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となりのスタートライン  作者: リンダ


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初めてのアトランタ練習

 第34話 初めてのアトランタ練習

 アトランタ到着から一夜が明けた。


 完全に時差が抜けたわけではない。


 それでも、前日のように座った瞬間に意識が落ちそうになるほどではなかった。


 朝食会場で、早苗は大きく伸びをする。


「昨日よりだいぶマシ」


 舞が笑う。


「昨日はご飯食べながら寝そうになってたもんね」


「寝てないよ」


「フォーク持ったまま目閉じてたよ」


「考え事」


「昨日もそれ言ってた」


 聡子がパンを口に運びながら言う。


「今日は練習あるんだから、無理しない方がいいべ」


「分かっちょる」


 早苗はそう答えながら、すでに表情が少し違っていた。


 眠気よりも。


 走りたい気持ちの方が強くなっている。


 その様子を少し離れた席から見ていた直樹が言った。


「早苗」


「何?」


「今日は慣らしだからな」


「分かってるって」


「ほんと?」


「ほんと」


「ケイラ見ても?」


 早苗が止まる。


「……」


「もう怪しい」


「見るだけ」


「絶対?」


「絶対」


 三浦が笑う。


「田中、彼女の管理大変だな」


「俺はトレーナーじゃないです」


 それでも、直樹自身も同じだった。


 今日、同じトラックにキプトゥーがいる。


 その事実だけで、胸の奥がわずかに熱くなる。

 初めての現地トラック

 日本代表選手団は午前中、競技会場近くの練習施設へ移動した。


 トラックへ足を踏み入れた瞬間。


 早苗は一度、靴底を軽く擦った。


「……違う」


 舞も同じように確認する。


「日本のトラックより少し反発強く感じる」


 女子短距離強化コーチの篠原美和が言う。


「まず感触を覚えよう。今日はタイムを出す日じゃないからね」


「はい」


 気温。


 湿度。


 風向き。


 地面の硬さ。


 空気の重さ。


 短距離では、ほんのわずかな違いが走りへ影響する。


 早苗は軽くジョグを始める。


 最初はゆっくり。


 トラックを一周。


 身体の動きを確認する。


 肩。


 腰。


 脚。


 足首。


「悪くない」


 篠原が早苗の動きを見ながら言う。


「時差の割には身体動いてる」


「ほんとですか?」


「ただし調子いい時ほど抑える」


「はい」


 次に動き作り。


 腿上げ。


 スキップ。


 バウンディング。


 短い加速。


 一本ごとに休憩を入れる。


 早苗は少しずつ速度を上げていった。


 三十メートル。


 五十パーセント。


 次は六十。


 その次は七十。


 そして八十パーセント程度。


「よし」


 早苗は戻りながら笑う。


「めっちゃ走りやすい」


 舞もうなずく。


「身体軽い」


 篠原はタイムではなくフォームを見る。


「二人とも悪くないね。特に接地が安定してる」


 早苗が少し嬉しそうに舞を見る。


「いい感じじゃん」


「うん」


 その時。


 向こう側のレーンに、ジャマイカ代表のケイラ・ブラウンが現れた。


 早苗。


「……」


 ケイラもこちらに気づく。


 手を上げる。


「Sanae!」


 早苗も手を上げた。


「Kayla!」


 そしてケイラが軽い流しを一本。


 速い。


 まだ全力ではない。


 それでも、腰の位置。


 力みのない加速。


 後半の伸び。


 早苗の目が完全に競技者へ変わる。


「先生」


 篠原。


「何?」


「一本だけ」


「だめ」


「まだ何も言ってない」


「ケイラと合わせたいんでしょ」


「……はい」


「一本だけが一番危なか」


 早苗は肩を落とす。


「ちょっとだけ」


「だめ」


「八割」


「だめ」


「七割五分」


「交渉するな」


 舞が横で笑っている。


「早苗、顔に全部出てるよ」


「だって走りたくなるじゃん」


 篠原は笑いながらも首を振る。


「今日は勝負する日じゃない。本番で勝負しなさい」


「はい」


 早苗は渋々うなずいた。


 だが。


 ケイラが遠くから親指を立てる。


 早苗も同じように返す。


 本番まで。


 まだ少しだけ我慢。

 長距離組も同じ

 その頃。


 直樹と三浦は、男子長距離組の調整へ入っていた。


