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となりのスタートライン  作者: リンダ


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十一秒四九と、あと一秒

 第29話 十一秒四九と、あと一秒


 世界基準を想定した練習で、早苗はついに十一秒五〇の壁を破った。


 十一秒四九。


 たった百分の一秒。


 けれど短距離では、その百分の一秒に大きな意味がある。


 一方、直樹もキプトゥーを想定した高速ラップに少しずつ適応し始めていた。


 最初は後半で完全に離されていた。


 それが今では、設定ラップとの差が一周ごとに縮まり、最後の二百メートルでも三十秒を切るところまで来ている。


 しかし。


 篠原美和も黒川昌彦も、二人を簡単には褒めなかった。


「一回できたことと、本番でできることは違う」


 篠原の言葉に、早苗は黙ってうなずく。


「十一秒四九を一回出した。それは確かに成長じゃ。じゃっど、十一秒四九を出すために全部が完璧にそろわんといかんのなら、まだ世界とは戦えん」


「はい」


「疲れちょる時でも、向かい風でも、緊張しちょっても、十一秒五〇前後へまとめられる力が必要」


 舞も隣で真剣に聞いていた。


 黒川も直樹と三浦へ同じことを伝える。


「世界大会は、一本走って終わりじゃなか。予選、決勝、日程、気候、時差。全部違う」


「はい」


「田中。キプトゥー設定へ一回近づいたからって、アトランタで同じことができる保証はなか」


「分かってます」


 三浦も答える。


「だから連続でやるんですね」


「そうじゃ」


 この日から、日本代表の練習はさらに一段階上へ進んだ。


 単発の好記録。


 ではなく。


 高いレベルを、何度も再現する。


 世界大会で結果を出すための練習だった。


 早苗と舞、国内最速へ


 女子百メートルの実戦形式。


 この日は日本陸連公認の記録会形式で行われた。


 国内のユーストップ選手たちが並ぶ。


 早苗と舞は、同じ組。


 スタート前。


 舞が早苗を見る。


「今日、どっちが勝っても言い訳なしね」


「もちろん」


「十一秒四九、また出せる?」


「舞ちゃんこそ」


「出すよ」


 早苗は笑った。


「僕も」


 二人はスターティングブロックへ入る。


 篠原は少し離れた場所で、二人の姿勢を見ていた。


 早苗の右足。


 以前のように外へ逃げていない。


 舞も、スタート時の上体が安定している。


「位置について」


 静寂。


「用意」


 腰が上がる。


 号砲。


 舞が飛び出した。


 やはりスタートは舞が強い。


 十メートル。


 舞がわずかに先行。


 二十メートル。


 早苗は焦らない。


 三十メートル。


 加速。


 早苗が少しずつ詰める。


 四十メートル。


 舞の横へ。


 五十メートル。


 並んだ。


 六十メートル。


 まったく差がない。


 七十メートル。


 早苗がわずかに前へ出たように見える。


 しかし舞も粘る。


 八十メートル。


 再び横一線。


 残り二十。


 早苗。


 舞。


 二人ともフォームが崩れない。


 最後の十メートル。


 どちらも前へ出ない。


 そして。


 同時にゴール。


 一瞬、競技場が静まり返った。


「どっち?」


 誰かが声を漏らす。


 早苗は走り切ったまま、舞を見る。


「分からん」


「うちも」


 二人は表示板を見る。


 タイム。


 11秒46。


 早苗の目が大きくなる。


「十一秒四……六?」


 舞も固まった。


「え?」


 国内ユースシーズン最速。


 しかも二人とも同じタイム。


 順位表示はまだ出ない。


 写真判定室。


 ゴールラインの映像が拡大される。


 さらに拡大。


 胴体。


 胸。


 肩。


 何度見ても、差が認められない。


 判定員たちが複数の角度を確認する。


 しかし。


 結論は変わらなかった。


 完全同着。


 写真判定でも順位差を認定できない。


 大会役員が篠原へ結果を伝える。


 篠原は早苗と舞を呼んだ。


「二人とも」


「はい」


「同着」


 早苗と舞が同時に目を丸くする。


「また?」


 舞が先に言った。


「またじゃ」


 篠原も少し笑っていた。


「写真判定でも差が確認できん。二人とも十一秒四六で正式認定」


 一瞬。


 早苗は口を開いたまま固まった。


 次の瞬間。


「やったぁ!」


 舞も笑う。


「国内最速、二人?」


「そうじゃ」


 早苗と舞は思わず抱き合った。


「舞ちゃん!」


「早苗!」


「また同着!」


「もうここまで来たら笑うしかない!」


 周囲の女子選手たちから大きな拍手が起きた。


 篠原は少しだけ厳しい顔に戻る。


「ただし」


 二人がすぐ姿勢を正す。


「十一秒四六を出したからって、世界で勝てるとは限らん」


「はい」


「じゃっど、世界へ行く前に国内でここまで上げられた。それは自信にしてよか」


 早苗は表示板をもう一度見る。


