アトランタへのカウントダウン
第30話 アトランタへのカウントダウン
ユースオリンピックまで、残り一か月。
日本代表の強化は、いよいよ最終段階へ入っていた。
ここから必要なのは、ただ練習量を増やすことではない。
疲労を抜く。
動きの鋭さを残す。
アトランタの暑さと湿度を想定する。
長時間の移動と時差へ備える。
そして、本番の日に最も高い状態へ持っていく。
女子短距離担当の篠原美和は、早苗と舞へ練習計画表を渡した。
「今週から走る本数を少しずつ減らすよ」
早苗が紙を見る。
「減らすんですか?」
「そう」
「でも僕、せっかく十一秒四六まで出たのに」
「うん」
「練習減らしたら、遅くならん?」
篠原は早苗の顔を見る。
「大石」
「はい」
「今の時期に練習しすぎて疲労を残すほうが遅くなる」
「……」
「ここまで作ったものを、今から増やそうとすんな。整えるんじゃ」
舞も横から言う。
「早苗、昨日も追加で流しやろうとして止められたっしょ」
「一本だけじゃん」
「一本が増えて、二本になって、最後は五本くらい走るタイプでしょ」
「……否定できん」
「できないんだ」
篠原が腕を組む。
「不安になる気持ちは分かる。じゃっど、本番前は休むことも練習じゃ」
「はい」
「走りたくなったら?」
「我慢する」
「梅ジュース飲む?」
舞が横から言う。
早苗は真顔になった。
「それは普通に飲む」
「そこは即答なんだ」
篠原まで笑った。
一方、男子長距離ブロックでは、直樹への注目が急激に高まっていた。
国内記録会で叩き出した十三分十八秒台。
世界のユース世代のシーズンタイムと比較しても、トップクラス。
スポーツ新聞。
テレビ。
陸上専門誌。
ネットニュース。
見出しには、似たような言葉が並び始めていた。
「ユース五千メートル金メダル候補・田中直樹」
「鹿児島の高校一年生、世界へ」
直樹はスマートフォンの記事を見て、何とも言えない顔をしていた。
「金メダル候補って……」
三浦拓海が隣から画面を見る。
「いいじゃん」
「よくないですよ」
「何で?」
「まだ世界大会で一本も走ってないです」
「そりゃそうだ」
「キプトゥーに勝ったこともなかです」
「俺にも本番で勝てる保証ないぞ」
「三浦先輩も十三分二十ですもんね」
「だから」
三浦はスマートフォンを直樹へ返した。
「記録は日本に置いていこう」
「置いていく?」
「ああ。十三分十八でアトランタを走るんじゃない。田中直樹として走る」
直樹は少し考えた。
「なるほど」
「俺も同じ。十三分二十は過去。アトランタのスタートラインでは、全員ゼロ」
「はい」
少し離れた場所で、舞も早苗へ同じようなことを言っていた。
「十一秒四六は日本に置いていこう」
「でも、せっかく出したのに」
「記録を捨てるって意味じゃないよ」
「うん」
「アトランタで十一秒四六を出さないと失敗、って思ったら苦しくなるっしょ」
早苗は黙る。
「スタートラインに立ったら、またゼロから」
「……そっか」
「ケイラもエマも同じ」
「うん」
「その日の百メートルで一番速かった人が勝ち」
早苗は少し笑った。
「シンプルじゃね」
「陸上なんて最後はそうでしょ」
「舞ちゃん、いいこと言う」
「普段から言ってる」
「そうだっけ」
「早苗が梅の話ばっかりしてるから聞いてないんじゃない?」
「そいは失礼な!」
放課後、珍しく弱気な早苗
その日の練習を終えた夕方。
早苗と直樹は、鹿児島高校のグラウンド脇にあるベンチへ並んで座っていた。
今日はホークス戦のナイター開始前。
まだラジコもつけていない。
早苗は梅ジュース。
直樹はスポーツドリンク。
西の空は少しずつ赤みを帯びていた。
早苗はペットボトルを両手で持ったまま、珍しく静かだった。
直樹が横を見る。
