午後のリベンジ
第14話 午後のリベンジ
午後の補助競技場には、午前とは少し違う空気が流れていた。
日差しは高くなっていたが、風は穏やかだった。トラック表面からは熱気が上がり、選手たちは日陰で水分を取りながら、それぞれ午後のメニューに備えている。
早苗はスターティングブロックの前にしゃがみ込み、右足の位置を何度も調整していた。
午前の六十メートル測定走。
林田舞にスタートから前へ出られ、最後まで追いつけなかった。
その一本を映像で確認した篠原美和は、早苗の右足に癖があることを見抜いていた。
「大石。もう一回、構えてみて」
「はい」
早苗はブロックへ足を合わせる。
両手をトラックにつき、腰を上げる。
篠原は右足の角度を見ながら、少しだけ首を振った。
「やっぱりじゃね。速く出ようとしすぎて、右足が外へ逃げちょる」
「外に?」
「そう。大石は最初の一歩を前へ出そうとする意識が強すぎる。じゃっで、地面を真後ろへ押せてない」
早苗は姿勢を崩し、その場へ座り直した。
「僕、速く出ようとすればするほど、逆に損しちょったんですか」
「そういうこと。焦ると力は前じゃなく横へ逃げる。短距離は力が強ければよか競技じゃない」
「難しかですね」
「難しいから面白いんじゃろ」
篠原はブロックの後ろ側を指した。
「一歩目を前へ運ぼうとすんな。後ろへ押せ。結果として体が前へ出る」
「後ろへ押す」
「そう」
早苗は何度も頭の中で繰り返した。
前へ出るために、後ろへ押す。
直感とは逆のようで、理屈は分かる。
隣では舞が軽く流しを入れていた。
「早苗」
「何?」
「朝より顔が怖いよ」
「怖か?」
「うん。梅干し三個くらい一気に食べた顔」
「酸っぱそうな顔ってこと?」
「そっちじゃない」
舞は笑った。
「気合い入りすぎってこと」
「舞ちゃんに負けたから」
「別にうちへ復讐せんでも」
「復讐じゃないよ。リベンジ」
「同じようなもんでしょ」
「全然違う」
舞は早苗の右手を見る。
そこには小さなペットボトルが握られていた。
淡い梅色の液体。
中には細かな泡。
「それ、朝のやつ?」
「梅ジュース炭酸割り」
「まだ持ってたんだ」
「直樹に奢ってもらった」
「飲んだ?」
「……ちょっと」
「走る前は飲まないって言ってなかった?」
「ちょっとだけ」
その瞬間、背後から聞き慣れた声が飛んできた。
「おまえ、さっき走る前は飲まんって言ったよな?」
早苗はゆっくり振り返った。
男子長距離ブロックへ向かう途中の直樹が立っていた。
「これは持ってるだけ」
「もう半分減っちょるが!」
「蒸発」
「炭酸飲料が短時間で半分蒸発するか!」
舞が吹き出した。
「早苗、今の言い訳は無理あるっしょ」
「じゃあ、味見」
「味見で半分飲むな」
「おいしかったから」
「そいを普通に飲んだって言うんじゃ!」
近くにいた女子選手たちも笑い始める。
早苗はペットボトルを両手で抱えた。
「でも、もう飲まんよ。午後練習終わるまで封印」
「ほんとか?」
「僕を信用して」
「そいが一番難しか」
「また言った!」
篠原が腕を組みながら三人を見る。
「大石」
「はい」
「炭酸は練習後にしなさい」
「はい」
「田中選手も、自分の練習へ行ってください」
「すみません」
直樹は頭を下げ、長距離ブロックへ向かっていった。
早苗はその背中へ叫ぶ。
「直樹、午後も頑張れー!」
直樹は振り返らず、片手だけ上げた。
舞が横目で早苗を見る。
「ほんと仲いいね」
「幼なじみだもん」
「もう、それで全部説明できると思ってるっしょ」
「できんの?」
「たぶん無理」
早苗は首をかしげた。
午後の一本
午後の女子短距離ブロックは、スタート技術の確認を中心に進められた。
十メートル。
二十メートル。
三十メートル。
短い距離を何度も繰り返し、最初の一歩と体の角度を修正する。
