最初の一本、最初の衝撃
第12話 最初の一本、最初の衝撃
全国強化合宿二日目の朝。
宿泊棟一階の食堂には、朝早くから全国各地の選手たちが集まっていた。
広い食堂の一角には、温かい料理やパン、サラダ、果物、飲み物が並ぶバイキング台が設けられている。
白いご飯。
焼き魚。
卵焼き。
みそ汁。
ウインナー。
鶏肉のソテー。
野菜サラダ。
ヨーグルト。
フルーツ。
パンも数種類用意され、選手たちは自分の体調や練習内容に合わせて料理を取っていた。
早苗はトレーを両手で持ち、料理が並ぶ台の前に立っていた。
「ご飯は大盛り」
茶碗へ白いご飯を盛る。
「卵焼きは三つ」
皿へ載せる。
「焼き魚とウインナー」
さらに載せる。
「鶏肉も少し」
少しと言いながら、二切れ取る。
「サラダも大事」
山盛りにする。
「ヨーグルトとバナナ」
トレーの空いている場所へ置く。
それでも終わらなかった。
「食パン一枚」
早苗は少し考え、もう一枚取った。
「やっぱり二枚」
後ろに並んでいた林田舞が、早苗のトレーを見て目を丸くする。
「ちょっと待って。まだ取るん?」
「朝ご飯は大事だよ」
「トレー、もう場所ないっしょ」
「重ねればよか」
「料理を積み木みたいに言わんで」
早苗は飲み物のコーナーへ移動した。
牛乳。
オレンジジュース。
水。
スポーツドリンク。
その中に、早苗が探しているものはなかった。
「梅ジュース、やっぱりなかね」
「昨日、受付で言われたっしょ」
「もしかしたら今日から追加されちょるかと思って」
「早苗一人のために、合宿の朝食メニュー変わらんから」
「日本代表候補への配慮」
「まだ候補の候補でしょ」
「そい言わんでよ。少し夢を見させて」
舞は笑いながら、自分のトレーへ牛乳を載せた。
早苗も仕方なくオレンジジュースを選ぶ。
「今日はこれで我慢する」
「ずいぶん偉そうな我慢だね」
二人が席を探していると、窓際のテーブルに直樹と三浦拓海が座っていた。
直樹はご飯、みそ汁、焼き魚、卵、サラダを整然と並べている。
その隣に座る三浦も、長距離選手らしく炭水化物を多めに取っていた。
早苗は直樹の向かいへ座る。
「おはよう」
「おはよう」
直樹は早苗のトレーを見た。
そして、視線を一度端から端まで移動させる。
「相変わらず食べるなあ」
「朝から走るんだから当然じゃん」
「俺と量がほとんど変わらんが」
「何か問題ある?」
「男子と変わらんじゃん」
早苗は箸を持ったまま直樹を見る。
「直樹」
「何ね」
「何をするにもスタミナじゃっど」
「何をするにも?」
「走るのにもスタミナ」
「そいは分かる」
「練習するにもスタミナ」
「そいも分かる」
「直樹にツッコミ入れるにも、スタミナは大事」
近くの席に座っていた女子選手たちの動きが止まった。
一秒後。
舞が最初に吹き出した。
「ぶっ!」
その隣にいた大阪の女子短距離選手も、口元を押さえる。
「ツッコミにもスタミナ必要なん?」
早苗は真剣な顔でうなずいた。
「必要だよ。直樹は一日中ツッコミどころを作るから」
「作っちょらん!」
「ほら、朝から一回目」
「今のは早苗に突っ込んだんじゃ!」
「どっちでも体力使うじゃん」
周囲の女子選手たちが一斉に笑い出した。
「あはははは!」
「朝から何なん、この二人!」
「練習前に腹筋使わせんで!」
「大石さん、昨日からずっと面白い!」
早苗は焼き魚を口へ運びながら、不思議そうに周囲を見る。
「僕、普通のこと言っただけだよ」
「それを普通と思ってるのが一番おかしいっしょ!」
舞は腹を押さえていた。
笑いすぎて、椅子の背もたれへ体を預けている。
「だめ。朝食前ならまだしも、食べたあとに笑わせられたら腹筋やばいって」
「まだ全部食べてないじゃん」
「これからもっと入るんでしょ!」
早苗のトレーを見て、再び笑いが起こる。
直樹はみそ汁を飲みながら、呆れたように言った。
「全国合宿に来ても、早苗は変わらんな」
「変わる必要ある?」