「早苗」
「ん?」
「どうした?」
「何が?」
「静かじゃん」
「僕だって静かな時あるよ」
「寝ちょる時以外で?」
「直樹」
「はい」
「彼女に失礼じゃない?」
「すみません」
早苗は少し笑った。
しかし、また黙る。
直樹は表情を見る。
「緊張しちょる?」
「……まあね」
「アトランタ?」
「うん」
早苗は夕焼けの向こうを見る。
「僕、大丈夫なんかなぁ」
直樹は少し驚いた。
早苗が競技について弱音を吐くことは、あまりない。
「何が?」
早苗はしばらく黙っていた。
直樹も急かさなかった。
そして。
「アトランタに乗り込んでさ」
「うん」
「梅ジュース買えんかったらどうしよう」
「……」
直樹の表情が止まった。
「……へ?」
「だから、梅ジュース」
「心配のネタそこ?」
早苗は真剣な顔で振り返る。
「僕にとってはめっちゃ大事じゃっど」
「いやいやいや」
直樹は額を押さえる。
「今の流れなら普通、世界の速い選手に勝てるかなとか、時差大丈夫かなとか、英語通じるかなとかじゃろ!」
「そいも心配」
「そいも?」
「でも梅ジュースも心配」
「同列なん?」
「場合によっては上」
「世界大会より梅を上に置くな!」
早苗は頬を膨らませる。
「だってさぁ。疲れた時に飲みたいじゃん」
「高瀬さんも現地で入手できる可能性あるって言っちょったろ」
「売り切れてたら?」
「別の店」
「全部売り切れてたら?」
「日本から持っていった分」
「飲み切ったら?」
「何本飲む気なん!」
早苗は指を折る。
「一日一本として」
「計算始めるな!」
「大会前後含めて十本くらい」
「スーツケースの重量を梅で圧迫すんな!」
早苗が抗議する。
「重要物資だよ!」
「日本代表の荷物一覧に『重要物資・梅ジュース十本』って書く気か!」
「書けばいいじゃん」
「税関で説明する俺の身にもなれ!」
「直樹も一緒に飲めば共犯」
「犯罪みたいに言うな!」
早苗はとうとう吹き出した。
「あははは!」
「笑い事じゃなか」
「直樹、真面目に梅ジュースの輸送計画考えちょる」
「誰のせいじゃ!」
さっきまで少し沈んでいた早苗の表情から、完全に暗さが消えていた。
世界最速候補と梅ジュース捜索隊
直樹は少し考えてから、スマートフォンを取り出した。
「いやぁ、買いに行く時間くらいあるやろ」
「ほんと?」
「選手村から勝手に出るのは駄目じゃっど、公式の自由時間とか、スタッフ同行の買い物時間くらいあるかもしれん」
「もしあったら?」
「一緒に行ってやる」
早苗の顔がぱっと明るくなる。
「ほんと?」
「近くのスーパーで売っちょったんじゃろ?」
「南高梅のやつ!」
「前に調べた店」
「そう!」
早苗は嬉しそうに直樹の腕を軽くつつく。
「彼氏、役に立つね」
「今まで役立たずみたいに言うな」
「彼氏適性ポイント加算」
「まだ査定続いちょっと?」
「生涯評価」
「定年まで査定されるん?」
「将来鉄道乗務員になっても」
「長っ!」
早苗はさらに考える。
「アトランタで梅ジュース見つけてくれたら十ポイント」
「安っ!」
「じゃあ百ポイント」
「急にインフレした!」
「箱買いなら五百」
「大会期間中に箱買いすんな!」
早苗は笑いながらスマートフォンを取り出す。
「直樹、店もう一回調べよう」
「今?」
「善は急げ」
「梅は急がんでも逃げん」
「売り切れる!」
「そいが心配なんじゃろな!」
二人は並んで地図を見る。
アトランタ近郊のスーパー。
日本食品の取り扱い店。
大型ショッピングセンター。
早苗が以前見つけた南高梅ジュースの商品ページ。
「あった」
「まだ掲載されちょるな」
「在庫表示ある?」
「現地入らんと正確には分からん」
「予約できんかな」