「大石、急がんでよか!」
篠原の声が飛ぶ。
「押してから出る!」
「はい!」
早苗は何度もやり直した。
最初のうちは、意識しすぎて逆に動きがぎこちなくなった。
だが、五本目。
右足がきれいにブロックを押した。
体が前へ滑るように出る。
「今の!」
篠原が声を上げる。
「その感覚、忘れんな!」
早苗は止まり、振り返った。
「今、なんか違いました」
「そうじゃろ。足を前へ出そうとせんかった」
「勝手に前に出ました」
「そいが正解」
早苗の顔が明るくなる。
舞も少し離れたところから、その一本を見ていた。
「今の早かったよ」
「舞ちゃんも分かった?」
「うん。朝より絶対いい」
早苗は拳を握った。
「もう一回走りたい」
「また勝負?」
「勝負じゃなくて確認」
「顔は完全に勝負する顔だけど」
篠原は二人のやり取りを聞いていた。
「じゃあ、最後に六十メートル一本だけ測るか」
早苗と舞が同時に振り返る。
「いいんですか?」
「ただし、午前みたいに勝ち負けだけで走るな。大石は修正したスタート。林田は前半から後半へのつなぎ。それぞれ確認すること」
「はい!」
二人の声がそろった。
周囲の選手たちもトラック脇へ集まり始める。
午前の一、二着。
県一年記録保持者の早苗。
北海道のトップスプリンター、舞。
自然と注目が集まった。
早苗と舞は並んでスターティングブロックへ入る。
「舞ちゃん」
「何?」
「今度は追いつくよ」
「じゃあ、うちは逃げる」
「逃がさん」
「怖い怖い」
二人は笑ったあと、同時に表情を消した。
「位置について」
指先がトラックへ触れる。
「用意」
腰が上がる。
早苗は右足だけを意識しすぎないようにした。
前へ出るな。
後ろへ押す。
合図。
二人が飛び出した。
午前とは違った。
最初の五メートル。
ほぼ同時。
十メートル。
舞がわずかに前。
だが、その差は朝ほど大きくない。
二十メートル。
早苗が横へ並ぶ。
三十メートル。
二人は完全に並んだ。
「おおっ!」
見ていた選手たちから声が上がる。
四十メートル。
舞が半歩前へ出ようとする。
早苗も腕を強く引く。
五十メートル。
差はない。
残り十メートル。
二人とも最後までフォームを崩さない。
そして。
同時にゴールラインを駆け抜けた。
「どっち?」
誰かが叫ぶ。
早苗と舞は減速しながら、同時に表示板を見る。
タイムは同じ。
七秒三四。
一着の表示はすぐには出ない。
篠原たちが写真判定用の映像を確認する。
一度。
二度。
拡大。
さらに拡大。
早苗と舞は並んで待っていた。
「負けたかな」
早苗が言う。
「分かんない」
「舞ちゃんの胸がちょっと前じゃなかった?」
「早苗の肩のほうが前だった気もする」
「肩は判定に入らんよ」
「じゃあ胸?」
「胴体」
「詳しいね」
「短距離選手だから」
しばらくして、篠原が二人のところへ戻ってきた。
「判定不能」
二人の目が丸くなる。
「え?」
「写真判定でも、有意な差が確認できん。同着扱い」
一瞬、早苗と舞は黙った。
次の瞬間。
「やった!」
二人は同時に笑った。
「朝より縮まった!」
「縮まったどころか並ばれた!」
舞も楽しそうだった。
「次は絶対負けんから」
「僕も!」
二人は軽く手を合わせた。
篠原はその様子を見ながら言う。
「大石」
「はい」
「午前の負けを、午後まで引きずらんかったのはよかった。じゃっど、今日の一本で舞い上がるな」
「はい」
「一回並んだから、もう林田と同じ力になったわけじゃない。再現できて初めて自分の技術になる」
「はい」
早苗は素直にうなずいた。
すると、少し離れた通路から直樹の声がした。
「炭酸入り梅ジュースの効果あったんじゃなか?」
早苗が振り返る。
男子長距離ブロックの練習を終えた直樹が、三浦と一緒に戻ってきていた。
「飲んだから速くなったんじゃないよ!」
