負けた朝、笑った昼
第13話 負けた朝、笑った昼
全国強化合宿二日目の午前練習。
女子短距離ブロックの六十メートル測定走を終えた早苗は、補助競技場の芝生に座り込んでいた。
林田舞に負けた。
それも、写真判定が必要になるような僅差ではない。
スタート直後から前へ出られ、早苗が得意とする後半の加速へ入っても、最後まで追いつくことができなかった。
電光掲示板には、二人のタイムが表示されている。
林田舞、七秒三六。
大石早苗、七秒四八。
六十メートルで十二分の一秒。
短距離では、はっきりと分かる差だった。
早苗は膝を抱え、掲示板を見つめていた。
「完敗じゃったな……」
県高校一年記録を出した時、自分は全国でも十分に戦えると思った。
もちろん、上には速い選手がいることも分かっていた。
だが、心のどこかには、県記録保持者としての自信があった。
その自信を、舞は最初の一本で正面から打ち砕いた。
隣へ座った舞が、スパイクのひもを緩めながら声をかける。
「早苗、大丈夫?」
「うん」
「そん顔で言われても、説得力ないっしょ」
「舞ちゃん、速かった」
「ありがとう」
「スタートから全然追いつけんかった」
「早苗は後半に入ってから、かなり伸びてきたよ」
「でも、追いつけんかった」
「今日はね」
舞は勝ったことを過剰に誇るわけでもなく、早苗を慰めるために自分の走りを低く評価することもしなかった。
今日の一本では、自分が勝った。
その事実を、そのまま受け止めている。
「早苗はスタートで、一歩目が少し外に流れてたっしょ」
「分かった?」
「隣で走ってたからね。そのあと立て直したけど、六十メートルだと最初の遅れが大きいよ」
早苗は自分の右足を見る。
「県の記録会では、そげんことなかったのに」
「毎回、同じ走りができるわけじゃないっしょ」
舞の言葉は、有馬顧問が鹿児島で話していたことと同じだった。
いい時はいい。
悪い時は悪い。
一度記録を出したからといって、次も同じように走れるとは限らない。
早苗は分かっていたつもりだった。
だが、実際に負けてみると、思った以上に悔しかった。
「もう一本走ったら、勝てるかな」
「どうだろうね」
舞は笑った。
「うちも、もっと速く走るかもしれんよ」
「そっか」
「でも、もう一本走りたいって思えるなら、まだ大丈夫っしょ」
舞は立ち上がり、早苗へ手を差し出した。
「整理運動しよ。座ったままだと体が固まるよ」
「うん」
早苗は舞の手を取り、立ち上がった。
まだ悔しさは消えていない。
それでも、舞の背中を追いながら歩き始めた。
自分より速い選手がいる。
その事実は、自分の価値を下げるものではない。
次に何を直せばいいかを教えてくれる、最も分かりやすい答えでもあった。
追われる直樹
一方、男子長距離ブロックでは、千メートル五本のペース走が始まっていた。
設定は一本二分四十二秒。
一本ごとに短い休息を挟み、最後の五本目だけ二分三十五秒前後まで上げる。
全力走ではない。
一定のリズムとフォームを保つための練習だった。
ところが、一本目のスタートから、集団の動きは設定を無視していた。
号令と同時に、数人の選手が勢いよく前へ出る。
「速か……」
直樹は最初の二百メートルで気づいた。
設定なら三十二秒台で通過するはずだった。
だが、先頭は三十秒を切る勢いで走っている。
直樹の後ろからも、選手たちが次々と前へ出ようとしていた。
「田中についていけば、目立てる」
「国内高校記録保持者より先に入れば、評価される」
誰かが直接そう言ったわけではない。
しかし、周囲の走りから、その思惑は伝わってきた。
直樹が前へ出るのを待っている。