「世界大会前に海外スーパーの梅ジュースを取り置きする日本代表がおるか!」
「世界初」
「記録狙うところ違う!」
早苗はまた腹を抱えて笑った。
もし売り切れていたら
直樹がふと思いつく。
「でも」
「何?」
「もし本当に全部売り切れだったら、どうする?」
早苗は真剣に考える。
「……」
「そんな深刻に考える?」
「代替案が必要」
「スポーツドリンク」
「却下」
「水」
「必要だけど梅の代わりにはならん」
「オレンジジュース」
「惜しい」
「何が惜しいん?」
「酸味」
「方向性そこ?」
早苗は腕を組んだ。
「レモネード」
「アメリカには普通にあるな」
「それで一時的にしのぐ」
「遭難みたいに言うな!」
「で、日本に帰ったら梅ジュース浴びるほど飲む」
「飲むな! 普通に一本飲め!」
「梅風呂」
「入浴剤じゃなか!」
通りかかった陸上部員たちが、二人を見て笑う。
「日本代表が何の作戦会議しちょっと?」
早苗が即答する。
「アトランタ梅ジュース補給作戦」
部員。
「競技の話じゃなかった!」
直樹は天を仰ぐ。
「誰かこいつ止めて」
「彼氏の仕事じゃろ」
「何で俺に戻ってくっとよ!」
海外グループチャット
その時。
早苗のスマートフォンが震えた。
海外選手のグループチャット。
ケイラ・ブラウンからだった。
Kayla:
「See you in Atlanta. No excuses.」
「アトランタで会おう。言い訳なしでね」
早苗の表情が少し引き締まった。
その文章を見た瞬間、さっきまでの梅ジュース騒動から競技者の顔へ戻る。
直樹も画面を見る。
「来たな」
「うん」
早苗はすぐに入力する。
Sanae:
「No excuses. I’ll run my best race.」
「言い訳なし。僕も最高のレースをするよ」
送信。
そして一秒後。
もう一文。
Sanae:
「And ume juice after the race!」
「そしてレースのあとは梅ジュースね!」
直樹。
「結局つけるんか!」
数秒後。
ケイラから返信。
Kayla:
「Deal. After the race. Not before.」
「決まり。レースのあとね。前じゃないよ」
さらに。
Emma:
「No sparkling ume juice before the start!」
「スタート前の炭酸入り梅ジュースは禁止!」
早苗の顔が引きつる。
「まだ覚えちょる……」
直樹が笑い始める。
「あははは! 世界共通ルールになっちょる!」
「誰のせいよ!」
「飲もうとした早苗のせいじゃ!」
「飲んだだけ!」
「半分!」
「味見!」
「半分は味見じゃなか!」
また二人の漫才が始まった。
本当の弱音
笑いが少し落ち着いたころ。
早苗はスマートフォンを膝へ置いた。
「でもさ」
「何ね」
今度は声が少しだけ真面目だった。
「ほんとは、梅ジュースだけじゃないよ」
直樹も表情を変える。
「うん」
「怖い」
「何が?」
「全部」
早苗はゆっくり言った。
「飛行機で遠くまで行って」
「知らん国で」
「世界の速い子たちと走って」
「日本代表って見られて」
「負けたらどうしようとか」
「スタート失敗したらどうしようとか」
「十一秒四六出せんかったらとか」
直樹は黙って聞いていた。
「考えると、ちょっと怖い」
「俺もじゃ」
早苗が直樹を見る。
「直樹も?」
「ああ」
「世界一位候補なのに?」
「そいが一番怖いんじゃ」
直樹は少し笑う。
「記事では金メダル候補って言われる。でも俺はキプトゥーに一回も勝ったことなか」
「うん」
「三浦先輩だって強い」
「うん」
「十三分十八出した日の俺が、アトランタにそのまま行けるわけじゃない」
早苗は静かに聞く。
「じゃっど」
直樹は早苗を見る。