「午前負けて、午後飲んで同着」
「因果関係つくるな!」
舞が笑う。
「でも、梅パワーってことにしとく?」
「舞ちゃんまで!」
「メーカーからスポンサー来るかもな」
三浦まで口を挟む。
「『大石早苗、梅で全国へ』」
「変なキャッチコピー作らんで!」
笑いが広がった。
それでも、早苗の表情は朝とはまるで違っていた。
負けた悔しさは残っている。
だが、自分にも修正できるものがある。
全国トップと並べる一本を作ることもできた。
その事実が、次へ進む自信になっていた。
直樹のトライアル
午後の男子長距離ブロックでは、五千メートルを想定した三千メートルのトライアルが行われた。
単純な全力走ではない。
前半二千メートルを一定のペースで入り、最後の千メートルでどこまで上げられるかを見る。
直樹にとっては、記録会以来初めての本格的な選考形式だった。
国内高校記録保持者。
それだけで、スタート前から周囲の視線が集まる。
三浦拓海が隣へ並ぶ。
「今日は遠慮せんぞ」
「俺もです」
「最後の千で勝負だな」
「はい」
スタート位置につく。
少し離れた観客エリアには、午後練習を終えた早苗と舞たちの姿があった。
早苗は両手を口元へ当てる。
「直樹ー!」
直樹は聞こえないふりをした。
「頑張れー!」
さらに大きな声。
三浦が笑う。
「聞こえてるだろ」
「聞こえてます」
「愛されてんな」
「そげな話じゃなかです!」
スタート直前なのに、直樹の顔が赤くなる。
係員が選手へ集中するよう促す。
号砲。
集団が一斉に走り出す。
最初の千メートル。
直樹は前へ出ない。
三浦もすぐ横。
先頭には二人の三年生がつく。
設定どおりのペース。
二千メートル。
集団は六人に絞られていた。
呼吸はまだ余裕がある。
残り千メートル。
ここからがトライアルの本番だった。
三浦が先に動く。
直樹もついていく。
残り八百メートル。
三浦がさらに上げる。
直樹は離れない。
残り六百メートル。
二人が先頭へ出た。
「直樹ー! 行けー!」
早苗の声が競技場へ響く。
直樹の表情が少し変わった。
残り四百メートル。
直樹が外側へ出る。
一気に加速。
三浦も食らいつく。
「まだまだー!」
早苗は完全に立ち上がっていた。
舞が横で耳を押さえる。
「早苗、声で競技場壊れない?」
「直樹ー! ラストー!」
残り二百メートル。
直樹が半歩前。
三浦も離れない。
最後の直線。
直樹は腕を強く振り、長いストライドを伸ばす。
そのまま一着でゴール。
タイムも、この日の全組を通じてトップだった。
直樹はゴール後、しばらく歩きながら呼吸を整えた。
黒川コーチがタイムを確認し、うなずく。
「田中、トップ」
「ありがとうございます」
「最後の千がよかった。午前と同じように、前半で無理せんかったことが最後につながった」
「はい」
三浦も直樹の隣へやってくる。
「完敗だ」
「最後、かなり追われました」
「次は抜く」
「俺も抜かれんようにします」
二人はまた拳を合わせた。
直樹が給水エリアへ戻ると、早苗が駆け寄ってきた。
「直樹!」
「近くで叫ばんでも聞こえっど」
「いい走りじゃん」
早苗は満足そうに笑っていた。
「最後、めちゃくちゃ伸びちょった」
直樹はスポーツドリンクを飲みながら答える。
「そりゃあ、早苗にあれだけ大きな声で声援されたらな。気合い入るわな」
早苗の目が細くなる。
「ほう」
「何ね、その顔」
「僕の声が力になったんやね」
「まあ、少しは」
「少し?」
「かなり」
早苗は胸を張った。
「やっぱり」
「何がやっぱりじゃ」
早苗は直樹へ一歩近づき、わざと甘い声を出した。
「私のラブコールが効いたんやない?」
直樹のスポーツドリンクを持つ手が止まった。
「……は?」
舞が背後で口を押さえる。
三浦も嫌な予感を察した。