直樹が上げれば、自分たちもついていく。
国内高校記録保持者という肩書が、練習の基準にされていた。
三浦拓海が直樹の横へ並ぶ。
「田中、前、速すぎるぞ」
「分かってます」
「追うのか?」
直樹は一瞬、前を見た。
先頭との差はすでに十メートルほどある。
以前の直樹なら、反射的に追いかけていただろう。
だが、早苗の声が頭に浮かんだ。
『直樹、速か! 抑えんかー!』
記録会で競技場中へ響いた、あの声だった。
直樹は呼吸を整え、首を横に振った。
「追いません。設定どおり走ります」
「そう来ると思った」
三浦も直樹の横へ残った。
二人は先頭集団を追わず、一定のペースを刻む。
四百メートル。
六十四秒。
八百メートル。
二分九秒。
千メートル。
二分四十一秒。
設定にほぼ近い。
一方、先頭集団は二分三十二秒で駆け抜けていた。
長距離強化コーチの黒川昌彦が、ストップウオッチを見ながら厳しい声を上げる。
「先頭の選手、誰が二分三十二秒で走れと言った!」
選手たちは苦しい呼吸をしながら立ち止まった。
「練習の目的を理解しろ! 田中に勝つための一本じゃなか。自分の動きを五本そろえる練習じゃ!」
直樹と三浦は、少し遅れてゴールする。
黒川は二人のタイムを確認した。
「田中、三浦。設定どおりじゃ」
「はい」
「次も同じように走れ」
二本目。
先ほど飛ばした選手たちの多くは、すでに脚へ疲労を感じていた。
それでも何人かは、また直樹の前へ出ようとする。
直樹は追わない。
自分の呼吸。
足音。
腕の振り。
設定されたリズムだけに集中する。
二分四十二秒。
三本目、二分四十二秒。
四本目、二分四十一秒。
一本目から飛ばした選手たちは、次第にペースを保てなくなっていった。
五本目。
直樹は初めて自分から前へ出る。
三浦もついてくる。
二人は残り四百メートルから速度を上げ、最後の直線で競り合った。
直樹が半歩先にゴールする。
二分三十三秒。
走り終えた直樹は、両膝へ手をついた。
苦しい。
だが、記録会の五千メートルを走り終えた時とは違う。
まだ体には余裕が残っている。
三浦が隣で呼吸を整えながら笑った。
「やっぱり最後、速いな」
「三浦先輩もです」
「次は負けん」
「俺も負けません」
二人は軽く拳を合わせた。
黒川が選手たちを集める。
「今日の練習で一番大切なのは、最速タイムを出したことじゃなか」
黒川は直樹を見る。
「周囲が飛び出しても、自分の設定を守ったことじゃ」
直樹は黙って聞いている。
「国内高校記録を出せば、今後もこういうことが起きる。大会でも練習でも、田中を基準に動く選手が増える」
「はい」
「全員を相手にするな。全員の期待にも応えるな。自分がその日にやるべきことを理解しろ」
「はい」
直樹は返事をした。
国内高校記録保持者として追われる苦しさ。
今日、初めてその一端を知った。
走る前から見られている。
自分の動き一つで、周囲のペースまで変わる。
勝手に期待され、勝手に試される。
これまでとは違う競技生活が、すでに始まっていた。
珍しく静かな昼食
昼食の時間。
食堂には、午前練習を終えた選手たちが集まっていた。
朝食では誰よりも大きなトレーを抱え、食べながら直樹へツッコミを入れていた早苗。
しかし、昼は様子が違った。
ご飯。
鶏肉。
温野菜。
スープ。
必要な量は取っているものの、箸の動きが遅い。
舞は向かいの席から、その様子を見ていた。
「早苗」
「何?」
「元気ないっしょ」
「そげんことなかよ」
「朝の半分もしゃべってない」
「食事中は静かにするのが礼儀」
「朝、食堂中を笑わせてた人が言っても説得力ないから」
