日の丸のジャージ
第18話 日の丸のジャージ
全国強化合宿の最終日。
宿泊施設の大会議室には、ユースオリンピック日本代表に選ばれた陸上選手たちが集まっていた。
短距離。
中距離。
長距離。
ハードル。
跳躍。
投てき。
これまで別々の種目で競い、別々の場所で努力してきた高校生たちが、今度は同じ日本代表として一つの場所に並んでいる。
壇上の横には、大きな段ボール箱がいくつも置かれていた。
日本陸連育成部長の高瀬慎一郎が、選手たちを見渡す。
「これから、ユースオリンピック日本代表として使用するウェア一式を配布します」
選手たちの表情が一気に明るくなった。
早苗も椅子から少し身を乗り出す。
「直樹」
「何ね」
「日の丸じゃっど」
「見れば分かっど」
「僕、ほんとに着るんだよね」
「昨日から何回確認すっとよ」
「だってさ」
早苗は小さな声で言った。
「鹿児島高校のジャージ着ちょった僕が、今度は日本代表のジャージ着るんだよ」
直樹も少しだけ表情を緩めた。
「俺もまだ実感なか」
「直樹でも?」
「国内高校記録出したからって、いきなり日本代表になる実感までついてこんが」
「そっか」
早苗は少し安心したように笑った。
「僕だけじゃなかった」
やがて、選手たちが一人ずつ名前を呼ばれ、代表ウェアを受け取っていく。
胸には日の丸。
背中にはJAPANの文字。
そして、それぞれの名前が入っていた。
「大石早苗」
「はい!」
早苗は勢いよく立ち上がる。
舞が後ろから笑う。
「返事だけは代表級だね」
「声戻ったからね」
「昨日潰したばっかりなのに」
「今日は大事に使う」
「信用できない」
早苗はウェア一式を受け取り、その場で何度も確認した。
「ほんとに僕の名前ある」
「そりゃあるっしょ」
舞が横からのぞき込む。
「SANAE OISHIじゃなくて、ちゃんとS. OISHIって入ってる」
「僕、日本代表に見える?」
早苗はジャージを胸元に当て、舞と聡子へ尋ねた。
「見えるよ」
舞が即答する。
「似合ってるべ」
聡子も笑う。
早苗は今度は直樹を見る。
「直樹、どう?」
「似合っちょる」
「ほんと?」
「ほんと」
「小さく見えん?」
「そこ気にすっとか」
「代表でも身長は大事じゃん」
「日の丸に身長は書いてなか」
「でも舞ちゃんと聡子ちゃんの横に並んだら、僕だけ一段低い」
「台に乗る?」
「それはもっと嫌」
周囲の女子選手たちが笑い出した。
一方、直樹も代表ジャージを受け取る。
ところが。
「田中直樹」
「はい」
渡された袋を開け、直樹がジャージを広げる。
「……」
早苗が横から見る。
「直樹」
「何ね」
「それ、小さくない?」
「そんなことなかじゃろ」
直樹は上着を自分の体へ合わせてみる。
袖が明らかに短い。
早苗の目が丸くなる。
「直樹、それ絶対サイズ違う」
「え」
ラベルを見る。
「M」
直樹は固まった。
「俺、Lで申請したんだけど」
舞が吹き出す。
「その身長でMは無理っしょ!」
聡子も笑う。
「腕、全部出るべ」
早苗は直樹のジャージ姿を想像してしまった。
「直樹がM着たら、七分袖になるんじゃない?」
「代表ジャージを勝手に季節仕様にすんな!」
早苗は腹を抱える。
「世界大会で一人だけ腕出ちょったら目立つよ」
「そげな目立ち方いらん!」
高瀬が書類を確認する。
「田中選手、すみません。どうやら別選手のサイズと入れ替わっています」
「ですよね」
交換用の袋が持ってこられる。
今度はL。
直樹が広げると、ようやく適正な大きさだった。
早苗がうなずく。
「よかったね」
「誰が一番笑ってたんだよ」
「僕」
「認めるな!」
全国強化合宿最後の日まで、二人は平常運転だった。