「少しくらい緊張するかと思った」
「しちょるよ」
「どこが」
「卵焼き、いつもより一つ少ない」
「十分食べちょるが!」
直樹の声が食堂へ響いた。
女子選手たちはまた大笑いした。
「田中君のツッコミまで完成度高い!」
「幼なじみって、ここまで息合うんだ」
「競技より先にコンビ名決めたほうがよくない?」
早苗は食パンをちぎりながら考える。
「コンビ名?」
「やめとけ」
直樹がすぐに止める。
「まだ何も言ってないじゃん」
「早苗が考える名前は嫌な予感しかしない」
「『梅と鉄道』とか」
「ほら見ろ!」
今度は男子選手の席からも笑いが起こった。
三浦拓海は箸を置き、直樹を見る。
「田中」
「何ですか」
「毎日、こんな感じなのか?」
「鹿児島では、もっとひどいです」
「もっと?」
「学校じゃ、サイヤ人になったり、灰かぶり姫になったり」
「直樹!」
早苗が声を上げる。
「全国でその話すんなって言ったでしょ!」
舞の目が輝く。
「サイヤ人って何?」
「聞かんでよか!」
「寝ぐせが全部上向いて――」
「直樹!」
早苗は立ち上がりかけた。
しかし、トレーの料理が揺れたため、慌てて座り直す。
「危なか!」
「食べ物を守る動きだけは速いな」
「短距離選手だから」
「競技能力をそげなところで使うな」
食堂は再び大きな笑いに包まれた。
朝から人気者
昨日の受付で梅ジュースについて尋ねた選手。
全国のトップ選手が集まるミーティングで、ユースオリンピックへ梅ジュースを持ち込めるか質問した選手。
そして今朝は、幼なじみへツッコミを入れるためにスタミナが必要だと言い切った。
大石早苗の名前は、競技記録とは別の意味でも、急速に合宿参加者の間へ広まり始めていた。
「鹿児島高校の梅ジュースの子」
「小柄なのに、めちゃくちゃ食べる子」
「田中君とずっと漫才してる子」
そんな呼ばれ方をされても、早苗本人はあまり気にしていなかった。
むしろ、知らない選手から話しかけられるたびに、嬉しそうに応じていた。
「大石さん、朝からそんなに食べて走れるの?」
愛知県の女子短距離選手が尋ねる。
「食べてすぐ全力では走らんよ。時間を空けるから大丈夫」
「胃が重くならない?」
「ならん。僕の胃は短距離選手だけど、消化は長距離型だから」
相手は数秒黙り、噴き出した。
「どういう意味?」
「長く頑張ってくれるってこと」
「絶対今考えたでしょ」
「うん」
「認めるんだ!」
さらに笑いが広がる。
舞は早苗の隣で、何度も腹を押さえていた。
「もう無理。今日、スタート練習で腹に力入らんかもしれん」
「僕のせい?」
「完全に早苗のせい」
「でも、笑うと腹筋鍛えられるじゃん」
「練習前に仕上げんでいいから!」
早苗は納得したようにうなずく。
「全国の女子スプリンターの体幹強化に貢献できた」
「勝手に貢献したことにすんな」
直樹がすぐに突っ込む。
周囲から拍手まで起こった。
「田中君、今のよかった!」
「反応が速い!」
「国内高校新記録はツッコミの反応速度にも生きるんだね」
「生きてません!」
直樹は顔を赤くしながら否定した。
三浦は笑いをこらえながらご飯を食べている。
「田中、おまえ大変だな」
「幼稚園からずっとです」
「もう慣れた?」
「慣れたつもりですけど、毎回予想を超えてきます」
「直樹、僕を災害みたいに言わんでよ」
「自然現象に近かところはある」
「桜島と同じ扱い?」
「今日も元気じゃねえって」
「噴火せんよ!」
その一言で、再び笑いが起こった。
早苗は自分でもつられて笑いながら、残っていたご飯を口へ運んだ。
林田舞の素顔
朝食を終えた選手たちは、それぞれ部屋へ戻り、午前練習の準備を始めた。
女子宿泊棟へ戻る途中、舞は何度も自分の腹を押さえていた。
「まだ痛い?」
早苗が尋ねる。
「痛いっていうか、笑いすぎて力入らん」
「練習まで一時間あるから回復するよ」
「早苗は自分が原因なのに、他人事だね」
「僕も笑ったから同じじゃん」
「早苗は食べるほうが忙しかったっしょ」
