彼氏と登校する朝
第23話 彼氏と登校する朝
公開告白から一夜。
早苗は、いつものように田中家の前まで来ていた。
いつもなら何も考えずにインターホンを押す。
幼稚園のころから、何百回、何千回と繰り返してきた朝だった。
なのに今日は、指が止まる。
「……昨日まで幼なじみだったのに」
早苗は小さくつぶやく。
「今日から彼氏なんだよね……」
その言葉を自分で口にした瞬間、急に恥ずかしくなった。
「うわ、何これ」
胸のあたりが落ち着かない。
県記録を狙った百メートル決勝のほうが、まだ分かりやすかった。
スタートラインへ立てば走ればいい。
だが今日は、インターホンのボタン一つがやたら遠い。
「押せ、僕」
右手を伸ばす。
「普通に押せ」
また引っ込める。
「いや、彼氏の家って考えるから変になるんじゃん。直樹の家。いつもの田中家」
再び指を伸ばす。
その瞬間。
玄関の扉が開いた。
「うわっ!」
「うわっ!」
早苗と直樹が同時に声を上げた。
二人とも固まる。
「……お、おはよう」
直樹が先に言う。
「お、おはよう」
早苗も返す。
そして。
沈黙。
昨日までなら、ここから寝ぐせだの、ホークスだの、朝飯だの、何かしら話が始まっていた。
今日は妙にぎこちない。
直樹が頬をかく。
「行く?」
「うん」
二人は並んで歩き出した。
しかし、距離が微妙に空いている。
早苗が横を見る。
「直樹」
「何?」
「昨日まで、こんな離れて歩いてなかったよね」
「そ、そうじゃな」
「何で離れちょっと?」
「早苗もじゃろ」
「僕は直樹が離れたから!」
「俺は早苗が離れたから!」
二人とも足を止めた。
顔を見合わせる。
「……何しちょっとんやろね、僕ら」
「付き合った途端、全部分からんくなったな」
早苗が吹き出した。
「昨日まで何年幼なじみやってたんだよ」
「幼稚園からじゃ」
「じゃあ普通でよかじゃん」
「そうじゃな」
二人は少しだけ距離を戻した。
肩が触れそうなくらい。
それだけで、早苗は少し安心した。
田中家二階の窓。
裕美と優樹菜がカーテンの隙間から見ていた。
「昨日まであんなに喋ってたのに」
「付き合ったら急に中学生みたいになっとる」
二人は朝から大爆笑だった。
鹿児島高校、彼氏採用発表
学校へ到着すると、当然ながら一年三組は二人を放っておかなかった。
前園健吾が教室の前で待ち構えている。
「田中!」
「朝から何ね」
「彼氏候補の第一次審査、結果どうじゃった?」
直樹の顔が赤くなる。
「何でおまえが知っちょっとよ」
美月が早苗の肩を抱く。
「早苗、発表どうぞ」
「何を」
「採否」
「会社じゃないって」
教室中が見ている。
早苗は少し恥ずかしくなったが、昨日の田中家での出来事を思い出す。
そして。
「……採用しました」
一秒。
教室、大爆発。
「うおおおお!」
「正式採用!」
「田中、内定!」
「彼氏採用通知!」
「試用期間あるん?」
直樹が机をたたく。
「何で俺が企業みたいに扱われちょっとよ!」
早苗は笑いながら言う。
「条件付き採用」
「まだ条件あると?」
「寝ぐせ笑わない」
「そいだけは努力目標にしてくれ!」
「減点一」
「付き合った初日から査定始まるんか!」
福留千鶴が教室へ入ってきたところで、その会話を聞いた。
「朝から何の人事評価をしちょっとね」
「先生、田中が彼氏として採用されました」
健吾が即答。
「前園!」
千鶴は早苗と直樹を見た。
「そうね」
「先生、反応薄くないですか?」
早苗が聞く。
「周りから見たら、やっと名前がついただけじゃからね」
教室中がまた笑った。
「先生まで!」
直樹は頭を抱えた。
放課後、今度は大石家へ
その日の放課後。
陸上部の練習を終えた早苗と直樹は、いつもの帰り道を歩いていた。
