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となりのスタートライン  作者: リンダ


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日本陸連から届いた封筒

第9話 日本陸連から届いた封筒


 新記録を樹立した記録会から、数日が過ぎた。


 鹿児島高校普通科一年三組では、早苗と直樹の記録について話題にする生徒も、少しずつ減り始めていた。


 もちろん、完全に元の日常へ戻ったわけではない。


 廊下を歩けば、名前を知らない上級生から声をかけられる。


 昼休みに購買へ行けば、別のクラスの生徒から写真を頼まれる。


 陸上部の練習中には、校外から見学に来る人の姿まで見られるようになった。


 特に国内高校新記録を樹立した直樹へ向けられる視線は、以前とは明らかに違っていた。


「田中君、次の大会でも十三分二十八秒くらいで走るんじゃろ?」


「全国大会では優勝できそう?」


「高校駅伝にも出るんですか?」


 まだ高校一年生になったばかりだというのに、周囲はすでに直樹の数年先まで想像している。


 県高校一年新記録を出した早苗も同じだった。


「次は十一秒五〇を切れそうじゃね」


「全国でも勝てるんじゃなか?」


「将来は日本代表?」


 期待を込めた言葉。


 悪意などない。


 応援してくれていることも分かっている。


 けれど、毎日のように同じことを聞かれると、少しだけ息苦しくなることもあった。


 しかし、当の二人は、周囲が想像するほど深刻には受け止めていなかった。


 ある朝。


 田中家の門の前で、早苗は鏡を見ながら前髪を確認していた。


「よし。今日は大丈夫」


 玄関から出てきた直樹が、早苗の頭を見下ろす。


「何が大丈夫なん?」


「髪」


「まだ気にしちょっとか」


「県記録保持者がサイヤ人みたいな髪で登校したら、写真撮られるかもしれんじゃん」


「早苗の寝ぐせに、そげな報道価値はなか」


「分からんよ。『県記録保持者、重力にも挑戦』って記事になるかもしれん」


「どこの新聞が書くとよ」


「鹿児島サイヤ人新聞」


「そげな新聞なかが」


 二人はいつものように言い合いながら、学校へ向かって歩き始めた。


 通学路の先には、朝日を受けた桜島が見えている。


 直樹は桜島の上に伸びる噴煙を見上げた。


「今日は灰、こっちに来んとよかけどな」


「傘は持ってきたよ」


「雨じゃなかど」


「灰も防げるじゃん」


「傘さして登校したら、晴れちょるのに何しちょっとかと思われっど」


「県記録保持者は紫外線対策も大事なの」


「さっきまで灰対策じゃったが」


「両方」


「都合よかね」


 学校へ近づくと、陸上部の先輩が二人の前を歩いていた。


 先輩は振り返り、直樹へ声をかける。


「田中、今日も注目されちょっど」


「何でですか」


「校門の近くに新聞記者らしか人がおった」


 早苗はすぐに自分の髪を触った。


「直樹、変じゃない?」


「記者はおまえの髪型を取材しに来たんじゃなか」


「分からんじゃん」


「分かっど」


 先輩は二人の会話を聞いて笑った。


「おまえら、記録出しても全然変わらんな」


「変わりようがなかです」


 直樹が答える。


 早苗も胸を張った。


「いい時はいいし、悪い時は悪いです。毎日新記録を出せるわけじゃないですから」


「早苗がまともなこと言った」


「直樹、それどういう意味よ」


「いつもより賢そうじゃった」


「いつもも賢いよ!」


 早苗が直樹の腕を軽く叩く。


 先輩は笑いながら先に校門をくぐっていった。


 記録を出したからといって、二人の関係が変わるわけではない。


 いい走りができる日もあれば、練習で思うように体が動かない日もある。


 周囲から褒められる日もあれば、有馬剛志から厳しく注意される日もある。


 新記録保持者になっても、忘れ物をすれば福留千鶴に叱られる。


 宿題をしてこなければ居残りになる。


 そして早苗は、相変わらず朝から何かを起こす。


 それが二人の日常だった。


校長室への呼び出し


 一時間目が終わった直後。


 福留千鶴が教室へ戻ってきた。


「大石、田中」


