ジャパニーズ・コメディ・カップル
第28話 ジャパニーズ・コメディ・カップル
オンライン交流会から数日。
ユースオリンピック日本代表の強化練習では、ついに「世界の選手を具体的に想定した練習」が始まった。
これまでのように、自分のベストタイムだけを見るのではない。
相手がどのようなペースで走るのか。
どの地点で加速するのか。
どこで自分との差が生まれるのか。
その数字を、一周、一歩ずつ体で知る。
午前。
男子長距離ブロック。
黒川昌彦コーチは、ホワイトボードへ一人の名前を書いた。
Daniel Kiptoo
ケニア代表。
ダニエル・キプトゥー。
オンライン交流会で直樹と話した、あの選手だった。
「今日はキプトゥーのレース映像を基に、五千メートルの想定ペースを作る」
直樹と三浦拓海が前へ出る。
黒川はホワイトボードへ、一周四百メートルごとの設定を書いていった。
キプトゥー想定ラップ
一周目 64秒
二周目 64秒
三周目 63秒
四周目 63秒
五周目 63秒
六周目 63秒
七周目 62秒
八周目 62秒
九周目 62秒
十周目 61秒
十一周目 61秒
十二周目 59秒
残り200メートル 28秒台想定
三浦がホワイトボードを見つめた。
「最後、かなり上げますね」
「そこがキプトゥーの強みじゃ」
黒川が答える。
「前半から十分速い。じゃっど、怖いのはそこじゃなか。四千メートルを過ぎてから、さらに一段上げられる」
直樹は腕を組む。
「国内だと、前半からこのペースなら最後は落ちる選手も多かです」
「世界は落ちん」
黒川の言葉は短かった。
「今日はまず、どこまで体感できるかを見る。全部ついていく必要はなか」
直樹が聞く。
「最初から設定どおりですか?」
「そうじゃ。ただし、きつくなったら離れてよか。無理して一本潰すより、どこで苦しくなるかを知れ」
「はい」
三浦もうなずく。
直樹はスタートラインへ入った。
その少し離れたところ。
早苗は女子短距離ブロックの準備をしながら、直樹のほうを見ている。
「一周64秒って、五千ずっとだと相当速かよね」
舞が答える。
「しかも最後59秒だって」
早苗は顔をしかめる。
「世界の長距離、怖っ」
「早苗も人のこと言えないっしょ」
「何で?」
「今からケイラのタイム体感するんでしょ」
「あ」
早苗は女子短距離コーチの篠原美和を見る。
こちらにも、すでに世界基準のメニューが用意されていた。
キプトゥーを追う
男子五千メートル想定走。
「位置について」
号令。
直樹と三浦、それに数人の強化指定選手がスタートする。
一周目。
64秒。
「ちょっと速か……」
直樹はまだ余裕がある。
二周目。
64秒。
三周目。
63秒。
ここまではついていける。
四周目。
63秒。
三浦も横にいる。
「まだいけるな」
「はい」
五周目。
63秒。
呼吸が少し荒くなる。
六周目。
63秒。
直樹の表情が変わった。
「これ……まだ半分くらいですよね」
三浦が苦笑する。
「言うな。余計きつくなる」
七周目。
62秒。
「上げるぞ!」
黒川の声が飛ぶ。
直樹は脚を回す。
八周目。
62秒。
少しずつ余裕がなくなる。
九周目。
62秒。
直樹がわずかに設定から遅れた。
63秒台。
「くそ……」
十周目。
61秒設定。
直樹はついていけない。
62秒後半。
三浦も苦しい。
十一周目。
61秒。
さらに差が広がる。
そして十二周目。
59秒。
ペースメーカーが一気に上げる。
直樹は完全についていけなかった。
「速っ……!」
最後の二百メートル。
28秒台想定。
直樹は自分のペースでゴールへ入った。
膝へ手をつく。
「……きつ」
三浦も横で呼吸を整えている。
「最後、別競技みたいだったな」
