アメリカ上陸、最初の敵は時差
第33話 アメリカ上陸、最初の敵は時差
長いフライトを終え、日本代表選手団を乗せた航空機は、ついにアメリカの大地へ降り立った。
窓の外には、見慣れない街並み。
広い道路。
巨大な空港施設。
そして日本とは違う空の色。
早苗は窓へ張りつくようにして外を見ていた。
「直樹、見て!」
「見ちょる」
「ほんとにアメリカじゃん!」
「そりゃアメリカ行きの飛行機乗ったからな」
「いや、分かっちょるけど!」
隣の舞も笑う。
「早苗、さっきから全部に感動してない?」
「だって初めてだもん」
聡子も窓の向こうを見る。
「道路の幅もなんか違って見えるべ」
三浦は少し眠そうな顔をしながら立ち上がった。
「とりあえず降りたら寝ないようにしないとな」
早苗は振り返る。
「寝ちゃだめなの?」
「現地時間に合わせるためじゃろ」
直樹が答える。
「今寝たら夜眠れんくなる」
「そっか」
早苗は少し考えた。
「じゃあ梅ジュース飲んで起きとく」
「何でも梅で解決しようとすんな!」
飛行機を降りた直後から、鹿児島コンビは通常運転だった。
アメリカの空港で
入国手続きを終えた日本代表選手団は、手荷物を受け取った。
直樹は自分のスーツケースを引きながら、周囲の案内表示へ視線を向ける。
「……」
早苗が横を見る。
「直樹」
「何?」
「目が鉄道モード」
「なってない」
「なっちょる」
空港内の案内板。
鉄道。
バス。
シャトル。
乗り場。
直樹の目は完全にそちらへ吸い寄せられていた。
「アトランタの空港アクセスって、実際こうなっちょるんじゃな」
「直樹」
「何」
「陸上しに来たんだよ」
「分かっちょる!」
「今、完全に乗り鉄の顔だった」
「乗らんでも見るだけで価値あるんじゃ!」
「研修の時と同じこと言っちょる!」
舞と聡子が笑う。
三浦も言った。
「田中、試合終わったあとならいいんじゃないか」
「三浦先輩まで!」
「ただし勝手に行動するなよ」
「分かってます!」
高瀬が少し離れたところから振り返る。
「皆さん、移動しますよ」
「はい!」
直樹は名残惜しそうに案内板から目を離した。
早苗が横から小声で言う。
「帰りに時間あったら付き合ってあげる」
「ほんと?」
「スーパーで梅ジュース買うのとセット」
「結局交換条件!」
選手村到着
バスで選手村へ移動。
窓の外にはアトランタの街並みが流れていく。
早苗は元気だった。
最初の二十分は。
「うわぁ、建物でかい」
「道路広っ」
「看板全部英語」
ところが。
三十分。
「……」
四十分。
「……」
直樹が横を見る。
早苗の首がゆっくり前へ落ちる。
戻る。
また落ちる。
「早苗」
「ん……?」
「寝るな」
「寝てない……」
「目閉じちょるが」
「考え事」
「何を?」
「……梅……」
「寝言じゃ!」
舞が前の席から笑う。
「もう限界じゃん」
聡子も振り返る。
「時差って怖いべ」
早苗は必死に目を開ける。
「僕は日本代表……」
「うん」
「時差には負けん……」
三秒後。
また首が落ちる。
「負けちょるが!」
直樹のツッコミ。
車内に笑いが起こる。
直樹自身も眠かった。
だが早苗が隣で舟をこぐたびに起こさなければならず、逆に目が覚めていく。
「俺、何で彼女の時差対策係になっちょっとよ」
三浦が笑う。
「彼氏だからじゃないか」
「便利な言葉にされちょる!」
部屋割り
選手村へ到着。
日本代表は男女別の宿泊エリアへ案内された。
当然ながら早苗と直樹は別。
早苗は舞、聡子ら女子選手と同じフロア。
直樹は三浦ら男子選手と同じフロアだった。
「じゃあまたあとで」
直樹が言う。
早苗は眠そうに手を上げる。
「うん……」
「部屋入っても寝るなよ」
「分かっちょる」
「絶対?」
「絶対」
「ベッド座るな」
「なんで?」
「寝るから」
「そんな簡単に……」
早苗は途中であくびをする。
直樹。
「説得力ゼロ」
舞が早苗の背中を押す。
「ほら行くよ」
「舞ちゃん、僕を寝かせんでね」
「逆じゃない?」
梅ジュース選手団、開封式
女子宿泊室。
早苗は部屋へ入ると、最初にスーツケースを開けた。
舞がベッドへ荷物を置きながら言う。
「まず着替えじゃないの?」
「大事な確認」
聡子も苦笑する。
「何の確認だべ」
早苗はスーツケースの中を見る。
「一」
梅ジュース。
「二」
「三」
舞が笑い始める。
「数えるんだ」
「四」
「五」
「六」
「七」
ここまでは鹿児島で申告していた本数。
「八」
「九」
「十」
早苗は両手を合わせた。
「全員無事!」
舞が吹き出す。
「選手団みたいに数えんな!」
聡子も笑う。
「梅ジュース代表十名、無事入国」
「種目何?」
「飲料」
「競技になってない!」
早苗は満足そうにうなずく。
