組にはアメリカ代表エマ・ジョンソン。
地元の大歓声。
「アメリカのエマ・ジョンソン! 今大会最大級の声援です!」
エマはスタートから前へ出る。
「エマ、好スタート!」
そのまま安定した走り。
予選第6組 結果
1位 エマ・ジョンソン アメリカ 11秒49
2位 ニーナ・クラーク オーストラリア 11秒63
3位 マルタ・コヴァレンコ ウクライナ 11秒69
4位 エリーゼ・ベルナール フランス 11秒74
5位 イザベル・ロペス スペイン 11秒80
6位 ジュリア・ケラー ドイツ 11秒86
7位 アヤ・ナカムラ カナダ 11秒92
8位 マリナ・ペトロワ セルビア 11秒99
エマが戻ってくる途中で早苗を見つける。
「Sanae!」
「Emma!」
「First place?」
「一着だった?」
「Yes. Eleven fifty-eight.」
「うん。11秒58」
エマも笑う。
「I ran eleven forty-nine.」
「私は11秒49」
早苗。
「Fast.」
「速いね」
エマ。
「See you later.」
「また次でね」
早苗。
「Definitely.」
「もちろん」
予選第七組
第七組はナイジェリアのアミナ・オコエが先行。
予選第7組 結果
1位 アミナ・オコエ ナイジェリア 11秒53
2位 フェリシア・クラーク イギリス 11秒65
3位 レイラ・ハダッド フランス 11秒70
4位 カレン・スミス カナダ 11秒76
5位 アリーナ・ヴォルコワ ウクライナ 11秒81
6位 エミリー・グリーン オーストラリア 11秒87
7位 パウラ・ディアス アルゼンチン 11秒94
8位 ミラ・ノヴァク スロベニア 12秒00
予選第八組
最終組。
注目はアメリカのタニア・ブルックスとジャマイカのシェリー・キャンベル。
実況。
「最終第八組。ここから最後の二名が十六人に加わります」
スタート。
キャンベルが飛び出す。
ブルックスが後半で追う。
最後はほぼ並んでフィニッシュ。
予選第8組 結果
1位 シェリー・キャンベル ジャマイカ 11秒54
2位 タニア・ブルックス アメリカ 11秒56
3位 エレナ・ガルシア スペイン 11秒68
4位 ミシェル・デュラン フランス 11秒72
5位 キャサリン・ホワイト カナダ 11秒79
6位 ジュリア・バウアー ドイツ 11秒85
7位 ナタリア・コスタ ポルトガル 11秒92
8位 ラウラ・ビアンキ イタリア 11秒98
十六人が決まる
全八組終了。
次のラウンドへ進んだ十六人。
日本からは、
大石早苗。
林田舞。
アメリカからは、
エマ・ジョンソン。
タニア・ブルックス。
ジャマイカからは、
ケイラ・ブラウン。
シェリー・キャンベル。
そのほかにも、オリビア・ハート、レナ・フォーゲル、アミナ・オコエなど、各国の実力者が順当に勝ち残った。
実況席でも総括が始まる。
「予選最速はジャマイカのケイラ・ブラウン、11秒47。続いてアメリカのエマ・ジョンソン11秒49。日本勢は林田舞が11秒55、大石早苗は11秒58でした。ただ、大石はかなり余裕を残しているように見えました」
解説。
「そうですね。大石はスタートから五十メートルまで非常に良かったです。最後は明らかに力を抜いています。次のラウンドではもう一段階上げてくるでしょう」
直樹はその言葉を聞きながら、少し笑った。
「本人が聞いたら、絶対調子乗るな」
そして再び梅ジュース
早苗はベンチへ戻る。
もう一度ボトルを持つ。
「ぷはぁ~」
直樹。
「またやった!」
「何?」
「その飲み方!」
早苗はわざと低い声を出す。
「いやぁ、今日もいい仕事したねぇ」
「完全に居酒屋の常連やん!」
舞。
「大石酒店、本日も営業中」
聡子。
「今日のおすすめは?」
早苗。
「南高梅ジュース。レース後限定」
三浦。
「価格は?」
早苗。
「一杯、自己ベスト一本」
直樹。
「通貨おかしい!」
日本代表ベンチ、大爆笑。
そこへエマとケイラまで通りかかる。
ケイラ。
「Ume juice again?」
「また梅ジュース?」
早苗。
「Of course.」
「もちろん」
エマ。
「Celebration drink?」
「祝杯?」
早苗。
「Yes. Zero alcohol, one hundred percent happiness.」
「そう。アルコールゼロ、幸せ100パーセント」
直樹。
「そのコピー気に入ったんか!」
ケイラが笑う。
「I want one after the final.」
「決勝が終わったら私も一本欲しい」
早苗は親指を立てる。
「Deal.」
「約束」
直樹が横から言う。
「まだ決勝行ってないからな」
早苗。
「行くもん」
ケイラ。
「Me too.」
「私も行くよ」
エマ。
「Me too.」
「私も」
三人が顔を見合わせる。
笑っている。
でも。
競技者の目は笑っていなかった。
次は十六人。
そこから八人。
もう予選のような余裕はない。
世界の本当の勝負が始まる。
次回予告
第36話「十六人から八人へ」
女子100メートル、準決勝。
十六人が二組へ分かれ、各組上位四名だけが決勝へ進む。
組み合わせ発表。
準決勝第一組。
大石早苗。
ケイラ・ブラウン。
オリビア・ハート。
レナ・フォーゲル。
メーガン・リード。
アミナ・オコエ。
ルイーザ・サントス。
タニア・ブルックス。
早苗は掲示板を見上げる。
「ケイラと同じ組か」
ケイラも早苗を見つける。
「Now we race.」
「今度は本当に勝負だね」
早苗。
「Yeah. No holding back.」
「うん。もう遠慮なし」
一方、第二組には林田舞とエマ・ジョンソン。
ここから先。
11秒6台では危ない。
11秒5台でも安心できない。
そして男子5000メートルを翌日に控える直樹も、キプトゥー、三浦らと最終調整へ。
次回、第36話「十六人から八人へ」。
決勝の八つのレーンを懸けた、本当のスプリント勝負が始まる。