「はい」
黒川が近づいてくる。
「どうじゃ」
直樹は率直に答えた。
「今は無理です」
「どこから?」
「九周目くらいから少し遅れて、十周目以降は明らかについていけんかったです」
「そいが今日の収穫じゃ」
黒川は記録表を見せる。
「最初の六周はほぼ設定どおり。七、八周も悪くなか。問題は九周以降」
直樹は自分のタイムを見る。
「世界との差、ここですね」
「ああ。じゃっど、これから縮めればよか」
直樹は息を整えながらうなずいた。
「もう一回やりたいです」
「今日はせん」
「ですよね」
三浦が笑う。
「田中、世界相手だと急に素直だな」
「だって速すぎますもん」
早苗はケイラの速さを体感
一方。
女子短距離ブロック。
篠原美和が早苗と舞へ、ジャマイカ代表のケイラ・ブラウンのデータを見せていた。
ケイラの百メートル。
前半三十メートル。
中盤。
六十メートル以降。
区間ごとの速度が表示される。
早苗は画面を見つめた。
「最初の三十、速か」
舞も言う。
「でもエマほどスタート一辺倒じゃないね」
「うん。後半も落ちん」
篠原がうなずく。
「ケイラは加速が滑らか。早苗と似てる部分もある。今日は、ケイラの区間タイムを設定して、三十、六十、八十、百で比較する」
早苗が聞く。
「最初はついていけなくても?」
「当たり前。世界トップの設定じゃ。最初からできたら苦労せん」
「はい」
一本目。
三十メートル。
早苗は設定より0.12秒遅い。
「うわ、全然届かん」
二本目。
0.09秒差。
三本目。
0.07秒。
舞が横で言う。
「縮まってる」
「うん」
早苗の表情が変わる。
四本目。
0.05秒差。
五本目。
0.03秒。
「近づいてきた!」
篠原はすぐ止める。
「喜ぶのはまだ早い。力んだら次で崩れるよ」
「はい」
六本目。
早苗はスタートで少し遅れる。
しかし二十メートルから滑らかに加速。
三十メートル。
設定と同タイム。
「並んだ!」
舞が声を上げる。
早苗自身も驚いた。
「ほんと?」
「ほんと」
篠原はストップウォッチを見る。
「じゃあ次、六十メートル」
一本目。
設定より0.08秒遅い。
二本目。
0.05秒。
三本目。
0.02秒。
そして四本目。
「大石!」
早苗がゴールを駆け抜ける。
篠原が時計を見る。
一瞬黙る。
「設定より0.01秒速い」
早苗の目が大きくなる。
「え?」
舞も驚く。
「ケイラ設定より?」
「この一本だけならね」
篠原はすぐ釘を刺す。
「ただし、ケイラはこれを本番の百メートル全体の中で出してくる。早苗は六十だけ。そこは勘違いすんな」
「はい」
でも。
早苗は少し笑った。
最初は全く届かなかった。
それが一本ごとに縮まり。
ついには、区間だけとはいえ設定を上回った。
できない。
から。
少しできる。
へ。
世界との差は、数字として確かに縮まっていた。
百メートル想定
最後に、早苗と舞は百メートルを一本だけ走ることになった。
目的は勝負ではない。
ケイラのレースパターンを意識しながら、どれだけ自分の走りを崩さないか。
「舞ちゃん」
「何?」
「最初の三十、飛ばしすぎんようにする」
「うちはエマ型で行く」
「じゃあ僕はケイラ型」
「本番みたいだね」
「負けんよ」
「こっちも」
スタート。
舞が先行。
早苗は焦らない。
三十メートル。
差はわずか。
五十メートル。
早苗が並ぶ。
六十メートル。
完全に並走。
八十メートル。
早苗が半歩前。
そしてゴール。
タイム。
早苗、十一秒四九。
舞、十一秒五一。
一瞬。
早苗は表示を見たまま動かなかった。
「……十一秒四九?」
篠原がうなずく。
「初めて十一秒五〇を切ったね」
舞が笑いながら早苗の肩をたたく。
