両隣想い
第17話 両隣想い
全国強化合宿も、いよいよ終盤に入った。
数日前まで、全国から集まった選手たちは互いの記録を意識し、どこか距離を置いていた。
しかし今では、食堂へ行けば笑い声が聞こえる。
廊下では北海道の言葉と鹿児島弁と山形弁が入り交じる。
その中心にいることが多いのは、やはり大石早苗だった。
そして、この朝。
新たな言葉まで全国強化合宿に誕生していた。
「おはよう、両隣想い」
食堂へ入った早苗に、舞が笑いながら声をかけた。
「何それ」
「昨日、早苗が自分で言ったっしょ」
「両隣想い」
聡子も笑っている。
「朝から男子のほうでも話題になってたべ」
早苗はトレーを持ったまま目を丸くした。
「もう広まったの?」
「全国トップ選手の情報伝達力、なめないほうがいいよ」
「そっちに使う能力じゃなかよ!」
その向こうから直樹が歩いてきた。
「おはよう」
すると今度は男子選手たちから声が飛ぶ。
「田中、両隣想い!」
「今日も隣、空いちょるぞ!」
「大石専用席!」
「誰が専用席じゃ!」
直樹が朝から全力でツッコむ。
早苗は当然のように、その隣へ腰を下ろした。
舞がすぐに指をさした。
「ほら!」
「何が?」
「結局そこに座るっしょ」
「いつも隣だから」
「だから、それをみんな言ってんの!」
早苗は首をかしげながら、ご飯を食べ始めた。
もう一度尋ねられても、答えは変わらない。
恋人なのか。
直樹のことが好きなのか。
まだ、自分でもはっきりとは分からない。
ただ一つだけなら、もう答えられる。
僕は直樹の隣にいたい。
それだけだった。
最終選考
午前九時。
いよいよユースオリンピック代表候補を絞り込む最終トライアルが始まった。
女子短距離では百メートル。
早苗と舞も同じ組に入る。
スタート地点。
舞が早苗を見る。
「今日こそ完全決着ね」
「負けんよ」
「昨日は百で二百分の二秒負けたからね」
「今日はもっと離す」
「言うようになったね」
二人は笑った。
だが、スターティングブロックへ入れば空気は変わる。
号砲。
舞が鋭いスタート。
十メートルで先行する。
しかし早苗も、合宿初日に見せた右足の流れはない。
二十メートル。
差を最小限に抑える。
三十メートルから早苗の加速。
舞が逃げる。
早苗が追う。
五十メートル。
並ぶ。
七十メートル。
二人がほぼ完全な横一線となった。
残り三十メートル。
早苗がわずかに出る。
舞が食い下がる。
二人はほぼ同時にフィニッシュ。
表示された記録。
大石早苗、十一秒五六。
林田舞、十一秒五七。
「一百分の一!」
早苗が振り返る。
舞は悔しそうに笑った。
「またそれ!」
「勝った!」
「次は絶対抜く!」
二人は手を合わせた。
もはや相手が速いことは怖くない。
速い相手が隣にいるから、自分も速くなれる。
それが、この数日間で二人が見つけた答えだった。
山形から来た中距離ランナー
続いて行われた女子八百メートル。
スタートラインには、大野聡子が立っていた。
百七十センチほどの長身。
長い脚を生かした大きなストライドが武器だ。
聡子は序盤、あえて前へ出なかった。
四百メートル通過。
先頭から四番手。
残り三百メートルで外へ出る。
残り二百。
一人。
二人。
次々と前の選手を抜く。
「聡子ちゃーん! 行けー!」
早苗の声が飛ぶ。
舞も叫ぶ。
「聡子、ラスト!」
聡子は最後の直線で先頭へ立った。
そのまま一着。
ゴール後、早苗が駆け寄る。
「速かった!」
聡子は苦しい呼吸の中で笑った。
「早苗の声、山形まで届ぐかと思ったべ」
「届いたら応援成功」
「そこまで届けなくていいべ」
舞が笑う。
「早苗、世界大会に行ったら国境越えて声届くんじゃない?」
「国際ラブコール」
早苗がそう言った瞬間、少し離れた場所にいた直樹が振り返った。
「こっち見んな!」
再び笑いが起こった。
声が出ない
ところが。
午後。
男子五千メートル最終トライアルを前にして事件が起きた。
「直樹……」
早苗の声が妙にかすれていた。
「何ね、その声」
「声が……」
「声が?」
「出らん」
直樹は固まった。
舞と聡子も顔を見合わせる。
「昨日まで叫びすぎた……」
直樹は天を仰いだ。
