鹿児島を離れる朝
第10話 鹿児島を離れる朝
全国強化合宿への出発まで、あと二日。
大石家では、早苗の部屋が完全に荷造り会場になっていた。
床には旅行バッグが広げられ、その周りには持っていく予定の荷物が山のように並んでいる。
「よーし!」
早苗は気合いを入れながら、荷物を一つずつ確認し始めた。
「梅ジュース六本!」
バッグへ入れる。
「ホークスの応援タオル!」
バッグへ入れる。
「コアラのぬいぐるみ!」
バッグへ入れる。
「桜島キーホルダー!」
バッグへ入れる。
「……よし!」
そこへ部屋へ入ってきた母・美紀が荷物を見て固まった。
「早苗。」
「ん?」
「スパイクは?」
「……。」
「陸上ウェアは?」
「……。」
「ユニフォームは?」
「……。」
早苗はゆっくり荷物を見渡した。
「……入れてない。」
美紀は額に手を当てた。
「旅行じゃなかよ。」
「分かっちょる。」
「全然分かっちょらん。」
その頃。
田中家でも荷造りが進んでいた。
直樹は几帳面に荷物を並べている。
スパイク。
ユニフォーム。
ランニングシューズ。
補給食。
着替え。
ここまでは完璧だった。
しかし、その横には──
全国JR時刻表。
東京近郊路線図。
地下鉄路線図。
新幹線時刻表。
鉄道雑誌三冊。
父・正志が苦笑した。
「直樹。」
「はい。」
「東京へ競技しに行くとよな?」
「そう。」
「鉄道研究旅行じゃなかよ。」
「一応参考資料です。」
「何の参考ね。」
「乗り換え。」
「合宿中に全部乗る気か。」
そこへ妹の裕美と優樹菜が入ってきた。
「お兄ちゃん。」
「ん?」
「荷物の半分、電車やん。」
「そんなことない。」
優樹菜が数え始める。
「時刻表一冊。」
「路線図二枚。」
「鉄道雑誌三冊。」
「駅弁特集。」
「……。」
「お兄ちゃん。」
「はい。」
「旅行目的、見失っちょらん?」
その瞬間、玄関チャイムが鳴った。
ピンポーン。
「直樹ー!」
聞き慣れた声だった。
玄関を開けると、旅行バッグを抱えた早苗が立っていた。
「荷物チェックお願い!」
「もう嫌な予感しかしない。」
二人は荷物を広げる。
直樹は一つ一つ確認した。
「梅ジュース。」
「うん。」
「コアラ。」
「うん。」
「ホークスタオル。」
「うん。」
「桜島キーホルダー。」
「うん。」
「……。」
「スパイク。」
「……。」
「ない。」
「あ。」
「ユニフォーム。」
「あ。」
「練習着。」
「あ。」
直樹は天井を見上げた。
「全部競技用品忘れちょる。」
「旅行気分になりすぎた。」
「気分だけじゃなく荷物も旅行。」
裕美と優樹菜は腹を抱えて笑った。
「早苗ちゃん最高!」
「天然記念物!」
「誰が天然記念物!」
「県指定。」
「指定されとらん!」
美紀が慌てて荷物を詰め直し始めた。
「これ全部入れ直し!」
「はい……。」
◇
そして迎えた出発当日。
鹿児島中央駅。
ホームには、大石家、田中家、陸上部員、クラスメイトたちが集まっていた。
健吾が笑う。
「全国デビューじゃな!」
美月も笑顔で手を振る。
「全国でも夫婦漫才してきて!」
「誰が夫婦!」
「誰が漫才!」
また息ぴったりだった。
有馬顧問が笑いながら言う。
「競技だけ頑張ってこい。」
美紀が早苗の肩を叩く。
「忘れ物だけはせんようにな。」
「大丈夫!」
直樹がぼそっと言う。
「その言葉が一番信用できん。」
「失礼な!」
発車ベルが鳴る。
二人は深く一礼した。
「行ってきます!」
ホームいっぱいに拍手が響く。
◇
九州新幹線。
指定席。