すると。
舞が何気なく一本持ち上げた。
「……ん?」
「何?」
「これ、大きくない?」
早苗が振り向く。
舞が持っているのは、鹿児島中央駅で追加購入した三本のうちの一本。
横に並べる。
最初の七本。
500ミリリットル。
追加の三本。
明らかに大きい。
聡子がラベルを見る。
「これ、一リットルだべ」
早苗。
「……へ?」
舞。
「1000ml」
早苗の目が大きくなる。
「うそ」
「書いてある」
早苗は一本受け取る。
ラベルを見る。
1000ml
数秒。
「……」
舞。
「早苗、気づいてなかったの?」
「鹿児島中央駅で急いで買ったから……」
聡子が笑いをこらえる。
「じゃあ三本追加じゃなくて」
舞。
「実質500ml六本分」
一瞬。
早苗が固まった。
そして。
「だから重かったんだ!」
女子部屋、大爆笑。
男子部屋に速報
数分後。
直樹のスマートフォンが鳴った。
早苗からのメッセージ。
早苗:
「重大発表」
直樹。
直樹:
「何」
早苗:
「増えた三本」
直樹:
「うん」
早苗:
「一リットルでした」
直樹。
「……」
三浦がベッドで荷物を整理している。
「どうした?」
直樹は画面を見たまま動かない。
「三浦先輩」
「何?」
「俺、鹿児島出る時より荷物重くなったって言いましたよね」
「ああ」
「三本増えたって聞いて納得しましたよね」
「ああ」
直樹はスマートフォンを掲げる。
「その三本、全部一リットルでした」
三浦が一秒止まる。
「……は?」
直樹は立ち上がった。
「なんで500じゃなくて1000なんじゃー!」
男子部屋に声が響く。
隣室から選手が顔を出す。
「何事?」
三浦が腹を抱える。
「大石の梅ジュース!」
「またか!」
直樹は早苗へ電話をかけた。
国際電話じゃないのに国際漫才
「もしもし」
「早苗!」
「何?」
「一リットルって何!」
「僕もさっき知った!」
「買った本人が知らんかったんか!」
「見た目そんな変わらんかったんだもん」
「変わるわ!」
「ちょっと背が高いくらい」
「おまえが身長基準でボトル見るな!」
女子部屋で舞が爆笑。
男子部屋で三浦も爆笑。
早苗が言う。
「直樹、だから新幹線で重いって気づいたんじゃない?」
「今全部つながったわ!」
「伏線回収」
「物語みたいに言うな!」
「三本で三リットル」
「言われんでも分かる!」
「最初の七本が3.5リットル」
「計算すんな!」
「合計6.5リットル」
「飲料だけで6.5キロ近くあるやんけ!」
直樹のツッコミがまた変な方言へ飛んだ。
舞が電話越しに聞こえるほど笑っている。
「田中君、また関西方面行った!」
三浦が男子部屋で叫ぶ。
「ツッコミが国境越えてるぞ!」
直樹は頭を抱える。
「俺、新幹線で何キロ持たされてたん……」
早苗。
「愛の重さ」
「梅の重さじゃ!」
両方の部屋で大爆笑。
高瀬にも伝わる
数十分後。
日本代表の全体オリエンテーション。
高瀬慎一郎が選手たちへ説明する。
「今日は時差調整を優先します。夕方まで極力寝ないこと」
早苗は必死に目を開けている。
「食事、水分補給、軽いストレッチ。その後は早めに休みます」
「はい」
高瀬が資料を見る。
そして何気なく言う。
「あと、大石選手」
「はい?」
「持参した梅ジュースについて、栄養スタッフから確認がありました」
早苗。
「はい」
「十本のうち三本、一リットルサイズだったそうですね」
会場が静かになる。
直樹が即座にうつむく。
舞。
聡子。
三浦。
すでに肩が震えている。
早苗は小さく答えた。
「……はい」
高瀬は数秒黙った。
「日本代表選手が海外遠征へ持ち込む個人嗜好飲料としては、かなりの物量です」
会場爆発。
「あはははは!」
投てきの大原雄大が大声で笑う。
「物量って!」
走幅跳の水野琴葉も笑う。
「補給基地作れるじゃん!」
早苗は顔を赤くする。
「そんなに飲まんもん!」
直樹が即座に言う。
「なら何で持ってきたん!」
「安心感!」
「精神安定剤扱いすんな!」
高瀬もとうとう笑った。
「競技前後の飲料については、必ず栄養スタッフと相談してください」
「はい」
「全部自分で飲み切ろうとしないように」
「はい……」
「特に短期間で」
「しません!」
また笑いが起こる。
本物のライバルたち
夕方。
眠気と戦いながら選手村内を歩いていた早苗たち。
その時。
向こうから数人の海外選手が歩いてきた。
早苗が立ち止まる。
「あ」
アメリカ代表のエマ・ジョンソン。
ジャマイカ代表のケイラ・ブラウン。
そして男子長距離のダニエル・キプトゥー。
オンラインでは何度も話した。
画面の中では笑い合った。
でも今。
実際に同じ場所にいる。
ケイラが早苗に気づく。
目を大きくする。