早苗が突然言う。
「直樹」
「何ね」
「今日、うち寄っていかん?」
「大石家?」
「うん」
「何かあると?」
早苗は少し照れながら言った。
「昨日、田中家でちゃんと付き合うことになったじゃん」
「うん」
「僕の家族にも、自分の口から言っとこうかなって」
直樹の足が止まった。
「俺も行くん?」
「彼氏なんだから来るでしょ」
「……」
「何、その顔」
「急に緊張してきた」
「昨日、うち何回も来ちょるじゃん」
「昨日までと今日じゃ立場が違う!」
直樹の顔が、目に見えて硬くなる。
早苗は横からのぞき込んだ。
「直樹」
「何」
「顔」
「何」
「めっちゃ固まっちょる」
「緊張しちょるんじゃ」
「フランケンシュタインみたい」
「誰がフランケンシュタインじゃ!」
そう言い返す声まで、妙に硬かった。
早苗は笑い始める。
「歩き方まで変だよ」
「普通じゃ」
「肩、ガッチガチ」
「娘さんと付き合わせてくださいって言うんじゃろ?」
「結婚の挨拶じゃないよ!」
「そいでも緊張するが!」
早苗はますます笑う。
「県記録とか日本代表とか、全然平気だったのに」
「競技とこれは別じゃ!」
「直樹、かわいかね」
直樹の顔がさらに赤くなった。
「急にそげなこと言うな!」
大石家、第一声は「遅いわ」
大石家へ到着。
「ただいまー」
早苗が玄関を開ける。
「おじゃまします」
直樹も続く。
リビングには父・恒一、母・美紀、兄・翔太、弟・陽斗がそろっていた。
早苗は少しだけ深呼吸する。
「みんな、ちょっと話ある」
翔太がすぐに直樹を見る。
「だいたい分かった」
「まだ言ってないじゃん」
美紀も笑っている。
「直樹君、その顔どうしたの?」
早苗が横を見る。
直樹は背筋を伸ばしすぎて、完全に硬直していた。
目も少し見開いている。
翔太が吹き出す。
「ほんまにフランケンシュタインみたいになっとる」
「兄ちゃん! 僕と同じこと言った!」
直樹はさらに緊張する。
「え、えっと……」
恒一が穏やかに言う。
「まあ座りなさい」
「は、はい!」
直樹は勢いよく返事をする。
座る動作までカクカクしている。
陽斗が小声で言う。
「ロボットやん」
「聞こえちょるぞ」
直樹の声だけは低い。
全員が座る。
早苗は自分から切り出した。
「あのね」
家族が見る。
「僕と直樹、昨日からちゃんと彼氏、彼女として付き合うことになりました」
一瞬の間。
大石家の家族は顔を見合わせた。
そして。
「遅いわ」
父・恒一。
「遅いね」
母・美紀。
「やっと?」
兄・翔太。
「今まで違ったん?」
弟・陽斗。
早苗。
「えええええ!」
直樹まで目を丸くした。
「反応それだけですか?」
翔太が笑う。
「だって幼稚園からずっと一緒やん」
陽斗も続く。
「毎朝一緒に学校行って、休日も出かけて、陸上でも応援して」
美紀。
「上着まで借りて帰ってきたこともあるし」
恒一。
「日本代表の合宿ではラブコールやったんやろ?」
「何でそこまで知っちょっと!」
早苗の声が響く。
家族全員が笑う。
「田中家から情報来てる」
「家族ネットワーク怖っ!」
直樹、人生最大級に噛む
ここで直樹が姿勢を正した。
「俺からも、きちんと挨拶します」
早苗が横を見る。
「直樹、大丈夫?」
「大丈夫じゃ」
全然大丈夫そうではない。
直樹は一度、深く息を吸う。
恒一と美紀を見る。
「こ、このたびは……」
噛んだ。
「このたびは、早苗さんと、お、おちゅ……」
止まる。
翔太の肩が震え始める。
直樹は言い直す。
「お、お付き合いを、さ、させていただくことに……」
「うん」
恒一は笑いをこらえている。
「なりまして」
「うん」
「ぼ、僕……じゃなくて俺は」
早苗が横で口元を押さえる。