早苗は鶏肉を一切れ口へ運んだ。
その横へ、舞が小さな瓶を置く。
透明な炭酸飲料の中に、淡い梅色が混ざっていた。
「何これ?」
「売店にあった炭酸水と、早苗が持ってきた梅ジュース。少し分けてもらって作った」
「梅ジュースの炭酸割り?」
「負けた時こそ飲むんでしょ」
早苗は瓶を持ち上げる。
細かな泡が、底から次々と浮かび上がっていた。
「舞ちゃん……」
「そんな感動した顔せんでも」
「北海道から来た天使じゃ」
「昨日までライバルだったのに、飲み物一本で天使になるん?」
「ライバルで天使」
「どういう分類なんだろ」
早苗は一口飲んだ。
梅の甘酸っぱさに、炭酸の刺激が加わる。
「おいしか」
久しぶりに、早苗の表情が少し明るくなった。
そこへ男子長距離ブロックの練習を終えた直樹が、昼食のトレーを持ってやってきた。
「ここ、座ってよか?」
「よかよ」
早苗の隣には空席があった。
直樹が腰を下ろす。
いつもなら、早苗の食事量や梅ジュースへすぐに一言入れるところだった。
だが、早苗の表情を見て、直樹は少しだけ声を抑えた。
「負けたんじゃってな」
「誰から聞いたの」
「午前練習の結果が共有されちょった」
「舞ちゃんに完敗」
「そっか」
直樹はそれ以上、すぐには何も言わなかった。
早苗は箸を置き、直樹のほうを向く。
「直樹」
「何ね」
早苗はわざと目を潤ませ、普段より一段高い声を出した。
「直樹ぃ。慰めてぇ」
猫撫で声だった。
直樹の手が止まる。
周囲の女子選手たちも、早苗の声に気づいて振り返った。
舞は嫌な予感を覚え、口元を押さえる。
「何ね、その声」
「僕、負けて傷ついちょるの」
「さっきまで普通にしゃべっちょったが」
「心は泣いちょる」
「顔は笑いをこらえちょるが」
「慰めてくれんの?」
早苗はさらに直樹のほうへ顔を寄せる。
直樹は少し顔を赤くしながら、早苗の手元にある瓶を見た。
「じゃあ、梅ジュースの炭酸割り、もう一本奢ってやるよ」
早苗の表情が一瞬で明るくなる。
「直樹ぃ、さんきゅ」
「立ち直るの早か!」
「梅は心を救うから」
「舞からもらった一本、まだ残っちょるじゃろ」
「これは友情の梅。直樹のは幼なじみの梅」
「飲み物に関係性を付けるな」
周囲の女子選手たちから笑い声が上がった。
舞も腹を抱えながら言う。
「友情の梅と幼なじみの梅って何さ!」
「味が違うの?」
「気持ちが違う」
早苗は真剣に答える。
「じゃあ、田中君の梅のほうがおいしいん?」
大阪の女子選手から尋ねられ、早苗は直樹をちらりと見た。
「そりゃねえ」
「早苗、変な間を作るな!」
食堂が一気に沸いた。
直樹は顔を赤くしながら、早苗の瓶を指さす。
「飲むのはよかけど、走る前には飲むなよ」
「何で?」
「炭酸じゃっど」
「うん」
「走っちょる途中で、げっぷが出たらしゃれにならんぞ」
一瞬、食堂が静まり返る。
早苗は、自分が百メートルを全力で走る姿を想像した。
スタート。
加速。
ゴール直前。
「げふっ」
早苗の頬が引きつる。
舞はその光景を想像してしまい、最初に吹き出した。
「ぶはっ!」
続いて周囲の女子選手たちが大笑いする。
「やめて! 想像したら無理!」
「全国大会の決勝でげっぷしたら伝説になる!」
「実況も困るっしょ!」
早苗は慌てて瓶をテーブルへ置いた。
「走る前は絶対飲まん!」
「そいがよか」
「もし出たら、直樹のせいだからね」
「何で俺のせいになるとよ!」
「直樹が想像させたから」
「炭酸を飲む早苗の責任じゃろ!」
「まだ飲むって決めてないじゃん」
「今、一本奢れって言ったが!」
「練習後に飲むの!」