「やったじゃん!」
早苗はようやく笑顔になる。
「やった!」
ただし篠原は冷静だった。
「一本出たからって、アトランタで必ず出るわけじゃないよ」
「はい」
「じゃっど、世界の設定を体感して、自分のタイムが上がった。これは大きい」
早苗は深くうなずいた。
「ケイラにちょっと近づいた気がします」
「その感覚でよか」
直樹、二回目の世界設定
午後。
直樹と三浦は、午前の五千メートルをそのまま繰り返すのではなく、後半部分だけを切り出した練習へ入った。
二千メートル。
最初の千は63秒から62秒。
次の八百を61秒。
最後の二百を29秒前後。
直樹は午前より明らかに動けた。
一周目。
63秒。
二周目。
62秒。
三周目。
61秒。
苦しい。
でも、ついていける。
最後の二百。
ペースメーカーが加速。
「直樹ー!」
競技場の外側から、早苗の声。
直樹の口元がわずかに緩む。
「また来た……」
それでも脚は動いた。
二百メートル。
29秒6。
午前より明らかに改善していた。
黒川が時計を見る。
「よし」
直樹は肩で呼吸する。
「キプトゥー設定まではまだですけど」
「午前より近づいた」
「はい」
「そいでよか」
三浦も隣で笑う。
「世界設定、きついけど面白いな」
「はい」
直樹は遠くを見る。
キプトゥー。
オンラインでは笑い合った。
だが、競技になると本当に強い。
「アトランタでついていきたいです」
黒川が答える。
「じゃあ、そのために一日ずつ縮めろ」
練習が終われば、世界モード終了
夕方。
すべての練習が終了。
早苗は芝生へ寝転がった。
「つかれたぁぁぁ」
直樹もその横へ座る。
「俺も」
「世界速すぎ」
「ほんとな」
舞と聡子、三浦も近くへ集まっている。
早苗が直樹を見る。
「直樹、キプトゥー設定どうだった?」
「最後、地獄」
「そんなに?」
「十二周目59秒で、最後二百28秒台とか、誰が考えたんじゃって感じ」
早苗は少し考える。
「僕が横からラブコールしたら一秒くらい縮む?」
「一周一秒縮んだら、とんでもない強化じゃが」
「じゃあ毎周叫ぶ」
「うるさすぎて逆に失速する!」
舞が笑い始める。
早苗は続ける。
「一周目、直樹ー!」
「やめろ」
「二周目、好きー!」
「やめんか」
「三周目、愛しちょるー!」
「世界大会で公開処刑すんな!」
三浦が腹を抱える。
「田中、心拍数は確実に上がるな」
「違う意味で!」
聡子も笑う。
「トレーニング効果あるべ」
「ないです!」
早苗は楽しそうに直樹を見る。
「じゃあゴール前だけ」
「普通の応援にして」
「直樹ー、結婚してー!」
直樹が飲んでいた水を噴きそうになった。
「何でゴール前にプロポーズされんといかんの!」
舞が崩れる。
「だめ、腹痛い!」
三浦も笑う。
「田中、ゴールした瞬間返事しろよ」
「レース後で酸欠なのに!」
早苗は腹を抱えて笑っている。
「直樹、顔真っ赤」
「誰のせいじゃ!」
今度は早苗がいじられる
直樹も反撃に出る。
「早苗こそ、ケイラ設定より速かったんじゃろ?」
「六十だけね」
「じゃあ本番も速く走れるように、俺が応援してやる」
「どんな?」
直樹は少し考える。
「早苗ー!」
「うん」
「あと十センチ伸びろー!」
「身長は走ってる途中に伸びんわ!」
全員、大爆笑。
直樹は続ける。
「早苗ー! ゴールに梅ジュースあるぞー!」
「それは速くなるかも」
「なるんか!」
「給水目標」
「百メートルに給水所はいらん!」
舞が腹を押さえる。
「ほんと、練習終わった途端これだよね」
聡子も笑う。
「さっきまで世界相手に真剣な顔してたのに」
三浦が言う。
「競技モードと日常モードの差が激しすぎる」
早苗は胸を張る。
「切り替えは大事」