他種目の選手たちからも注目される二人
代表ウェアの配布が終わると、選手たちはその場でジャージへ着替え、記念撮影の準備へ入った。
そこで早苗と直樹は、これまであまり話す機会のなかった跳躍、投てきの選手たちとも顔を合わせる。
最初に近づいてきたのは、女子走幅跳代表の水野琴葉だった。
「大石さん」
「はい?」
「ずっと聞いてみたかったんだけど」
「何?」
琴葉は早苗と直樹を交互に見る。
「田中君とほんとに付き合ってないの?」
早苗の目が丸くなる。
直樹は少し離れたところで嫌な予感を覚える。
「付き合ってないよ」
「でも、ずっと一緒なんでしょ?」
「幼稚園から」
「毎日?」
「ほぼ」
「応援も?」
「するよ」
「隣にいたいって言ったんでしょ?」
「言った」
琴葉はしばらく早苗を見る。
「それ、もう彼氏じゃない?」
「違うの?」
早苗が逆に聞く。
「こっちが聞いてるんだけど!」
周囲に笑いが起こる。
そこへ女子砲丸投代表の土屋千夏も加わる。
「いいなあ」
「何が?」
「私にもあんな彼氏ほしい」
早苗はすぐに直樹を見る。
「直樹、彼氏扱いされちょっど」
「聞こえちょる!」
千夏は笑いながら続ける。
「背高いし、優しいし、早苗のことずっと見てるじゃん」
「見てない!」
「見ちょるよ」
舞が即答する。
「めちゃくちゃ見てるべ」
聡子も続く。
「特に早苗が何かやらかしそうな時」
三浦まで加わる。
「田中は危機管理してるだけだろ」
「そうです!」
直樹は味方を得たと思った。
しかし三浦は続けた。
「ただ、大石が別の男子と話してる時はちょっと気にしてる」
「三浦先輩!」
周囲がまた爆笑する。
一方、男子跳躍・投てき選手たちも直樹を囲み始めていた。
男子走高跳代表の真田悠真が、早苗のほうを見ながら言う。
「田中」
「何ですか」
「俺にもあんな彼女ほしいわ」
「だから彼女じゃないです」
「でも、明るいし、応援してくれるし、負けた時でも笑わせてくれそうじゃん」
男子砲丸投代表の大原雄大も大きくうなずく。
「分かる。ああいう子が隣におったら、試合前の緊張なくなりそうだな」
直樹は少しだけ黙った。
それはよく分かる。
記録会でも。
全国合宿でも。
早苗が近くにいると、どれほど大きな舞台でも最後にはいつもの自分へ戻れる。
直樹が何も言わないのを見て、大原が笑う。
「やっぱり彼女じゃん」
「違います!」
「今の沈黙が答え」
「考えただけです!」
そのやり取りが聞こえたのか、早苗が駆け寄ってくる。
「直樹」
「何ね」
「僕のこと彼女に欲しいって言われた」
「言い方!」
「人気者じゃん、僕」
「調子乗んな」
「直樹、心配?」
「何が」
「僕が誰かに取られるかもよ」
直樹の顔が一瞬固まる。
「……そいは」
舞が遠くから叫ぶ。
「田中君、ここ重要!」
三浦も続く。
「逃げるな!」
「何で代表全員で恋愛尋問すっとよ!」
直樹は顔を赤くしながら早苗を見る。
「早苗は……」
「うん?」
「勝手にどっか行かんじゃろ」
「行かんよ」
「じゃあ心配せんでよか」
早苗は少し嬉しそうに笑った。
「僕、直樹の隣におるもんね」
「……まあな」
大原が手を叩いた。
「それ彼女じゃん!」
「違います!」
「違うよ!」
二人の否定だけは、今日も完璧にそろっていた。
開催地発表
午後。
再び全選手が大会議室へ集まった。
前方のスクリーンには、ユースオリンピックの大会ロゴが映し出されている。
高瀬がマイクを持った。
「ここからは、本大会までの強化計画について説明します」
選手たちは一斉に資料を開く。
「今回のユースオリンピック陸上競技は、アメリカ合衆国・アトランタで行われます」
会議室がざわついた。