「一番大事な日に何しちょっとよ!」
早苗は喉を押さえる。
「応援しすぎた」
「そいは分かる!」
「ラブコールの出力を上げすぎた」
「自分で言うな!」
舞は笑いをこらえながら早苗の背中をたたく。
「今日は静かに応援しな」
「でも直樹の五千メートル……」
「声出さんでも応援できるっしょ」
早苗は考えた。
そして、スケッチブックを取り出した。
大きな文字を書く。
『直樹 自分の走りをせんか!』
その下に、
『最後まで行け!』
さらに、
『ラブコールは心の中で最大音量』
直樹は最後の一行を見て、顔を赤くした。
「そいはいらん!」
早苗は声が出ないため、満面の笑みで親指を立てた。
「無言でも腹立つな!」
三浦が笑いながら直樹の横へ立つ。
「でも、嬉しいんだろ」
「……まあ」
「聞こえなかった」
「嬉しかです!」
三浦が笑った。
「素直になったな」
五千メートル最終トライアル
号砲が鳴った。
直樹と三浦を含む選手たちが一斉にスタートする。
今回は最初から誰も無謀に飛び出さなかった。
合宿で学んだことを、それぞれが実践していた。
一千メートル。
二千メートル。
集団は整然と進む。
三千メートルでペースが上がる。
三浦が直樹の横へつく。
「ここからだ」
「はい」
四千メートル。
先頭集団は四人。
早苗は声を出せない。
代わりに、スケッチブックを頭の上へ掲げる。
『行けー!』
直樹はそれを見た。
一瞬だけ笑う。
残り八百。
直樹が動く。
三浦も追う。
残り四百。
二人が先頭へ。
三百。
三浦が半歩前。
二百。
直樹が並ぶ。
早苗は今度は別の紙を掲げた。
『直樹ー!』
文字なのに、直樹には早苗の声が聞こえたような気がした。
最後の直線。
直樹がわずかに前へ出る。
三浦も最後まで追う。
直樹、一着。
三浦、二着。
二人とも、日本代表候補として十分な内容だった。
ゴールした直樹は膝へ手をつき、息を整える。
そして真っ先に早苗を見る。
早苗は最後の一枚を掲げていた。
『いい走りじゃん!』
直樹は笑った。
「聞こえんでも、うるさか」
もちろん早苗には聞こえなかった。
代表発表
その日の夕方。
全選手が大会議室へ集められた。
壇上には、日本陸連育成部長の高瀬慎一郎。
短距離担当・篠原美和。
長距離担当・黒川昌彦。
そして、跳躍、投てき、ハードルなど各部門の強化スタッフが並んでいた。
選手たちは緊張した表情で座っている。
早苗も珍しく静かだった。
もっとも、今回は喉を痛めて声を出せないだけだった。
直樹が小声で言う。
「緊張しちょる?」
早苗はうなずいた。
「俺も」
早苗が手を伸ばす。
直樹のジャージの袖を、ほんの少しつまんだ。
直樹は何も言わなかった。
そのままにした。
高瀬が壇上へ立つ。
「今回の強化合宿を通じ、次回ユースオリンピックへ派遣する陸上競技日本代表選手が決定しました」
会議室の空気が張り詰める。
「名前を呼ばれた選手は、前へ出てください」
早苗の手に力が入った。
ユースオリンピック陸上競技・日本代表
女子短距離
「女子百メートル及びリレー候補。札幌北星学園高校一年、林田舞。十五歳」
舞が目を閉じる。
そして立ち上がった。
早苗が小さく拍手する。
「続いて、鹿児島高校一年、大石早苗。十五歳」
早苗が固まった。
直樹が横を見る。
「早苗」
反応がない。
「呼ばれちょっど」
早苗は自分を指さした。
直樹がうなずく。
「おまえ」
早苗は勢いよく立った。
しかし声が出ないため、無言で深く頭を下げた。
会議室に笑いと拍手が起こる。
高瀬も苦笑する。
「大石選手、今日は静かですね」
早苗は喉を指さした。
舞が前方から小声で言う。
「昨日まで叫びすぎたんです」
今度はさらに笑いが広がった。
女子中距離
「女子八百メートル、千五百メートル。山形霞城学院高校一年、大野聡子。十六歳」
聡子は両手で口元を押さえた。
「ほんとに……」
目に涙が浮かぶ。
早苗と舞が大きく拍手する。
男子長距離トラック
「男子五千メートル。仙台青嶺高校二年、三浦拓海。十六歳」
三浦が立つ。
「そして、鹿児島高校一年、田中直樹。十五歳」
直樹は一瞬目を閉じた。
早苗が横から直樹の腕を思いきりたたく。