直樹が即座に言う。
「切り替え幅がでかすぎる!」
世界から届いた動画
その時。
早苗のスマートフォンが鳴った。
「ん?」
海外選手のグループチャット。
送信者は、アメリカ代表のエマ・ジョンソン。
「動画来た」
「何?」
舞たちが集まる。
早苗が再生する。
画面に映ったのは、アメリカの大型スーパー。
エマとケイラがカメラへ向かっている。
「Hi, Sanae!」
「早苗、こんにちは!」
「Today, we’re looking for ume juice!」
「今日は梅ジュースを探しに来ました!」
早苗の口が開く。
「……」
動画では、二人が飲料コーナーを歩き回る。
「Plum juice?」
「No, not this one.」
「Japanese ume……」
そして。
エマが一本の商品を持ち上げる。
「We found it!」
「見つけた!」
ラベルには、英語で表示された南高梅ジュース。
ケイラが笑いながら言う。
「Sanae, we’re ready for Atlanta!」
「早苗、これでアトランタの準備はできたよ!」
早苗はスマートフォンを見つめたまま固まった。
直樹が言う。
「世界まで梅に巻き込まれちょる……」
舞が大笑い。
「完全に早苗のせい!」
聡子も笑う。
「世界規模の梅ジュース普及活動だべ」
早苗は嬉しそうにスマートフォンを抱える。
「僕、世界に貢献しちょる?」
直樹が即答する。
「何の貢献じゃ!」
早苗は動画へ英語で返信した。
「Thank you! Let’s drink ume juice together in Atlanta!」
「ありがとう! アトランタで一緒に梅ジュース飲もう!」
数秒後。
エマから返信。
「After the race!」
「レースのあとにね!」
さらにケイラ。
「No sparkling ume juice before the 100 meters!」
「百メートルの前に炭酸入り梅ジュースは禁止ね!」
一同、沈黙。
そして。
直樹が腹を抱えて笑った。
「あはははは!」
「世界にげっぷ事件まで伝わっちょる!」
早苗が顔を真っ赤にする。
「誰が教えたの!」
舞がそっと目をそらす。
三浦も目をそらす。
聡子も天井を見る。
「おまえらぁぁぁ!」
夕方の競技場に、早苗の声が響いた。
その直後。
日本代表の選手たちは、また腹筋が痛くなるほど笑った。
世界の速さを知った日。
早苗は十一秒五〇の壁を破った。
直樹はキプトゥーの後半ペースへ少しだけ近づいた。
世界との差は、まだある。
だが。
昨日よりは近い。
そして練習が終われば、またいつもの二人へ戻る。
それが、早苗と直樹にとって一番自然な戦い方だった。
次回予告
第29話「十一秒四九と、あと一秒」
世界基準を想定した練習で、ついに十一秒五〇の壁を破った早苗。
一方の直樹も、キプトゥーを想定した後半ラップで少しずつ世界との差を縮め始める。
しかし、日本陸連のコーチ陣は二人へ告げる。
「一回できたことと、本番でできることは違う」
再現性。
疲労。
気候。
時差。
プレッシャー。
アトランタで勝つには、まだ足りない。
そこで早苗は舞と、直樹は三浦と、それぞれ「世界を想定した連続実戦」へ入る。
ところが練習後。
直樹が早苗へ言う。
「世界との差は縮まったけど、身長は一ミリも縮まってないな」
「そこは縮めるんじゃなくて伸ばすの!」
そして海外グループチャットでは、ついに「Ume Juice Challenge」なる謎企画まで始まり――。
次回、第29話「十一秒四九と、あと一秒」。
一秒は長い。
百分の一秒は短い。
けれど世界との差は、その小さな積み重ねでしか縮まらない。