そして満面の笑み。
「Sanae!」
「早苗!」
早苗も手を上げる。
「Kayla!」
ケイラは駆け寄ってくる。
そして第一声。
「Ume Juice Girl!」
早苗。
「世界第一声がそれ!?」
もちろん日本語は分からない。
でも勢いで意味は伝わったらしい。
エマが大笑いする。
「She’s really here!」
「本当に来た!」
早苗は英語で返す。
「Yes! And I brought ume juice!」
「うん! 梅ジュースも持ってきたよ!」
直樹が横から小声で言う。
「言うな」
ケイラが聞く。
「How many?」
「何本?」
早苗。
「Ten.」
「十本」
エマ。
「Ten?」
直樹がため息をつく。
「Three of them are one-liter bottles.」
「そのうち三本は一リットルです」
一瞬。
海外選手たち。
「……」
そして。
「WHAT!?」
大爆笑。
キプトゥーまで笑っている。
早苗が直樹を見る。
「何で世界に言うの!」
「事実じゃ!」
エマは腹を抱えながら言う。
「That’s not luggage. That’s an ume juice tank!」
「それ、荷物じゃないよ。梅ジュースタンクだよ!」
舞がその場にしゃがみ込む。
「梅ジュースタンク!」
聡子も笑いすぎて涙を拭く。
直樹は即座に言う。
「Exactly!」
「その通り!」
早苗。
「直樹!」
ケイラは笑いながら早苗の肩を抱く。
「Welcome to Atlanta, Ume Juice Girl.」
「アトランタへようこそ、梅ジュースガール」
早苗も笑って返す。
「Thank you. But call me Sanae!」
「ありがとう。でも早苗って呼んで!」
ケイラはうなずく。
「Okay, Sanae. After the race, ume juice.」
「分かった、早苗。レースのあとに梅ジュースね」
早苗。
「Deal.」
「約束」
二人は拳を合わせた。
少し離れたところでは、直樹とキプトゥーも向き合う。
「Naoki.」
「Daniel.」
握手。
オンラインでは笑った。
今は本物のライバルとして目の前にいる。
キプトゥーが言う。
「I watched your 13:18 race. Very fast.」
「13分18秒のレースを見たよ。すごく速かった」
直樹は答える。
「I watched yours, too. Your last 1,000 meters is scary.」
「俺も見た。君の最後の千メートルは怖いよ」
キプトゥーが笑う。
「Good. Be scared.」
「いいね。怖がってて」
直樹も笑った。
「I’ll still try to beat you.」
「それでも勝ちにいくよ」
「Me too.」
「僕もだ」
その横。
早苗とケイラも視線を合わせている。
笑顔。
でも、その奥には競技者の目。
もう「海外のすごい選手」ではない。
自分が倒したい相手。
自分を倒しに来る相手。
アトランタへ来た。
その実感が、ようやく早苗と直樹の中へ入ってきた。
ところが。
早苗が大きなあくび。
「ふぁぁぁ……」
ケイラが笑う。
「Jet lag?」
「時差ぼけ?」
「Very much.」
「ものすごく」
直樹。
「寝るなよ」
「寝てない……」
「今立ったまま目閉じたが!」
エマが笑う。
「Japanese Comedy Couple is really funny in person!」
「ジャパニーズ・コメディ・カップル、本物はもっと面白い!」
直樹。
「We just arrived!」
「まだ着いたばっかりじゃ!」
アトランタでも。
やはり。
二人の漫才に国境はなかった。
次回予告
第34話「初めてのアトランタ練習」
時差との戦いをどうにか乗り越え、早苗と直樹は初めて現地のトラックへ立つ。
日本とは違う気温。
湿度。
トラックの感触。
風。
早苗は軽い流しだけの予定なのに、ケイラの姿を見た瞬間に競争心へ火がつく。
「一本だけ!」
「一本だけが一番危なか!」
篠原に即座に止められる。
一方、直樹はキプトゥーと同じトラックで軽いジョグ。
互いにペースを上げたくなるが、黒川から、
「今日は競争する日じゃなか!」
と一喝される。
そして練習後。
ついに早苗が、アメリカで売られている南高梅ジュースと対面。
「直樹!」
「何ね」
「日本から6.5リットル持ってきた意味なくない?」
「今さら気づいたんかーい!」
次回、第34話「初めてのアトランタ練習」。
本番前に必要なのは、速く走ることより、走りたくても我慢することだった。