窓の外を桜島がゆっくり遠ざかっていく。
早苗は窓に張りついていた。
「東京かぁ。」
「まだ熊本にも着いちょらん。」
直樹はコーヒーを買って席へ戻る。
その時だった。
早苗が急に固まる。
「……。」
「どうした?」
「……。」
「早苗?」
「……なんか。」
「うん。」
「大事なもの忘れちょる気がする。」
直樹は嫌な予感しかしなかった。
「何。」
早苗は荷物を全部開け始めた。
「着替え。」
「ある。」
「スパイク。」
「ある。」
「財布。」
「ある。」
「スマホ。」
「ある。」
「……。」
突然立ち上がる。
「電話してくる!」
デッキへ猛ダッシュ。
直樹も慌てて追いかけた。
「待て待て!」
デッキ。
早苗は母・美紀へ電話をかける。
「もしもし!お母さん!」
『どうした?』
「ごめん!」
『何?』
「予備のユニフォーム忘れたぁ!」
一瞬、沈黙。
そして。
『……はぁ?』
デッキ中へ響く美紀の声。
『あんた。』
「はい。」
『忘れんように着て行くって、自分で言うたやろ?』
「うん。」
『今、何着ちょる?』
早苗は自分の胸元を見る。
鹿児島高校陸上部のユニフォーム。
「……。」
『着ちょるやろ?』
「……着ちょる。」
『予備も何も、それ本番用やが!』
「……。」
『忘れたんじゃなくて、最初から着ちょる!!』
その瞬間。
後ろで話を聞いていた直樹。
「ぶっ……!」
飲んでいたコーヒーを危うく噴き出しかける。
必死に口を押さえる。
「んぐっ……!」
肩が震える。
早苗が振り向く。
「直樹。」
「……。」
「笑った?」
「……。」
「笑ったね?」
「いや……。」
もう限界だった。
「ぶははははは!」
デッキへ響く大爆笑。
直樹は壁にもたれながら笑い続ける。
「予備のユニフォーム忘れたって!」
「着ちょるやないか!」
「早苗!」
「おまえ!」
「最高すぎる!」
早苗は顔を真っ赤にした。
「だって!」
「予備も必要かなって思って!」
「思った結果!」
「本番用着てること忘れた!」
電話口の美紀まで笑い始める。
『あんたは全国行っても、そのまんまやねぇ。』
「お母さんまで笑わんで!」
『有馬先生に迷惑かけんごとね。』
「……はい。」
電話を切る。
しばらく沈黙。
直樹はまだ肩を震わせていた。
「もう。」
「笑いすぎ。」
「悪い。」
「でも。」
「これは反則。」
早苗はふくれっ面になる。
「そんなに面白い?」
直樹は涙をぬぐいながら笑った。
「全国合宿始まる前に。」
「もう優勝。」
「何が?」
「天然部門。」
「そんな部門ない!」
そのやり取りを、通りかかった車掌が思わず聞いて吹き出した。
「失礼しました。」
そう言って笑顔で通り過ぎていく。
新幹線は静かに北へ向かって走り続ける。
世界への第一歩。
その始まりは、日本代表候補らしからぬ、あまりにも早苗らしい大天然事件で幕を開けた。
次回予告
第11話「全国のライバルたち」
東京へ到着した早苗と直樹。
全国から集まったトップ選手たちとの初対面に、さすがの二人も緊張する。
しかし、受付で早苗がまたも天然発言。
「全国強化合宿って、朝ご飯は梅ジュース付きですか?」
静まり返る会場。
そして一人の女子短距離選手が吹き出した。
その笑いをきっかけに、全国のライバルたちとの距離が少しずつ縮まっていく。
一方、直樹は国内高校新記録保持者として、多くの選手から熱い視線を向けられる。
次回、第11話「全国のライバルたち」。
日本一が集まる場所でも、この幼なじみコンビは、やっぱりいつもどおりだった。