アトランタ。
世界大会。
海外遠征。
早苗も資料に書かれた文字を見つめる。
「アトランタ……」
直樹が小声で言う。
「アメリカじゃな」
「うん」
「初海外?」
「僕は初めて」
「俺も」
高瀬は説明を続ける。
「今後は国内合宿を複数回行います。また、大会前には英語を中心とした語学研修、海外大会でのルール確認、時差への対応、食事管理なども実施します」
早苗は真剣に聞いている。
「海外では、日本国内と同じ環境が用意されるとは限りません。食事、気候、言語、競技場、すべてが違います」
その瞬間。
早苗の眉がわずかに動いた。
舞が隣で気づく。
「早苗」
「ん?」
「何か考えた?」
「うん」
「嫌な予感する」
高瀬が続ける。
「質問はありますか」
早苗の手が上がった。
直樹が目を閉じた。
「来た……」
高瀬も、もう慣れた様子だった。
「大石選手」
「はい」
「どうぞ」
早苗は立ち上がる。
「アトランタにも梅ジュースありますか?」
会議室が静まり返った。
「……」
高瀬。
「……」
篠原。
「……」
黒川。
そして。
「へ?」
舞が声を漏らす。
聡子が早苗を見る。
「心配すること、そこ?」
次の瞬間。
会議室が爆発した。
「あはははは!」
「世界大会の最初の心配が梅ジュース!」
「早苗、ぶれなさすぎ!」
「アトランタまで梅持っていく気?」
直樹は額を押さえている。
「早苗」
「何?」
「アトランタに行く話を聞いて最初に考えたことが梅ジュース?」
「食事環境は大事って高瀬さん言ったじゃん」
「もうちょっとほかにあるじゃろ!」
「言葉とか?」
「そう!」
「競技場とか?」
「そう!」
「時差とか?」
「そう!」
「梅ジュースとか?」
「戻るな!」
代表選手たちが腹を抱える。
大原雄大は大きな体を揺らしながら笑っていた。
「無理だ! 大石、面白すぎる!」
水野琴葉も涙をぬぐう。
「私、緊張してたのに全部飛んだ!」
舞は早苗の肩をたたく。
「世界大会でも絶対そのままでいて」
「僕は僕じゃっど」
早苗は胸を張った。
直樹が即座に答える。
「そいだけは誰も心配しちょらん」
「どういう意味?」
「世界のどこに行っても、早苗は早苗じゃろ」
「褒めちょる?」
「かなり」
早苗は少し嬉しそうに笑う。
高瀬も苦笑しながら回答した。
「現地で梅ジュースが確実に用意される保証はありません」
早苗が露骨に肩を落とす。
「ただし、選手の食事や補給については栄養スタッフと相談できます」
「じゃあ持っていってもよかですか?」
「持ち込み可能な食品かどうか、事前に確認しましょう」
「はい!」
早苗は満足そうに座った。
直樹が小声で言う。
「日本代表になって、陸連スタッフに梅ジュースの持ち込み確認させる選手、早苗くらいじゃろ」
「先駆者」
「誇るところじゃなか」
世界へ向けた強化計画
笑いが落ち着くと、高瀬は本格的なスケジュールを説明した。
第一段階。
種目別国内強化合宿。
第二段階。
国際大会を想定した実戦形式の記録会。
第三段階。
海外選手のレース映像分析。
第四段階。
語学研修。
第五段階。
大会直前合宿。
そして、アトランタへの出発。
短距離では早苗と舞が世界トップクラスのスタートや加速局面を分析する。
中距離では聡子が海外選手特有の激しい位置取りへの対応を学ぶ。
長距離では直樹と三浦が、海外勢の高速化したレース展開への対応を研究する。
跳躍・投てきの選手たちも、それぞれ専門コーチと強化計画を組む。
「ここからは」
高瀬の声が少し厳しくなる。
「皆さんは日本代表です」
選手たちの表情が引き締まる。
「競技場の中だけではありません。海外での行動、他国選手への敬意、スタッフとの協力、メディア対応。すべてが日本代表として見られます」