「はい」


 二人が同時に顔を上げる。


「校長室へ行きなさい」


 教室がざわついた。


 早苗の顔が青ざめる。


「先生、僕、何もしてません」


「まだ誰も、悪いことで呼ばれたとは言ってなかど」


「僕が校長室へ呼ばれる理由なんて、悪いことしか思いつかんもん」


「自分で言うな」


 直樹が突っ込む。


 前園健吾が後ろの席から身を乗り出した。


「朝から何かしたと?」


「してないよ!」


 迫田悠人は眼鏡を直しながら言った。


「大石の場合、本人が気づかんうちに何かしちょる可能性がある」


「悠人までひどか!」


 千鶴は出席簿を軽く机へ置いた。


「陸上に関する話じゃ。陸上部の有馬先生も校長室で待っちょる」


 直樹の表情が少し硬くなる。


「陸上の話ですか」


「行けば分かる。早く行きなさい」


 二人は席を立った。


 教室を出ようとすると、上原美月が早苗へ声をかける。


「代表の話だったりして」


「何の代表よ」


「日本代表」


「そげなわけなかじゃん」


 早苗は笑い飛ばした。


 川畑莉奈も手を振る。


「結果分かったら教えてね」


「悪い話じゃったら、直樹に説明させる」


「何で俺が」


「僕、難しい話を覚えられんかもしれんから」


「今から聞く前提で忘れようとすんな」


 二人は廊下へ出た。


 校長室へ向かう途中、早苗は落ち着かない様子で歩いていた。


「直樹」


「何ね」


「日本代表ってことはないよね」


「美月が適当に言っただけじゃろ」


「でも、日本陸連から連絡が来たって、有馬先生が前に言ってなかった?」


「詳しいことは聞いちょらん」


「僕、急に怖くなってきた」


「校長室に入るだけじゃ」


「校長室って、空気が重いじゃん」


「空気に重さはなか」


「理科の話じゃないよ!」


 校長室の前へ着く。


 直樹が扉をノックした。


「一年三組の田中直樹と大石早苗です」


「入りなさい」


 中から校長の声が聞こえた。


 二人が入室すると、校長の岩元誠司と、有馬剛志が応接用のソファに座っていた。


 テーブルの上には、一通の白い封筒が置かれている。


 表面には、日本陸上競技連盟の名称とマークが印刷されていた。


 早苗は封筒を見た瞬間、目を見開いた。


「本当に日本陸連じゃっど」


「声が大きか」


 直樹が小声で注意する。


 岩元校長は二人へ座るよう促した。


「大石さん、田中君。先日の記録会での活躍、改めておめでとう」


「ありがとうございます」


 二人はそろって頭を下げる。


「今日は、日本陸上競技連盟から届いた正式な招集通知について話があります」


 有馬が封筒を開き、中から書類を取り出した。


「来月、東京都内と千葉県内の競技施設を使って、全国の高校生を対象とした強化合宿が行われる」


 早苗は書類へ目を向けた。


「全国強化合宿……」


「そうじゃ。大石と田中の二人が、その合宿へ招集された」


 二人は言葉を失った。


 直樹は書類に記された自分の名前を見つめる。


 大石早苗。


 女子短距離強化候補。


 田中直樹。


 男子中長距離強化候補。


 確かに二人の名前が並んでいた。


「俺らが……」


「全国の合宿に?」


 早苗は何度も文字を確認した。


 見間違いではない。


 有馬は二人へ一部ずつ書類を渡した。


「全国から、各種目の有望選手が集められる。大石にとっては、全国トップクラスの短距離選手と走る初めての機会になる」


 早苗の表情に、期待と不安が同時に浮かぶ。


「みんな、僕より速か選手ばっかりですよね」


「そいを確かめるために行くんじゃ」


「僕、ついていけっとかな」


「今から諦めるなら、辞退してもよかど」


「行きます!」


 早苗は即座に答えた。


「全国の速か選手と走ってみたいです」


「なら、そいでよか」


 有馬は次に直樹を見る。


「田中は、少し事情が違う」


「国内高校記録を出したからですか」


「ああ。おまえは全国の選手から、最初から記録保持者として見られる」


 直樹は書類を握る指に少し力を入れた。


「強化合宿では、おまえの走りを見たい選手も多か。中には、記録を疑う者もおるかもしれん」


「一回だけの記録だと思われるということですか」