 男子長距離コーチの黒川昌彦が指示を出す。


「今日はジョグ中心。最後に千メートル一本だけ、余裕を残して」


「はい」


 直樹はゆっくり走り始める。


 最初は会話できる程度。


 三浦と並ぶ。


「どう?」


「思ったより身体軽いです」


「俺も」


 数周したところで。


 前方にケニア代表のダニエル・キプトゥーが見えた。


 こちらも軽いジョグ。


 直樹の目が少し細くなる。


 三浦が気づく。


「田中」


「はい」


「追うなよ」


「追ってないです」


「ペース上がってる」


「……ちょっとだけ」


 三浦が笑う。


「分かりやすいな」


 キプトゥーも後ろを振り返る。


 直樹に気づく。


 少し笑う。


 そして。


 ほんの少しだけペースを上げる。


 直樹。


「……」


 三浦。


「行くなよ」


「行ってないです」


 直樹も少し上げる。


 三浦。


「上がってるって!」


 そこへ黒川の声。


「田中!」


 直樹が振り返る。


「はい!」


「今日は競争する日じゃなか!」


「すみません!」


 キプトゥーも向こうで笑っていた。


 直樹は速度を落とす。


 三浦が言う。


「本番まで我慢だな」


「はい」


「俺も走りたくなるけど」


「ですよね」


 直樹は前方のキプトゥーを見る。


 その背中を、本番では追う。


 いや。


 できれば最後は前へ出る。

 初日終了

 初日の練習は、予定通り軽めで終了した。


 篠原。


 黒川。


 各種目のコーチ陣。


 全員が選手の状態を確認する。


 大きな不調者はいない。


 時差の影響は残るものの、身体の反応は悪くない。


 短距離。


 中距離。


 長距離。


 跳躍。


 投てき。


 どの選手も、予想以上にいい状態だった。


 高瀬慎一郎がスタッフミーティングで言う。


「初日としてはかなり順調ですね」


 篠原もうなずく。


「早苗も舞も脚は動いてます。ただ、二人とも走りたがりすぎる」


 黒川が苦笑する。


「田中も同じです。キプトゥー見たらすぐ反応する」


「若いですね」


「だから止めるのが仕事です」

 そして、梅ジュース発見

 練習後。


 選手村近くの売店へ、スタッフ付きで短時間の買い物に出た。


 早苗は飲み物の棚を見ていた。


 スポーツドリンク。


 水。


 ジュース。


 そして。


「……」


 早苗が止まった。


「直樹」


「何?」


「来て」


「何があった」


「早く」


 直樹が近づく。


 早苗が指さす。


 そこには、日本産の梅を使った南高梅ジュース。


 英語表記のラベル。


 早苗は静かに一本持ち上げる。


「……ある」


「あるな」


「普通に売っちょる」


「あるな」


「直樹」


「何」


「日本から6.5リットル持ってきた意味なくない?」


 直樹は数秒黙った。


 そして。


「今さら気づいたんかーい!」


 売店中に響くほどのツッコミ。


 舞が棚の向こうで爆笑する。


 聡子も笑う。


 三浦は顔を覆う。


「田中、アメリカ来てツッコミの声量上がってないか」


 早苗は梅ジュースを見つめる。


「僕のあの苦労は何だったんだろ」


「俺が荷物持った苦労もな!」


「でも安心した」


「何が?」


「なくなっても補充できる」


「まだ追加する気!?」


「非常時だけ」


「その非常時の基準が緩すぎる!」

 二日目

 翌日。


 現地練習二日目。


 この日は初日より一段階、強度を上げる。


 それでも全力ではない。


 本番へ身体を近づけるための調整。


 早苗はスタート練習へ入った。


 ブロックへ足を合わせる。


 呼吸。


 集中。


 号砲代わりの合図。


 スタート。


 十メートル。


 二十。


 三十。


 昨日より速い。


 だが、まだ余裕がある。


 篠原がうなずく。


「いいね」


 次。


 六十メートル。


 九割程度。


 早苗が走る。


 力みは少ない。


 後半もフォームが崩れない。


 ゴール後、早苗が振り返る。


「どうですか?」


「かなりいい」


 早苗の顔が明るくなる。


「ほんと?」


「ただし、本番まで取っときなさい」


「はい」


 舞も同じく好調。


 スタートから中盤への移行が滑らか。


 聡子も中距離のテンポ走で安定した動きを見せる。


 一方、男子長距離。


 直樹と三浦は千メートルの刺激。