 十一秒四六。


 少し前までは、十一秒五〇の壁が遠かった。


 それが今。


 舞と並んで、その壁を明確に越えた。


「舞ちゃん」


「何?」


「アトランタでも一緒に決勝行こう」


 舞は笑う。


「もちろん」


「最後は勝つけどね」


「うちも同じこと思ってる」


 二人は拳を合わせた。


 直樹と三浦、世界最速級へ


 その翌日。


 男子五千メートル。


 こちらも実戦形式の記録会が行われた。


 目的は一つ。


 アトランタの高速レースに対応できるか。


 直樹と三浦は、スタート前から表情が違っていた。


 キプトゥーの一周ごとのラップ。


 何度も体感した。


 最初はついていけなかった。


 後半になるほど離された。


 でも今は違う。


 一周目。


 63秒。


 二周目。


 63秒。


 三周目。


 62秒。


 直樹と三浦は集団の中。


 四周目。


 62秒。


 五周目。


 62秒。


 呼吸はまだ乱れていない。


 三浦が小さく言う。


「田中」


「はい」


「今日、行けるな」


「俺も思ってました」


 六周目。


 61秒。


 七周目。


 61秒。


 少しずつ集団がばらけ始める。


 直樹と三浦は残る。


 八周目。


 61秒。


 黒川が時計を見る。


「よし!」


 九周目。


 60秒台。


 直樹の表情が少し険しくなる。


 三浦も苦しい。


 それでも離れない。


 十周目。


 60秒。


 十一周目。


 59秒台。


 今までなら、ここで設定から遅れていた。


 今日は違った。


 直樹が前へ出る。


 三浦もつく。


 残り六百メートル。


 直樹。


 三浦。


 二人だけが先頭へ抜け出した。


 残り四百。


「直樹ー!」


 遠くから早苗の声。


 舞と聡子も一緒に応援している。


 直樹がわずかに笑う。


「来た……」


 三浦も横で笑った。


「ラブコールだぞ」


「走ってる時に言わんでください!」


 それでも。


 脚は動いた。


 残り三百。


 三浦が一度前へ出る。


 直樹が追う。


 二百。


 二人が並ぶ。


 ラスト二百。


 直樹がさらに加速。


 三浦も全力で追う。


 ゴール。


 直樹、一着。


 三浦、二着。


 二人とも、その場に倒れ込むように減速した。


 黒川が時計を見る。


 しばらく何も言わない。


 直樹が息を切らしながら聞く。


「タイム……」


 黒川が表示板を指す。


 直樹。


 13分18秒台。


 三浦。


 13分20秒台。


 直樹は固まった。


「十三分十八……?」


 三浦も表示板を見る。


「俺も十三分二十?」


 黒川がうなずく。


「今シーズンの高校生世代では」


 一拍。


「直樹が世界最速相当一位」


 直樹の目が大きくなる。


「……」


「三浦が二位」


 三浦も何も言えない。


 少し離れたところから。


「直樹ー!」


 早苗が走ってくる。


「世界一位じゃん!」


「まだ本大会じゃなか!」


 直樹はすぐ突っ込んだ。


「でもシーズンタイム一位!」


「参考記録の比較じゃ!」


「すごいもんはすごい!」


 早苗は直樹の肩を思い切り叩いた。


「痛っ!」


「おめでとう!」


「ありがとう!」


 その横で舞が三浦へ言う。


「三浦さんも二位じゃん!」


 聡子も拍手する。


「日本の一、二位がそのまま世界のシーズン上位だべ!」


 三浦は呼吸を整えながら笑った。


「田中に負けたのは悔しいけど」


 直樹を見る。


「かなり面白くなってきたな」


 直樹も笑う。


「はい」


「アトランタではキプトゥーがもっと上げるぞ」


「分かってます」


「じゃあ次は、本番で勝負だ」


「はい」


 二人は拳を合わせた。


 記録発表


 夕方。


 日本代表ミーティング。


 高瀬慎一郎は、今日までの強化成果を代表選手たちへ伝えた。


「女子百メートル」


 スクリーンに数字が映る。


 大石早苗 11秒46


 林田舞 11秒46


「今シーズン国内高校女子最速。完全同着による両者記録認定」


 拍手。


 早苗は少し照れながら舞を見る。


 舞も笑う。


 続いて。


 田中直樹 13分18秒台


 三浦拓海 13分20秒台


「国際ユース世代のシーズン記録との比較では、現時点で田中が世界最速相当、三浦が二番手相当の水準です」


 代表選手たちがざわついた。


 投てきの大原雄大が声を上げる。


「おい田中、ほんとに世界一じゃん!」


 直樹は慌てる。


「本大会で勝ったわけじゃないです!」


 跳躍の水野琴葉も笑う。


「でも数字は数字でしょ!」


 早苗が腕を組んで胸を張る。


「僕の彼氏、世界最速」


 直樹が振り返る。


「おまえが威張るとこじゃなか!」


 代表選手たちから大爆笑。


 舞が早苗を見る。


「早苗も国内最速じゃん」


「舞ちゃんもね」


「じゃあ日本最速女子二人」


 聡子が笑う。


「そこに世界最速相当男子が一人」