「そうじゃ」


 有馬は隠さず答えた。


「記録会の展開や条件がよかっただけ。次は同じように走れん。そう考える人間がおっても不思議じゃなか」


 早苗は身を乗り出した。


「でも、直樹は練習でもずっと速かったです」


「早苗」


 直樹が止める。


「僕、間違ったこと言ってないよ」


「有馬先生は、俺を悪く言っちょるわけじゃなか」


 早苗は口を閉じた。


 有馬はわずかにうなずく。


「田中の言うとおりじゃ。周囲がどう見るかを伝えただけじゃ。田中は、誰かを納得させるために無理して走る必要はなか」


「はい」


「大石も同じじゃ。全国の選手と比べて、必要以上に自分を小さく見るな」


「体は実際に小さかですけど」


 早苗が真顔で答える。


 一瞬、校長室が静かになった。


 直樹が額へ手を当てる。


「今、身長の話じゃなか」


「先生が自分を小さく見るなって」


「精神的な意味じゃろ!」


 岩元校長は笑いをこらえきれず、口元を手で隠した。


 有馬もため息をつきながら続ける。


「大石」


「はい」


「全国へ行っても、そげん調子でおれるなら、精神面は心配なさそうじゃな」


「褒められました?」


「半分くらいじゃ」


「残り半分は?」


「天然すぎて心配じゃ」


 直樹が吹き出した。


「先生、よう分かっちょる」


「直樹まで笑わんでよ!」


 先ほどまでの重い空気が、少しだけ和らいだ。


ユースオリンピック代表選考


 しかし、有馬の話はそれだけではなかった。


「もう一つ、二人に伝えておくことがある」


 有馬は別の書類を取り出した。


「今回の全国強化合宿は、単なる育成合宿ではなか」


 二人は再び姿勢を正す。


「将来の国際大会を見据えた選考も兼ねちょる」


 直樹の目が細くなる。


「国際大会……」


「その中には、ユースオリンピックも含まれちょる」


 早苗の口がわずかに開いた。


「ユースオリンピック?」


「十代の選手を対象とした国際総合競技大会じゃ。日本陸連は、次回大会へ派遣する候補選手を探し始めちょる」


「僕らも候補なんですか」


「現時点では、候補の候補じゃ」


 有馬は慎重に答えた。


「記録だけで代表が決まるわけじゃなか。合宿での走り、練習への姿勢、体の状態、国際大会へ対応できる精神面。いろいろなことが見られる」


 直樹は書類を見つめる。


「世界の選手と走る可能性があるってことですか」


「可能性はある」


 早苗はソファの上で背筋を伸ばした。


「直樹」


「何ね」


「僕ら、世界に行くかもしれんの?」


「まだ決まってなか」


「でも、可能性はあるんじゃろ」


「ああ」


 早苗の顔が、少しずつ明るくなっていく。


「海外に行ったら、梅ジュース売っちょっとかな」


 直樹は目を閉じた。


「最初に気にするところがそいか」


「大事じゃん」


「ユースオリンピックより梅ジュースか」


「競技の前に水分補給は必要じゃっど」


「普通のスポーツドリンクを飲め」


「僕は梅がよか」


 岩元校長がとうとう声を出して笑った。


「大石さんは、どこへ行っても大石さんのままじゃな」


「はい。変わらんと思います」


 早苗は堂々と答えた。


 有馬は苦笑しながら書類をまとめる。


「とにかく、まずは保護者へ説明し、参加の承諾を得る。移動や宿泊については学校と陸連で調整する」


「二人で行くんですか」


「有馬先生も引率する予定じゃ」


 早苗はほっと息を吐いた。


「よかった。直樹と二人だけじゃ、道に迷うかもしれんもん」


「俺は鉄道の乗務員を目指しちょっとじゃっど。東京の路線くらい調べる」


「直樹は電車を見始めたら、目的地を忘れそう」


「おまえは売店で梅ジュース探して迷子になるじゃろ」


「僕を幼児みたいに言わんで!」


「どっちもどっちじゃ」


 有馬の一言で、二人は同時に黙った。


教室へ戻れば


 二人が一年三組へ戻ると、クラスメイトたちが一斉に顔を上げた。


 健吾が最初に立ち上がる。


「どうじゃった?」


 美月も早苗へ駆け寄る。


「悪い話じゃなかった?」


「全国強化合宿に呼ばれた」


 早苗が答えた瞬間、教室が大きくざわめいた。


「全国?」


「日本陸連の?」