早苗も真剣に聞いている。
「しかし、代表だからといって、自分らしさまで失う必要はありません」
高瀬は一瞬、早苗を見た。
会議室の何人かが笑いをこらえる。
「大石選手の梅ジュースへの情熱も含めてです」
今度はスタッフ側からも笑いが起こった。
「高瀬さんまで!」
早苗が声を上げる。
「ただし、質問の優先順位は少し考えてください」
「はい……」
直樹が横で小声を漏らす。
「そこは注意された」
「直樹、笑わんで」
「笑ってない」
「肩震えちょっど」
会議室にまた小さな笑いが広がった。
最後の記念撮影
強化合宿最後の記念撮影。
選手たちは全員、日の丸入りの代表ジャージを着て競技場へ並んだ。
中央には高瀬らスタッフ。
周囲をトラック、跳躍、投てきの代表選手が囲む。
「大石、こっち!」
舞が呼ぶ。
早苗は舞と聡子の間へ入ろうとする。
しかし少し考え、後ろを振り返った。
直樹が男子長距離組の列へ向かっている。
「直樹」
「何ね」
「隣」
「男女でだいたい分かれて並んどるが」
「両隣想い」
「代表写真でも発動すっとか」
「だめ?」
直樹は少し困ったように笑った。
三浦が後ろから背中を押す。
「行けよ」
「三浦先輩」
「どうせあとで大石が騒ぐぞ」
「そいは間違いないです」
結局、直樹は早苗の横へ移動した。
舞。
聡子。
早苗。
直樹。
三浦。
その周りには水野琴葉、大原雄大、真田悠真、土屋千夏をはじめとする日本代表の仲間たち。
早苗は隣の直樹を見上げる。
「やっぱり高かね」
「今言うことか」
「アトランタまでに十センチ伸びんかな」
「そげん急に伸びたら逆に心配じゃ」
「牛乳飲む」
「普通に飲め」
「一日三リットル」
「腹壊す!」
カメラマンが笑いながら声を上げる。
「はい、皆さん前を向いてください!」
早苗と直樹も慌てて正面を見る。
「撮ります!」
その瞬間。
早苗が小さな声で言った。
「直樹」
「何ね」
「アトランタでも隣におってね」
直樹は前を向いたまま答えた。
「おるよ」
「ほんと?」
「ああ」
早苗は笑った。
シャッターが切られる。
日の丸。
JAPAN。
全国から集まった仲間たち。
そして、その中央近くで肩を並べる鹿児島の幼なじみ。
世界へ行く。
その実感は、まだ完全には湧いていない。
けれど。
早苗と直樹は知っていた。
どれだけ遠い場所へ行っても、いつもの自分たちでいればいい。
走る時には本気で走る。
負けたら悔しがる。
勝ったら喜ぶ。
ホークスが勝ったら叫ぶ。
梅ジュースがなければ探す。
そして。
隣にいれば、たぶん笑える。
鹿児島で始まった二人の高校生活は、ついに太平洋を越えようとしていた。
次回予告
第19話「鹿児島へ帰ろう」
全国強化合宿を終え、ユースオリンピック日本代表として鹿児島へ戻る早苗と直樹。
鹿児島中央駅では、大石家、田中家、クラスメイト、鹿児島高校陸上部の仲間たちが待っていた。
代表ジャージ姿の二人を見た前園健吾が最初に叫ぶ。
「新記録夫婦が日本代表になって帰ってきたどー!」
「夫婦じゃなか!」
しかし、家族へ日の丸入りのジャージを見せた瞬間だけは、二人とも言葉を失う。
「行ってきますじゃなくて、今度は日本代表として行くんだね」
母たちの言葉に、早苗と直樹は初めて世界へ行く重みを実感する。
一方、その夜。
ホークス戦を聞いていた二人は、代表になったことなど完全に忘れて大騒ぎ。
九回裏、二死満塁。
「打てー!」
鹿児島の二つの家から、また同じ声が響き――。
次回、第19話「鹿児島へ帰ろう」。
世界へ進んでも、帰る場所にはいつもの笑い声が待っている。