「朝食は真剣勝負だから」
舞は苦笑しながら歩いた。
廊下には、同じ女子短距離ブロックの選手たちが何人もいる。
昨日までは互いに探るような視線を向けていた選手たちも、今では早苗を見ると自然に笑顔を見せるようになっていた。
舞がその様子を見ながら言った。
「早苗って、すごいね」
「何が?」
「みんな、昨日まであんなに緊張してたのに、もう普通に話しちょる」
「僕は梅ジュースの話しただけだよ」
「そいがすごいんだって」
「梅ジュースが?」
「早苗が」
舞の声は少し真面目だった。
「全国合宿って、みんな自分の記録を見られるし、代表選考もある。仲良くなりたくても、相手がライバルだと思うと、最初は話しかけづらいっしょ」
「舞ちゃんも?」
「うん。札幌北星学園の名前を背負って来てるし、学校からも期待されてる。北海道からわざわざ来て、何もできなかったらどうしようって思ってた」
早苗は舞の横顔を見る。
「でも、早苗を見てると、力入りすぎても仕方ないって思える」
「僕、そんなに力抜けちょる?」
「抜けすぎな時もあるけど」
「褒められたと思ったのに」
「半分は褒めてる」
「直樹と有馬先生と同じこと言う」
二人は顔を見合わせて笑った。
舞は少し先に歩きながら言う。
「でも、練習では負けんからね」
早苗の表情が変わる。
「僕も負けんよ」
「昨日の記録を見たら、後半は早苗が強そう」
「舞ちゃんはスタートが速そう」
「よく分かったね」
「立ち方で分かる」
早苗は短距離選手らしい目で舞を見る。
昨日までの天然な姿とは違い、相手の動きや体の使い方をしっかり観察していた。
舞も、その変化に気づく。
「早苗、競技の話になると急に顔変わるね」
「走る時は真面目だよ、僕」
「じゃあ、朝食の時は?」
「食べる時も真面目」
「田中君にツッコむ時は?」
「全力」
舞はまた吹き出した。
「もうやめて。腹筋回復させて」
練習前のミーティング
午前八時半。
女子短距離ブロックの選手たちは、補助競技場へ集められた。
この日の最初のメニューは、六十メートルの測定走。
スタートから加速局面までの動きを確認するためのものだった。
日本陸連の女子短距離強化コーチ、篠原美和が選手たちの前へ立つ。
四十歳。
現役時代は百メートルと二百メートルで日本選手権へ何度も出場し、国際大会の代表経験もある。
鋭い目をしているが、声は落ち着いていた。
「朝食はしっかり取れましたか」
「はい!」
選手たちの返事がそろう。
その中で、何人かが早苗を見て笑いをこらえていた。
篠原はすぐに気づいた。
「どうしました?」
舞が必死に表情を整える。
「何でもありません」
「練習前から、ずいぶん楽しそうですね」
大阪の選手が小さく答えた。
「大石さんが、ツッコミにもスタミナが必要って……」
篠原の視線が早苗へ向く。
早苗は姿勢を正した。
「事実です」
「何の事実ですか」
「田中直樹に一日ツッコミを入れるには、朝ご飯をしっかり食べる必要があるという事実です」
女子選手たちが再び笑い出した。
舞はその場にしゃがみ込みそうになる。
「だめ、また腹が……」
篠原も数秒こらえていたが、最後には口元を緩めた。
「大石選手」
「はい」
「練習中に田中選手へツッコミを入れる必要はありません」
「でも、遠くで何かしでかしたら」
「見ないでください」
「はい」
「競技に集中してください」
「はい!」
早苗は元気よく返事をした。
篠原は選手全体を見渡す。
「では、笑うのはここまでです。これから測定走へ入ります」
空気が少しずつ引き締まる。
「全国から選ばれた選手が集まっていますが、最初から完璧な走りを見せようとしなくて構いません。今日は、自分がどんな動きをしているかを知るための測定です」
早苗は真剣な表情で話を聞く。
「周囲の選手に勝つことだけを考えず、自分の動きに集中してください。結果はあとからついてきます」
「はい!」
選手たちの返事がトラックへ響いた。
男子長距離ブロック