「なら最初からそう言え!」
再び笑いが広がった。
早苗は笑いすぎて腹を押さえながら、直樹の肩を軽くたたく。
「もう、腹痛か。午後の練習できんかもしれん」
「俺のせいじゃなか」
「直樹がげっぷとか言うから」
「早苗が猫撫で声で慰めを求めるからじゃろ」
舞がすかさず反応する。
「田中君、早苗にあんな声出されたら弱いんだ?」
「弱くなか!」
「すぐ梅ジュース奢るって言ったっしょ」
「負けて落ち込んじょったからじゃ!」
「優しかねえ」
「普通じゃ!」
直樹の耳まで赤くなっている。
早苗はその顔を見て、楽しそうに笑った。
「直樹、僕のこと心配してくれちょるんだ」
「幼なじみが珍しく静かじゃったら、誰でも心配すっど」
「やっぱり慰めてくれた」
「梅ジュース一本だけじゃ!」
「十分」
早苗は短く答えた。
その声だけは、ふざけた猫撫で声ではなかった。
直樹は少しだけ目をそらす。
「……負けたくらいで、そげん落ち込むな」
「でも、悔しかった」
「悔しいなら、次に勝てばよか」
「簡単に言うね」
「簡単じゃなか。じゃっど、早苗なら次の方法を考えられるじゃろ」
早苗は舞を見る。
舞も、まっすぐ早苗を見返した。
「舞ちゃん」
「何?」
「次はスタートから追いつく」
「追いつかせんよ」
「じゃあ、追い越す」
「やってみればいいっしょ」
早苗の目に、朝にはなかった光が戻っていた。
負けた事実は変わらない。
悔しさも消えてはいない。
だが、悔しさを抱えたまま、また前を見ることはできる。
直樹もまた、男子長距離ブロックで経験したことを話した。
「俺も、今日は周りが最初から飛ばして大変じゃった」
「直樹を倒そうとしたの?」
「多分な」
「それで、ついていった?」
「行かんかった。設定どおり走った」
早苗は満足そうにうなずいた。
「偉か」
「何で上から目線ね」
「僕が記録会で教えたから」
「競技場中に叫んだだけじゃろ」
「あの声が役に立ったんでしょ」
「まあ、少しは」
「少し?」
「かなり」
直樹が認めると、早苗はにやりと笑った。
「じゃあ、午後も直樹が飛ばしたら叫ぶね」
「やめんか!」
「直樹ぃ、抑えてぇ」
早苗は再び猫撫で声を出した。
「そん声で走ってる選手を止めるな!」
食堂はまた大爆笑となった。
午前中、早苗は全国の速さに負けた。
直樹は、追われる立場の苦しさを知った。
二人にとって、決して楽な朝ではなかった。
それでも昼には、梅ジュースの炭酸割りと、走りながら出るかもしれないげっぷの話で、腹筋が痛くなるほど笑っていた。
悔しさを消す必要はない。
無理に明るく振る舞う必要もない。
落ち込んだ時には、隣に座る。
飲み物を一本奢る。
くだらない話で笑わせる。
そして、もう一度トラックへ戻る。
それが早苗と直樹の、昔から変わらない立ち直り方だった。
次回予告
第14話「午後のリベンジ」
午前の測定走で林田舞に敗れた早苗は、スタートの一歩目を徹底的に見直す。
短距離強化コーチ・篠原美和から指摘されたのは、早苗自身も気づいていなかった右足の癖だった。
「速く出ようとしすぎて、力が外へ逃げちょる」
午後の練習では、舞と再び同じ組に入る。
勝ち負けを決める測定ではない。
それでも早苗の目は、朝とは違っていた。
一方、直樹は三浦拓海と組み、五千メートルの終盤を想定した変化走へ挑む。
だが練習直前、早苗が梅ジュースの炭酸割りを手にしているのを発見。
「おまえ、さっき走る前は飲まんって言ったよな?」
「これは持ってるだけ」
「もう半分減っちょるが!」
次回、第14話「午後のリベンジ」。
負けたあとの一本は、記録以上にその選手の強さを映し出す。