「怖くても行くしかなかじゃろ」
「うん」
「早苗も俺も、自分で行きたいって決めた」
「うん」
「負けても帰ってこれる」
「鹿児島に?」
「ああ」
「僕が負けても?」
「そいで嫌いになると思う?」
「思わん」
「俺も同じ」
早苗は少しだけ笑った。
「じゃあ直樹が予選落ちしても?」
「縁起悪かこと言うな!」
「例えば!」
「そいでも帰ってくる!」
「僕が慰めてあげる」
「何して?」
「梅ジュース奢る」
「結局そこ!」
また笑いが戻った。
早苗は笑いながら直樹の肩へ少し寄った。
「でも、ありがと」
「何が?」
「ちょっと楽になった」
「そいならよか」
「アトランタでも隣におってね」
「ああ」
「スーパーでも」
「そっちが本命じゃなか?」
「ばれた?」
「ばれるわ!」
その夜、舞たちにも報告
帰宅後。
早苗は舞と聡子とのグループチャットへ書き込んだ。
早苗:
「アトランタの梅ジュース問題、直樹が一緒に買いに行ってくれることになりました」
すぐに舞から返信。
舞:
「何の正式報告なの?」
聡子。
聡子:
「世界大会一か月前の報告がそれでいいんだべか」
早苗。
早苗:
「大事です」
舞。
舞:
「じゃあUme Juice GirlとRailway Boyの海外初デート?」
早苗。
早苗:
「スーパーはデートに数えません」
そこへ直樹が参加。
直樹:
「勝手に俺をRailway Boyにすんな」
舞。
舞:
「Japanese Comedy Coupleもいる?」
直樹。
直樹:
「いません」
早苗。
早苗:
「います」
直樹。
直樹:
「早苗!」
聡子。
聡子:
「チャットでも漫才始まったべ」
数秒後。
三浦まで入ってきた。
三浦:
「田中、世界最速よりツッコミ速度のほうが速くなってないか?」
直樹。
直樹:
「誰のせいだと思ってるんですか」
早苗。
早苗:
「僕」
舞。
舞:
「自覚あったんだ」
早苗。
早苗:
「最近気づきました」
直樹。
直樹:
「十五年近くかかっとるが!」
グループチャットは、しばらく笑いのスタンプ代わりの文章で埋まった。
大会まで、あと一か月。
期待は高まる。
不安も大きくなる。
世界最速。
国内最速。
金メダル候補。
日本代表。
そう呼ばれるほど、十代の選手たちの肩へ乗るものは重くなっていく。
だからこそ。
早苗は梅ジュースの心配をする。
直樹はそこへ突っ込む。
舞が笑う。
聡子が笑う。
三浦も笑う。
そして笑ったあと、また真剣に走る。
それが彼らの、世界大会への向き合い方だった。
アトランタまで、あと一か月。
世界との勝負は、もう始まっていた。
次回予告
第31話「最後の鹿児島」
アトランタ出発まで、残り一週間。
日本代表の直前合宿へ入る前に、早苗と直樹は鹿児島で最後の通常登校を迎える。
正門の横断幕。
クラスメイトからの寄せ書き。
陸上部の仲間たち。
福留千鶴、川原美咲、有馬剛志。
みんなから、
「勝ってこい」
ではなく、
「自分の走りをしてこい」
と送り出される二人。
一方、大石家と田中家では、海外遠征の荷造りが始まる。
早苗のスーツケースから出てくる梅ジュース。
一、二、三、四、五――。
「早苗、何本入れちょっとよ!」
「非常用!」
直樹のスーツケースからは、アトランタの鉄道路線図、公共交通ガイド、駅周辺図が大量に出現。
「直樹も人のこと言えんじゃん!」
そして出発前夜。
二人はいつもの帰り道を歩きながら、少しだけ立ち止まる。
「次にここ歩く時、僕らどうなっちょるかな」
「分からん」
「メダル持っちょるかも」
「手ぶらかもしれん」
「それでも?」
「一緒に帰ってくればよか」
次回、第31話「最後の鹿児島」。
世界へ行く前だからこそ、いつもの道が少しだけ特別に見える。