 三浦が自分を指す。


「俺も二位なんだけど」


 舞。


「あ、ごめんなさい」


「忘れないでくれ」


 また笑いが起こった。


 コーチ陣は浮かれない


 だが。


 高瀬はあえて声を落とした。


「皆さん」


 会議室が静かになる。


「いい数字です」


「しかし」


 スクリーンにアトランタ大会の日程が映る。


「世界大会は数字だけでは走れません」


 気温。


 湿度。


 時差。


 移動。


 食事。


 予選。


 連戦。


 他国選手のレース展開。


「大石、林田」


「はい」


「今日十一秒四六が出た。じゃっど、アトランタで十一秒六〇かもしれん」


「はい」


「田中、三浦」


「はい」


「今日世界上位相当のタイムが出た。じゃっど、キプトゥーが本大会で十三分十五を出すかもしれん」


 直樹はうなずく。


「分かってます」


「ならよか」


 高瀬は少し表情を柔らかくした。


「今の記録は、自信にはしていい。安心材料にはするな」


 全員がうなずいた。


「本当の順位は、アトランタのゴールラインで決まります」


 練習後は、やっぱりいつもの二人


 ミーティングを終えたあと。


 早苗と直樹は自動販売機の前にいた。


 早苗は梅ジュース。


 直樹は水。


 早苗が直樹を見上げる。


「世界最速さん」


「やめろ」


「直樹様」


「やめんか」


「世界一位の彼氏」


「まだ本大会始まってなか!」


 早苗は笑う。


「でも嬉しかった?」


「そりゃ嬉しか」


「僕も国内最速」


「舞と同着じゃろ」


「そこ重要」


「じゃあ日本最速梅ジュースガール」


 早苗の顔が変わる。


「誰が梅ジュースガールよ!」


「海外でそう呼ばれちょるじゃん」


「百メートル選手って呼んで!」


「Ume Juice Sprinter」


「英語にすんな!」


 直樹が笑う。


 早苗は梅ジュースを飲みながら直樹を見る。


「でもさ」


「何」


「僕ら、ほんとに強くなったね」


 今度は直樹もふざけなかった。


「ああ」


「最初の記録会の時、こんなところまで来ると思った?」


「全然」


「僕も」


 少しだけ静かな時間。


 早苗が続ける。


「アトランタ、楽しみになってきた」


「怖くなか?」


「怖いよ」


「俺も」


「でも」


 早苗は笑う。


「ケイラと走ってみたい」


 直樹も答える。


「俺もキプトゥーと走りたい」


「勝ちたい?」


「当たり前じゃろ」


「僕も」


 早苗は拳を出す。


 直樹も合わせる。


「行こう」


「おう」


 その直後。


 早苗が急に直樹を見上げる。


「ところで」


「何ね」


「世界との差は縮まったけど」


「うん」


「僕の身長、全然伸びてない」


 直樹が吹き出した。


「そこに戻るんか!」


「重要じゃん!」


「十一秒四六出してもまだ言うと?」


「速さと身長は別!」


「アトランタまでに急に十センチ伸びたらフォーム全部崩れるぞ」


 早苗が固まる。


「……それは困る」


「じゃあ今のままでよかじゃろ」


「でもあと三センチくらい」


「まだ交渉するんか!」


 舞と聡子、三浦が近くで聞いていて、また大爆笑。


 十一秒四六。


 十三分十八秒台。


 世界へ近づいた確かな数字。


 それでも練習が終われば。


 早苗は身長を気にする。


 直樹はそれへツッコむ。


 そして最後には、みんなが笑う。


 競技では世界を本気で追う。


 それ以外では、いつもの高校一年生に戻る。


 二人にとって、それが何より大切なバランスだった。


 次回予告


 第30話「アトランタへのカウントダウン」


 国内最速となった早苗と舞。


 世界ユースシーズン最速級の記録を叩き出した直樹と三浦。


 アトランタ大会まで、残り一か月。


 日本代表の強化は最終段階へ入る。


 時差対策。


 暑さ対策。


 連戦を想定した調整。


 そして、コンディションを落とさずピークを本番へ合わせるため、練習量は少しずつ減っていく。


 ところが早苗は、


「練習減らしたら遅くならん?」


 と不安になり、勝手に走ろうとして篠原に止められる。


 一方の直樹も、世界最速級の記録を出したことで周囲の期待が急上昇。


 メディアから、


「金メダル候補」


 と呼ばれ始める。


 そんな二人へ、舞と三浦が言う。


「記録は日本に置いていこう」


「アトランタではゼロからだ」


 そして海外グループチャットには、ケイラから一言。


「See you in Atlanta. No excuses.」

「アトランタで会おう。言い訳なしでね」


 早苗は笑って返信する。


「No excuses. And ume juice after the race!」

「言い訳なし。レースのあとは梅ジュースね!」


 次回、第30話「アトランタへのカウントダウン」。


 世界最速という肩書では走れない。


 最後に頼れるのは、自分が積み重ねてきた一歩だけだ。

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