 最初は抑える。


 残り四百。


 少しだけ上げる。


 最後の二百。


 さらに一段階。


 直樹の脚はよく回っていた。


 呼吸も余裕。


 ゴール後。


 黒川が時計を見る。


「予定通り」


 直樹が聞く。


「状態どうですか?」


「かなりいい」


 三浦も同じ。


 大きな疲労はない。


 動きも軽い。


 黒川は言う。


「ここからは上げる必要ない」


「はい」


「むしろ下手に上げたら壊す」


「はい」


 直樹はうなずいた。


 本番が近い。


 いよいよ。


 練習で証明する時間ではない。


 レースで出す時間。

 日本代表、全体的に好調

 二日間の練習を終えた夕方。


 各コーチから報告が上がる。


 短距離。


 良好。


 中距離。


 良好。


 長距離。


 良好。


 ハードル。


 問題なし。


 跳躍。


 感触良好。


 投てき。


 身体の切れも悪くない。


 高瀬は全選手を前に言った。


「ここまで順調です」


 選手たちの顔が上がる。


「でも、調子がいい時ほど余計なことをしない」


 何人かが苦笑する。


 早苗と直樹は、なぜか同時に目をそらした。


 舞が小声で言う。


「二人のことじゃない?」


 早苗。


「僕だけじゃないもん」


 直樹。


「俺も入っちょる」


 高瀬が続ける。


「明日は競技開始です」


 空気が変わる。


「ここまで積み上げてきたことを、そのまま出してください。新しいことは何もしなくていい」


 早苗はゆっくり息を吐く。


 直樹も表情を引き締める。


「日本代表だから特別な走りをしようとしなくていい」


 高瀬は一人ひとりを見る。


「いつもの自分で、世界と戦ってきてください」

 本番前夜

 夜。


 早苗は部屋でスパイクを確認していた。


 紐。


 ピン。


 ユニフォーム。


 ゼッケン。


 忘れ物なし。


 その横には。


 梅ジュース。


 舞が見る。


「何本持っていくの?」


「明日は一本だけ」


「成長した」


「レース後用」


「炭酸じゃないよね?」


「もちろん」


 聡子が笑う。


「そこは学習したんだな」


 早苗はベッドへ腰を下ろした。


 少しだけ静かになる。


「……いよいよだね」


 舞もうなずく。


「うん」


「なんか変な感じ」


「怖い?」


 早苗は少し考える。


「怖い」


 正直に答えた。


「でも、走りたい」


 舞も笑う。


「私も」


 一方。


 男子部屋。


 直樹はスパイクを見ながら、三浦と話していた。


「明日ですね」


「ああ」


「緊張してます?」


「してる」


「俺もです」


 三浦は笑う。


「でも、ここまで来たら走るだけだな」


「はい」


 直樹はスマートフォンを見る。


 早苗からメッセージ。


 早苗:

「明日、頑張ろうね」


 直樹。


 直樹:

「頑張ろう」


 少し考えて。


 直樹:

「自分の走りで」


 すぐ返信。


 早苗:

「うん。終わったら梅ジュース」


 直樹は吹き出した。


 直樹:

「そこは絶対なんじゃな」


 早苗。


 早苗:

「そこまでが競技です」


 直樹。


「……違うじゃろ」


 三浦。


「何?」


「いや」


 直樹は笑いながらスマートフォンを伏せた。


 明日。


 いよいよ本番。


 高校一年生の二人が。


 鹿児島から。


 日本から。


 世界のスタートラインへ立つ。

 次回予告

 第35話「最初の号砲」

 ついに競技初日。


 女子100メートル予選。


 早苗。


 舞。


 ケイラ。


 エマ。


 世界のスプリンターたちが、それぞれの組へ分かれてスタートラインへ立つ。


 早苗はアップ場では笑っていた。


 しかし招集所へ入った瞬間、表情が変わる。


「僕、行ってくる」


 直樹。


「行ってこい」


 最初の目標は、勝つことではない。


 確実に予選を通過すること。


 一方、男子5000メートルは翌日。


 直樹はスタンドから早苗のレースを見守る。


 スタートブロックへ足を置く早苗。


 静まる競技場。


 そして。


 号砲。


 アトランタでの最初の100メートルが始まる。


 次回、第35話「最初の号砲」。


 いよいよ、世界との勝負が始まる。

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