早苗はにやにやしながら続ける。
「直樹ー、頑張れーって。愛情いっぱいのラブコール」
「誰がラブコールじゃ!」
「僕」
「自分で言うな!」
「聞こえたんでしょ?」
「競技場中に聞こえちょったが!」
「じゃあ、直樹の心にも届いた?」
「耳には届いた!」
「心には?」
「うるさか!」
周囲から笑いが起こり始めた。
舞が口を挟む。
「でも田中君、早苗が叫んだあとペース上がったよ」
三浦もうなずく。
「確かに」
「三浦先輩まで何言ってるんですか!」
早苗が楽しそうに直樹を指さす。
「ほら。第三者の証言」
「競技的な声援じゃ!」
「愛の力」
「違う!」
「幼なじみ愛」
「余計ややこしくすんな!」
早苗はさらに調子に乗る。
「直樹、次のレースでも僕が『直樹ー、愛しちょるぞー!』って叫んだら、日本新記録出るんじゃない?」
直樹は盛大にむせた。
「げほっ!」
「大丈夫?」
「おまえが変なこと言うからじゃ!」
舞は腹を抱える。
「無理! 全国大会でそれやって!」
「やらんでよか!」
三浦まで笑い始める。
「田中、全国放送で聞かれるぞ」
「絶対やめてください!」
早苗は腕を組んで考える。
「じゃあ、控えめに『直樹ー、大好きー』くらい」
「もっと悪化しちょるが!」
「何が?」
「全部じゃ!」
周りにいた選手たちが完全に笑いの輪へ加わっていた。
「田中、顔真っ赤!」
「走った疲れより効いてる!」
「大石さん、競技より攻めるじゃん!」
早苗は何を言われているのか半分分かっていないような顔をしている。
「僕、応援の話しちょるだけだよ」
直樹は頭を抱えた。
「そいをラブコールって言うからじゃ!」
「ラブも応援の一種じゃん」
「広げんな!」
「じゃあ、梅コール」
「何ね、それ」
「直樹ー、梅ジュース飲めー!」
「走ってる最中に飲めるか!」
また爆笑。
舞はしゃがみ込んでいた。
「腹筋……朝からずっと回復せん」
三浦も笑いながら直樹の肩をたたく。
「全国合宿、思ってたより楽しいな」
「俺は毎日こんな感じです」
「直樹も楽しそうじゃん」
早苗が言う。
「誰のせいでこうなっちょっと思う」
「僕?」
「そい以外誰がおっとよ」
早苗は一瞬考えてから笑った。
「じゃあ、僕のラブコールのおかげで、直樹も合宿楽しめちょるってことね」
「またそっちへ戻すな!」
午後の競技場に、再び笑い声が広がった。
早苗は舞と同着。
直樹は長距離トライアルでトップ。
二人とも、午前の失敗や苦しさから一歩前へ進んだ。
だが、その日の合宿参加者たちの記憶にもっとも強く残ったのは、記録でもフォームでもなかった。
「私のラブコールが効いたんやない?」
その一言から始まった、鹿児島の幼なじみコンビによる即興漫才だった。
夜には早くも、選手たちの間で新しい呼び名まで生まれ始める。
「鹿児島の新記録コンビ」
そして、もう一つ。
「ラブコール漫才コンビ」
もちろん直樹は、後者だけは全力で否定することになるのだった。
次回予告
第15話「全国合宿の夜」
午後練習を終えた選手たちは、夕食とミーティングを済ませ、ようやく自由時間を迎える。
林田舞をはじめ、女子短距離ブロックの選手たちは早苗の部屋へ集まり、恋愛トークが始まる。
「で、結局田中君のこと、どう思ってんの?」
「どうって、直樹は直樹だよ」
「それが一番怪しいって!」
一方、男子宿泊棟でも三浦拓海たちが直樹を囲む。
「大石のラブコール、どうだった?」
「ただの大声です!」
「でも最後の千、速くなったよな」
「競技の集中力です!」
男女別の宿泊棟で、なぜか同じ幼なじみについて同時に追及される二人。
そして消灯前。
早苗から直樹へ一通のメッセージが届く。
『明日もラブコール必要?』
直樹の返信は――。
次回、第15話「全国合宿の夜」。
離れた部屋にいても、二人の漫才は終わらない。




