全国合宿の夜
第15話 全国合宿の夜
午後の練習と夕食、そして全体ミーティングを終えるころには、全国強化合宿二日目の空気もだいぶ柔らかくなっていた。
初日は互いの学校名や記録を意識していた選手たちも、今では食堂や廊下で普通に声をかけ合うようになっている。
その変化に最も貢献している人物が誰なのか。
本人だけは、まるで分かっていなかった。
女子宿泊棟三階。
早苗の部屋には、林田舞をはじめ、女子短距離ブロックの選手たちが何人も集まっていた。
さらに、山形県から参加している女子中距離ランナー、大野聡子も遊びに来ている。
聡子は山形県の強豪校・山形霞城学院高校一年。
八百メートルと千五百メートルを専門とし、一年生ながら全国上位クラスの記録を持つ選手だった。
身長は百七十センチほど。
すらりとした長い脚が目立ち、舞も百六十センチ台後半と、女子短距離選手の中では比較的背が高い。
一方。
早苗は二人の前に立ち、しばらく黙って見上げていた。
舞が不思議そうに聞く。
「早苗、さっきから何見てんの?」
「身長」
「身長?」
「舞ちゃん、何センチ?」
「百六十八くらい」
早苗の顔が曇る。
「聡子ちゃんは?」
「この前測った時で百七十ちょっとだったべ」
「百七十……」
早苗はがっくりと肩を落とした。
「よかねえ」
聡子が首をかしげる。
「何が?」
「僕、あと十センチ欲しか」
「十センチ?」
舞が早苗を見る。
「今、百五十くらいだっけ?」
「そんくらい」
「十センチ伸びても百六十じゃん」
「まずそこを目指すの!」
「最終目標は?」
「百七十」
「さらに十センチ追加された」
女子選手たちから笑いが起こる。
早苗は真剣だった。
「だって、背が高かったら歩幅も大きくなるじゃん」
舞は首を横に振った。
「でも早苗、今の体格で県記録出しちょるっしょ」
「もっと高かったら、もっと速くなるかもしれん」
聡子も笑いながら言う。
「そう単純でもないべ。中距離でも、背が高い人が全部速いわけじゃないし」
「でも、二人とも脚長いじゃん」
早苗は舞の脚を見る。
次に聡子を見る。
「羨ましか」
「早苗、田中君の身長も毎日羨ましがってるって言ってたよね」
「直樹はずるいよ。あんなに高いのに、もっとがっしりした体が欲しいとか言うし」
「ないものねだりだね」
「僕が十センチもらって、直樹に僕の筋肉を……」
早苗はそこで止まった。
舞が聞く。
「筋肉を?」
「……交換できるほどなかった」
部屋中が笑いに包まれた。
「自分で気づいた!」
「取引不成立!」
早苗はベッドへ座り込み、足をぶらぶらさせる。
「もう少し大きくなりたいなあ」
その声は、さきほどまでのギャグとは少し違っていた。
本当に気にしているのだと、舞には分かった。
舞は早苗の隣へ座る。
「でもさ」
「ん?」
「早苗にしかない魅力、いっぱいあるっしょ」
「僕に?」
「うん」
聡子も向かいの椅子からうなずく。
「体が小さい分、加速の時の回転速いし、動きも軽いべ」
舞も続ける。
「それに、早苗ってトラック入ると急に雰囲気変わるじゃん」
「そう?」
「朝食でツッコミにスタミナ必要とか言ってた人と同一人物に見えんくらい」
「それ褒めちょる?」
「かなり褒めてる」
聡子が柔らかく笑う。
「身長は選べねえけど、その体でどう走るかは選べるべ。早苗はもう、それで速いんだから」
早苗は少し黙った。
「そっか」
「それに」
舞が意味ありげに笑う。
「田中君は、今の早苗で十分よさそうだけどね」
早苗の顔が上がる。
「何で直樹が出てくるの」
「出てくるでしょ、この流れなら」
「出てこんよ」
「出てくるって」
女子選手たちの目が一斉に輝いた。
話題が完全に恋愛へ切り替わった瞬間だった。
「で、結局さ」
舞がベッドの上で足を組む。
「田中君のこと、どう思ってんの?」
「どうって」
早苗は困ったように首をかしげる。
「直樹は直樹だよ」
女子たちは一斉に声を上げた。
「それが一番怪しい!」
「何で?」
「普通の男子なら、普通に友達とか同級生とか言うでしょ」
「幼なじみだもん」
「何年?」
「幼稚園から」
「毎朝一緒に登校?」
「うん」
「部活も一緒?」
「うん」
「休日も二人で動物園?」
「うん」
「相合い傘?」
「一回だけ」
「上着借りた?」
「雨で濡れたからね」
「梅ジュース買ってもらう?」
「よく」
「応援したら長距離トライアルでトップ?」
「そいは直樹が頑張ったから」
「未来の子ども二人?」
「そいは直樹の妄想」
舞は両手を広げた。