同じころ、男子長距離ブロックもメイン競技場へ集まっていた。
直樹は三浦拓海たちと並び、日本陸連の長距離強化コーチから説明を受けている。
午前のメニューは、千メートルを五本。
ただし、全力ではない。
一定のペースを守り、最後の一本だけ少し上げる設定だった。
説明を聞きながら、直樹は食堂での早苗の発言を思い出していた。
「走るにも、ツッコミにもスタミナ……」
思わず口元が緩む。
三浦が隣から聞く。
「何笑ってんだ?」
「何でもないです」
「大石のことか?」
「何で分かるんですか」
「おまえ、大石の話になると分かりやすい」
「そげなことなかです」
「ある」
直樹は否定しようとしたが、周囲にいた選手たちまでうなずいている。
「田中、受付の時からずっと大石の世話しちょったよな」
「朝食でも、ずっとツッコんどった」
「やっぱり彼女?」
「違います!」
直樹の声が競技場へ響いた。
長距離コーチが振り返る。
「田中、元気が余っているなら一本増やすぞ」
「すみません!」
三浦たちが笑いをこらえる。
直樹は深く息を吐いた。
「早苗が近くにおらんでも、結局こうなるんか……」
最初の一本へ
女子短距離ブロックでは、測定走の組み合わせが発表された。
早苗と舞は同じ組だった。
第一レーンに早苗。
第二レーンに舞。
ほかにも全国大会経験者が並ぶ。
舞はスパイクのひもを締め直しながら、早苗を見る。
「朝は笑わされたけど、ここからは勝負だよ」
「うん」
「最初から行くからね」
「僕も行く」
早苗はスターティングブロックの位置を調整する。
先ほどまで食堂で大盛りの朝食を食べ、直樹へツッコミを入れていた少女とは思えないほど、動きは静かだった。
指先をトラックへ置く。
呼吸を整える。
視線を前へ向ける。
少し離れた場所で、篠原コーチが二人を見ていた。
「位置について」
早苗は腰を落とす。
舞も構える。
「用意」
二人の腰が上がる。
空気が止まった。
合図が鳴る。
舞が鋭く飛び出した。
最初の一歩から、早苗より前へ出る。
「速か……!」
早苗の頭に、その言葉が浮かぶ。
朝食会場では笑い合った相手。
しかし、トラックへ立てば全国トップクラスのスプリンターだった。
十メートル。
舞が半歩前。
二十メートル。
差はさらに広がる。
早苗は必死に追う。
県記録を出した時と同じように、三十メートルから加速へ入る。
だが、舞も速度を落とさない。
六十メートルのゴール。
一着は舞。
早苗は二着だった。
ゴール後、早苗は息を整えながら舞の背中を見る。
初めて、同年代の選手にスタートから最後まで前を走られた。
胸の奥に、悔しさが広がる。
しかし、その悔しさは恐怖ではなかった。
全国には、自分より速い選手がいる。
もっと強くなれる余地がある。
早苗は少しずつ笑顔になった。
「舞ちゃん」
「何?」
「もう一本、走りたい」
舞も笑った。
「うちも」
朝食会場で腹筋が痛くなるほど笑い合った二人は、トラックの上で初めて本当のライバルになった。
笑う時は思いきり笑う。
走る時は、全力で競う。
それが全国強化合宿で早苗が見つけた、最初の新しい関係だった。
次回予告
第13話「負けた朝、笑った昼」
六十メートル測定走で、林田舞に完敗した早苗。
県高校一年記録を持つ自分なら全国でも通用する。
心のどこかで抱いていた自信が、初日の一本で大きく揺らぐ。
昼食の席でも珍しく静かな早苗に、舞は梅ジュースを一本差し出す。
「負けた時こそ飲むんでしょ」
一方、男子長距離ブロックでは、直樹を意識した選手たちが設定を無視して飛び出し、練習は異常なハイペースとなる。
直樹は国内高校記録保持者として追われる苦しさを、初めて実感する。
それでも昼休み。
落ち込む早苗と疲れ切った直樹が顔を合わせれば、なぜか最後はいつもの言い合いになっていく。
次回、第13話「負けた朝、笑った昼」。
負けた日は、弱くなった日ではない。
次に速くなる理由を、初めて見つけた日だ。