「痛っ!」
声は出なくても、早苗の顔には、
『直樹! 呼ばれた!』
とはっきり書いてある。
直樹は笑った。
「分かっちょる」
立ち上がり、壇上へ向かった。
そのほかの代表選手たち
代表発表は続いた。
男子短距離・ハードル
神谷颯真
* 16歳
* 高校2年生
* 神奈川県・横浜蒼陵高校
* 男子100m・200m
* 爆発的な加速を武器とする全国高校トップクラスのスプリンター。
黒木悠生
* 17歳
* 高校3年生
* 宮崎県・日向青雲高校
* 男子400m
* 後半までフォームを崩さないロングスプリンター。
藤崎海斗
* 16歳
* 高校2年生
* 福岡県・福岡翔陽高校
* 男子110mハードル
* ハードル間のリズムと抜群の反応速度を持つ。
相沢怜央
* 16歳
* 高校2年生
* 東京都・東京青嶺学院高校
* 男子400mハードル
* 終盤の粘りが強く、国際大会向きと評価されている。
女子短距離・ハードル
佐伯美空
* 16歳
* 高校2年生
* 大阪府・浪速翔英高校
* 女子400m
* 長身を生かした大きなストライドが特徴。
橘ひなた(たちばな・ひなた)
* 15歳
* 高校1年生
* 愛知県・名古屋星華高校
* 女子100mハードル
* 技術力が高く、ハードリング後の加速に優れる。
森川結菜
* 16歳
* 高校2年生
* 広島県・広島瀬戸内学院高校
* 女子400mハードル
* 苦しくなる終盤でもリズムを崩さないタイプ。
男子中距離
長谷川遼太
* 16歳
* 高校2年生
* 新潟県・越後中央学院高校
* 男子800m
* ラスト二百メートルのスピードが武器。
石橋健人
* 17歳
* 高校3年生
* 熊本県・熊本城南学院高校
* 男子1500m
* レース展開を読む力に優れた戦術型ランナー。
女子長距離
高橋美緒
* 16歳
* 高校2年生
* 長野県・信州白樺学園高校
* 女子3000m
* 高地で鍛えた持久力が武器。
西川陽菜
* 15歳
* 高校1年生
* 兵庫県・神戸六甲学院高校
* 女子5000m
* 一定ペースを刻み続ける安定型。
男子跳躍
瀬川大地
* 17歳
* 高校3年生
* 千葉県・千葉湾岸高校
* 男子走幅跳
* 助走速度を跳躍へ変換する技術に優れる。
真田悠真
* 16歳
* 高校2年生
* 長野県・上田信濃学院高校
* 男子走高跳
* 身長186cm。しなやかな背面跳びが特徴。
柴崎蓮
* 17歳
* 高校3年生
* 香川県・高松瀬戸高校
* 男子棒高跳
* 高校世代ではトップクラスの技術を持つ。
池田湊斗
* 16歳
* 高校2年生
* 石川県・金沢白山学院高校
* 男子三段跳
* 二歩目から三歩目の伸びが強い。
女子跳躍
水野琴葉
* 16歳
* 高校2年生
* 静岡県・駿河富士見高校
* 女子走幅跳
* 高速助走型で、着地技術にも優れる。
安西美羽
* 17歳
* 高校3年生
* 宮城県・仙台杜陵学院高校
* 女子走高跳
* 冷静な試技運びが特徴。
小田桐凛
* 16歳
* 高校2年生
* 青森県・青森北辰高校
* 女子棒高跳
* 体操経験を生かした空中動作を得意とする。
川島紗月
* 16歳
* 高校2年生
* 埼玉県・武蔵桜ヶ丘高校
* 女子三段跳
* 力強いホップから大きなジャンプへつなぐ。
男子投てき
大原雄大
* 17歳
* 高校3年生
* 北海道・旭川大雪学院高校
* 男子砲丸投
* 身長190cmを超える大型選手。国内高校トップクラス。
松田圭吾
* 16歳
* 高校2年生
* 岡山県・岡山吉備学院高校
* 男子円盤投
* 回転動作の正確さに定評がある。
沖田航平
* 17歳
* 高校3年生
* 山口県・長州中央高校
* 男子やり投
* 強肩と高いリリース技術を持つ。
赤松颯介
* 16歳
* 高校2年生
* 京都府・京都洛星館高校
* 男子ハンマー投
* 下半身の強さを生かした回転型。
女子投てき
土屋千夏
* 16歳
* 高校2年生
* 群馬県・上州高崎学院高校
* 女子砲丸投
* 高い身体能力を持つパワー型。
伊藤七海
* 17歳
* 高校3年生
* 秋田県・秋田白神高校