「直樹、頑張れ」
「笑うな!」
「笑ってない」
「肩震えちょる!」
直樹はさらに混乱する。
「早苗さんを、だ、大切に……」
ここまではよかった。
「たいせちゅに……」
早苗。
「ぶっ!」
翔太。
「あはははは!」
陽斗も耐えられない。
「たいせちゅ!」
「笑うなぁ!」
直樹の顔は真っ赤。
もうフランケンシュタインどころではない。
表情筋が完全に迷子だった。
それでも直樹は言い直す。
「大切にします!」
今度は言えた。
「だから……」
一度息を整える。
「これからも、早苗と付き合っていくことを認めてもらえたら嬉しいです」
最後だけは、きちんと言えた。
リビングの空気が少しだけ変わる。
恒一は直樹をまっすぐ見た。
「直樹君」
「はい」
「そんなに緊張せんでも、君のことは小さいころから知っとる」
「はい」
「早苗が君と一緒におる時、楽しそうなのも知っとる」
早苗は少し照れた。
美紀も言う。
「直樹君なら心配してないよ」
直樹の肩から、少し力が抜けた。
「ありがとうございます」
恒一は続ける。
「ただし」
直樹の背筋がまた伸びる。
「高校一年生や。二人とも陸上も勉強もある。お互いの夢を邪魔するような付き合い方だけはせんようにな」
「はい」
直樹はしっかり返事をした。
早苗も隣でうなずく。
「僕も分かっちょる」
「それならよし」
恒一は笑った。
でも、やっぱり最後は爆笑
話がまとまり、早苗はほっと息を吐いた。
「よかったぁ」
翔太が直樹を見る。
「でも、直樹」
「何ですか」
「さっきの挨拶、動画撮っとけばよかった」
「やめてください!」
陽斗が再現する。
「早苗さんを、たいせちゅにします!」
「やめろ!」
早苗は腹を抱える。
「あはははは! 直樹、たいせちゅ!」
「早苗まで言うな!」
「彼氏の名言」
「黒歴史じゃ!」
美紀も笑いながら飲み物を出す。
「ほら、直樹君。コーヒー」
直樹は一瞬、コーヒーを見る。
昨日の鼻から噴射事件を思い出す。
「今日は噴かんように気をつけます」
早苗が梅サイダーを持つ。
「僕も」
翔太が聞く。
「何かあったん?」
二人が同時に答える。
「何でもない!」
その息の合い方に、また大石家が笑った。
少しして。
早苗は直樹の隣へ自然に座り直した。
昨日までも隣だった。
今日も隣。
ただ、その意味が変わった。
直樹はもう「将来、早苗の彼氏になる予定」ではない。
早苗はもう「直樹が他の誰かと付き合ったら嫌」と心の中だけで思っているわけでもない。
二人は、ちゃんと言葉にした。
好き。
付き合いたい。
隣にいたい。
そして。
その日の大石家では早くも、二人に新しいあだ名までつきかけていた。
「両隣想いカップル」
もちろん。
「そのまんまじゃん!」
早苗のツッコミで即座に却下された。
次回予告
第24話「初デートは何をする?」
正式に付き合い始めた早苗と直樹。
ところが、幼稚園からずっと一緒に遊んできた二人には、大きな問題があった。
「デートって、何すると?」
「俺に聞くな」
平川動物公園はすでに二人で行った。
ホークス観戦も普段から一緒。
買い物も、梅ジュースも、鉄道も、全部これまでやってきた。
「じゃあ、今まで全部デートだったんじゃない?」
美月の一言に二人は固まる。
一方、日本陸連からはアトランタに向けた最初の語学・国際マナー研修の日程が届く。
英語。
食事。
海外での挨拶。
そして他国選手とのコミュニケーション。
だが早苗の最大の関心事は――。
「アメリカでデートするとしたら、梅ジュースあるかな?」
「何でも梅につなげんな!」
次回、第24話「初デートは何をする?」
付き合ったからといって、二人の日常が急に恋愛ドラマになるわけではない。