「材料そろいすぎ!」
「何の材料?」
「恋愛!」
「違うって」
聡子が笑いながら聞く。
「じゃあ、田中君に彼女できたらどうする?」
早苗が止まった。
「……」
舞はすぐに反応する。
「ほら!」
「いや、別に」
「間があった!」
「考えただけ」
「何を?」
「直樹に彼女かぁって」
「嫌?」
「嫌っていうか……」
早苗は枕を抱えた。
「変な感じするかも」
「はい来た!」
部屋が盛り上がる。
「だって、ずっと僕と一緒だったのに、急にほかの女子と毎朝学校行ったりするんでしょ?」
「想像できる?」
「できん」
「休日も?」
「……嫌かも」
「それ、かなり答え出てない?」
「出てない!」
早苗の顔が少し赤くなる。
舞がさらに畳みかける。
「じゃあ逆に、田中君から付き合ってって言われたら?」
「え」
早苗は固まった。
聡子も興味津々で見つめる。
「どうするべ?」
「そいは……」
早苗は枕へ顔を半分埋めた。
「考えたことなか」
「今考えて」
「急に言われても」
「仮定だから」
早苗はしばらく黙った。
頭の中へ直樹の顔が浮かぶ。
朝、家の前から出てくる直樹。
サイヤ人の寝ぐせを見て大笑いする直樹。
購買で梅ジュースを買ってくれた直樹。
雨の日、自分へ上着を貸した直樹。
平川動物公園で、二人の子どもを勝手に二人まで想像した直樹。
百メートル決勝前に、「前だけ見ろ」と言ってくれた直樹。
全国強化合宿でも、相変わらず隣でツッコミ続ける直樹。
「……まあ」
早苗が小さく言う。
「嫌じゃなかと思う」
部屋が爆発した。
「出たー!」
「それもうほぼ答え!」
「早苗、顔赤い!」
「暑かだけ!」
「冷房ついてる!」
「鹿児島の血が熱いの!」
「何その言い訳!」
早苗は枕を抱えたまま、完全に顔を隠した。
男子宿泊棟では
一方、その頃。
男子宿泊棟でも、まったく同じ話題が展開されていた。
直樹の部屋には三浦拓海をはじめ、数人の長距離選手が集まっている。
「田中」
三浦がベッドへ腰をかけながら言った。
「今日の大石のラブコール、どうだった?」
「ただの大声です」
「でも最後の千、速くなったよな」
「競技の集中力です」
「ほんとに?」
「ほんとです」
直樹はスポーツドリンクのキャップを閉めた。
「じゃあ、明日から声援なくても平気?」
「そりゃ平気ですよ」
三浦が笑う。
「大石が応援に来なくても?」
「……」
「今、止まったぞ」
「考えただけです」
「何を?」
「静かになるなって」
「寂しい?」
「違います!」
男子選手たちが笑い出す。
「田中、分かりやすすぎる」
「記録会でも最初に大石探してたよな」
「テレビ取材でも、横にいないと変な感じするって言ってたし」
「そいは幼なじみとしてです!」
三浦は腕を組む。
「じゃあ、大石に彼氏ができたら?」
直樹の表情が固まった。
「……」
「はい、また止まった」
「別に早苗が決めることです」
「平気?」
「……」
「二回目」
「想像したことないです」
「今してみろ」
「何で合宿の夜に、そげな想像せんといかんのですか!」
直樹は顔を赤くして抗議する。
だが、頭の中には勝手に映像が浮かんでしまった。
早苗が、知らない男子と一緒に登校している。
放課後、その男子と帰る。
ホークス戦を二人で聴いている。
平川動物公園にも行っている。
そして。
「嫌だな……」
直樹が小さくつぶやいた。
三浦の目が輝く。
「今、何て?」
「何も言ってません」
「嫌だなって言ったろ」
「言ってません!」
「全員聞いた」
部屋中から笑いが起きる。
直樹は頭を抱えた。
「もう寝ませんか」
「まだ消灯まで一時間ある」
「俺は寝ます」
「逃げた」
「明日の練習のためです!」
口では否定し続ける。
だが、内心はもっと単純だった。
今日のトライアル。
最後の一千メートル。
早苗の声は、確かに聞こえていた。
『直樹ー! 行けー!』
『ラストー!』
大きすぎるくらいの声だった。
それでも、あの声を聞いた瞬間、もう一段脚が動いた。
ラブコール。
早苗は冗談でそう呼んだ。
直樹も全力で否定した。
でも。
「明日も……」
直樹はベッドへ横になり、天井を見つめる。
明日も聞こえたら。
少し嬉しい。
いや。
かなり嬉しい。
そんなことを思っている自分が、ますます恥ずかしかった。
消灯前の一通
午後九時半。
消灯まで、あと三十分。
女子宿泊棟では恋愛トークがようやく解散し、選手たちはそれぞれの部屋へ戻った。
早苗はベッドに入り、スマートフォンを手にしていた。