* 女子円盤投
* 安定した投てき技術が特徴。
宮本彩乃
* 16歳
* 高校2年生
* 高知県・土佐南高校
* 女子やり投
* 野球経験者で、鋭い腕の振りを武器とする。
坂井瑠菜
* 17歳
* 高校3年生
* 福井県・越前若狭学院高校
* 女子ハンマー投
* 力だけに頼らない高い回転技術を持つ。
名前を呼ばれるたび、拍手が起きた。
短距離。
中距離。
長距離。
ハードル。
跳躍。
投てき。
これまで別々の場所で努力してきた高校生たちが、この瞬間から一つのチームになる。
ユースオリンピック陸上競技日本代表。
早苗は壇上から、その顔ぶれを見渡した。
北海道から沖縄に近い地域まで。
学校も、方言も、競技も違う。
それでも、同じ日の丸を胸につける。
早苗の胸が熱くなった。
隣には舞。
その隣には聡子。
少し離れた男子側には三浦。
そして直樹。
直樹と目が合う。
早苗は声が出ないので、口だけ動かした。
『やったね』
直樹も口だけ動かす。
『やったな』
早苗、ついに声が戻る
代表発表終了後。
選手たちは記念撮影のため、競技場へ移動した。
早苗はまだ喉を休ませていた。
舞が日の丸入りの代表ジャージを見ながら、感慨深そうに言う。
「ほんとに日本代表になったんだね」
聡子もうなずく。
「昨日までは、まだ候補だと思ってたべ」
早苗はジャージを抱きしめる。
直樹が近づいてきた。
「早苗」
早苗が振り向く。
「おめでとう」
早苗も言葉を返そうとした。
「……なお……」
少し声が出た。
直樹が驚く。
「戻ってきた?」
早苗は喉を整える。
「直樹……」
「聞こえる」
早苗の顔が一気に明るくなる。
そして。
「直樹ー! 二人で日本代表じゃっどー!」
競技場中へ響く声。
直樹は両耳を押さえた。
「復活一発目から最大音量出すなー!」
代表選手たちが一斉に笑った。
舞は腹を抱える。
「せっかく戻った声、また潰れるっしょ!」
聡子も笑う。
「大事に使えって!」
早苗は直樹の隣へ並んだ。
「直樹」
「何ね」
「世界でも隣におってね」
直樹は少しだけ照れた。
「ああ」
「両隣想いだから」
「その言葉、世界へ持っていく気か?」
「日本代表公式ワード」
「絶対違う!」
三浦が後ろから笑う。
「もう遅いぞ。代表全員知ってる」
「誰が広めたんですか!」
舞と聡子がそっと目をそらした。
「おまえらか!」
日本代表の記念撮影。
中央には、日の丸を持つ選手たち。
早苗と舞。
聡子。
直樹と三浦。
跳躍選手も、投てき選手も、ハードル選手も。
まだ十代半ばの高校生たち。
その誰もが、これから初めて世界という舞台へ挑む。
カメラマンが声を上げた。
「撮ります!」
その瞬間。
早苗が隣の直樹へ小声で言った。
「直樹、背ぇ高すぎ。もうちょっとしゃがんで」
「代表写真でもそい言うと?」
「僕が隠れるじゃん」
「早苗が前に行けばよか」
「隣がよか」
直樹が止まる。
早苗は自然に言っただけだった。
直樹は少し笑って、膝を曲げた。
「これでよか?」
「よか」
「じゃあ笑え」
「うん」
シャッターが切られた。
その一枚には、日本代表になった喜びだけではなく。
鹿児島でずっと隣を歩いてきた二人が、今度は世界へ並んで踏み出そうとする瞬間が、確かに残されていた。
次回予告
第18話「日の丸のジャージ」
ユースオリンピック日本代表に正式選出された早苗、舞、聡子、直樹、三浦たち。
初めて日の丸入りの代表ウェアを受け取った早苗は、鏡の前で何度も確認する。
「僕、本当に日本代表に見える?」
「名前まで入っちょるんだから本物じゃろ」
しかし直樹が、代表ジャージのサイズを間違えて受け取っていることに気づき、今度は全国強化合宿最後の爆笑騒動へ。
一方、日本陸連からユースオリンピック本大会までの強化計画が発表される。
国内合宿。
海外選手の映像分析。
語学研修。
そして、日本代表として求められる行動。
世界へ行けば、これまで以上のプレッシャーが待っている。
それでも早苗は直樹に言う。
「世界でも僕は僕じゃっど」
「そいだけは心配しちょらん」
次回、第18話「日の丸のジャージ」。
鹿児島の幼なじみは、ついに日の丸を背負う。