舞は隣のベッドでストレッチをしている。
「直樹に送ろうかな」
「何を?」
「明日の応援の確認」
舞は嫌な予感がした。
「何て?」
早苗は画面を操作する。
『明日もラブコール必要?』
送信。
舞は吹き出した。
「ほんとに送った!」
「応援いるか確認しただけじゃん」
「言い方!」
一方、男子宿泊棟。
直樹のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
『明日もラブコール必要?』
直樹の心臓が、少しだけ速くなる。
「来た……」
三浦が隣からのぞき込みそうになる。
「何が?」
「何でもないです!」
直樹はスマートフォンを胸元へ隠した。
返事を考える。
『いらん』
打つ。
消す。
『普通の応援でよか』
打つ。
また消す。
少し悩んだ末、送ったのは。
『まあ、聞こえたら少しくらいは気合い入るかもな』
送信。
直樹はすぐに後悔した。
「やばっ」
三浦が聞く。
「何送った?」
「何も!」
女子宿泊棟では、返信を見た早苗がにやりと笑っていた。
「舞ちゃん」
「何?」
「直樹、ラブコール欲しいって」
「そう書いてあった?」
「『気合い入るかも』だって」
「それを都合よく翻訳したね」
早苗はさらに返信する。
『了解。明日はもっと大きい声でいくね』
直樹のスマートフォンが再び震える。
メッセージを見た直樹は青ざめた。
「もっと大きくせんでよか!」
思わず声に出る。
三浦たちが一斉に笑う。
「ラブコール確定!」
「田中、明日は新記録だな!」
「やめてください!」
同じころ。
女子宿泊棟でも、舞と聡子が大笑いしていた。
「早苗、絶対楽しんでるっしょ」
「何が?」
「田中君をからかうの」
「楽しかよ」
「好きだから?」
「そいはまだ分からん」
早苗は少しだけ考えた。
そして、ベッドへ仰向けになる。
「でも」
「うん?」
「直樹が隣におらん生活は、あんまり想像できんかも」
舞と聡子は今度は笑わなかった。
舞は穏やかな声で言う。
「それでいいんじゃない?」
「何が?」
「今、無理に名前つけなくても」
聡子もうなずく。
「好きかどうかって、ある日急に答えが出るもんでもねえべ」
「そっか」
「ただ」
舞が笑う。
「田中君のほうは、だいぶ答え出てそうだけどね」
「そうかな?」
「早苗が気づいてないだけ」
「直樹、分かりやすい?」
「めちゃくちゃ」
早苗は天井を見ながら、小さく笑った。
「明日、聞いてみようかな」
舞が勢いよく起き上がる。
「何を?」
「僕のラブコール、ほんとは嬉しかった?って」
「絶対やって!」
再び女子部屋のテンションが上がりかけたところで、廊下からスタッフの声が聞こえた。
「消灯十分前です。静かにしてください」
三人は慌てて声を落とした。
「怒られた」
「早苗がまた火つけるから」
「舞ちゃんも盛り上がったじゃん」
「明日の朝、絶対聞いてよ」
「覚えちょったらね」
「そこ忘れないで!」
全国強化合宿二日目の夜。
女子宿泊棟では、身長の悩みから始まった話が、いつの間にか直樹との恋愛トークへ変わった。
男子宿泊棟では、直樹が早苗の声援を内心では心待ちにしていることが、ほとんど全員に見抜かれていた。
二人はまだ、恋人ではない。
けれど。
離れた部屋で、互いのことを考えながら眠りにつこうとしている。
その事実だけは、昨日までより少しだけ特別になっていた。
新登場人物
大野聡子
山形県の強豪校・山形霞城学院高校一年。八百メートル、千五百メートルを専門とする中距離ランナー。身長約百七十センチ。穏やかで面倒見がよく、時折山形弁が出る。舞とは種目が違うが合宿で親しくなり、早苗の相談相手にもなっていく。
次回予告
第16話「本当にラブコール?」
全国強化合宿三日目。
朝、直樹と顔を合わせた早苗は、昨夜のメッセージを思い出す。
「直樹、僕のラブコール、ほんとは嬉しかった?」
「朝一番で聞くことか!」
舞と聡子は少し離れた場所から聞き耳を立て、三浦拓海たち男子選手も直樹の逃げ道を封鎖。
全国トップ選手たちを巻き込んだ、朝から大規模な恋愛尋問が始まる。
一方、練習では早苗と舞が百メートルの本格トライアルへ。
直樹と三浦も五千メートルの実戦形式へ挑む。
そして、ユースオリンピック代表選考担当者たちは、タイムだけでなく、早苗と直樹が周囲へ与えている意外な影響にも注目し始める。
次回、第16話「本当にラブコール?」
走ればライバル。
離れれば気になる。
近づけば、だいたい漫才になる。