「すごか!」


 蓮太が直樹の肩をたたく。


「田中、今度は全国合宿か!」


 直樹は少し照れたようにうなずいた。


「大石も一緒じゃ」


 莉奈は両手を合わせる。


「二人で遠征?」


「有馬先生も一緒だよ」


「何泊?」


「予定では数日間」


 美月の表情が変わる。


「二人でお泊まり遠征じゃな」


「合宿じゃっど!」


 早苗と直樹の声が同時に響いた。


 健吾も面白がって話へ加わる。


「同じホテル?」


「男子と女子で部屋は別に決まっちょるが!」


「まだ誰も同じ部屋とは言ってなかど」


 迫田が静かに指摘する。


 直樹の顔が赤くなった。


「変な誤解されたくなかっただけじゃ!」


「田中は自分から余計な説明する癖が直らんな」


「誰のせいじゃ!」


 早苗は自分の席へ座り、書類を広げた。


 美月と莉奈が左右からのぞき込む。


「ユースオリンピック代表選考も兼ねるって書いてある」


 美月が声を上げる。


 教室が再び静かになった。


「早苗、日本代表になるかもしれんの?」


 莉奈が尋ねる。


「まだ候補の候補だって」


「でも、可能性はあるんじゃろ?」


「あるみたい」


「すごかね」


 早苗は少しだけ困ったように笑った。


「僕自身が一番、分かっちょらん」


 健吾が直樹を見る。


「田中は国内高校記録保持者じゃっで、代表候補の中心になるんじゃなか?」


「そげん簡単じゃなか。有馬先生も、記録だけで決まらんって言っちょった」


「緊張しちょっと?」


 直樹は少し考えてから答える。


「そりゃ、しちょる」


 早苗が横から口を挟む。


「直樹、昨日も寝る前に合宿のこと考えて、寝られんくなるかもしれんね」


「まだ今日聞いたばっかりじゃ」


「今日の夜の予言」


「勝手に予言すんな」


「もし寝られんかったら、羊を数えればよかよ」


「普通じゃな」


「羊が一匹、羊が二匹、コアラが三匹」


「途中で動物変わっちょるが」


「直樹との子どもが二人」


「何でそっちへ行くとよ!」


 教室中がどっと笑った。


 直樹は机へ額をつける。


「全国行く前に、早苗の口をどうにかせんといかん」


「僕、何か変なこと言った?」


「自覚がないところが一番怖か」


 福留千鶴が教室の前方から声を上げる。


「大石、全国合宿でも今の話をせんようにな」


「どの話ですか?」


「全部じゃ」


 また笑いが起こった。


注目を意に介さない二人


 全国強化合宿への参加が校内へ伝わると、二人への注目はさらに高まった。


 昼休みには、ほかのクラスの生徒たちが一年三組の前へ集まった。


「大石さん、ユースオリンピックの候補なんですか?」


「田中君、世界大会を目指すんですか?」


 早苗は最初こそ丁寧に答えていたが、同じ質問が続くうち、少しずつ疲れてきた。


 しかし、嫌な顔をする代わりに、思いついたまま話し始めた。


「僕ら、まだ代表じゃないよ。代表候補の候補。卵で言えば、ひよこにもなってない感じ」


 質問した生徒が首をかしげる。


「じゃあ、何ですか」


「卵になる前」


「それ、何ですか」


「分からん」


「分からんのかい!」


 近くで聞いていた生徒たちが笑い出した。


 別の女子生徒が尋ねる。


「世界の舞台へ行ったら、どんな走りをしたいですか?」


 早苗は真剣に考える。


「転ばんようにしたい」


「そこから?」


「海外まで行って転んだら、帰りの飛行機でずっと反省せんといかんじゃん」


 今度はさらに大きな笑いが起こった。


 直樹は隣で額へ手を当てている。


「もっと選手らしいことを言えんのか」


「じゃあ直樹が答えて」


 直樹は少し姿勢を正した。


「自分の力を出し切って、最後まで前の選手を追える走りがしたいです」


 周囲から感心した声が上がる。


 早苗も大きくうなずいた。


「そいです。僕も直樹と同じです」


「今、絶対考えてなかったじゃろ」


「直樹がまとめてくれたから」


「人の答えに乗るな」


 こうした二人のやり取りが、いつしか校内で評判になり始めた。


 特に早苗の天然な受け答えは、上級生からも人気を集めた。


「大石さん、走る時はあんなに格好いいのに、話すと全然違うね」


「県記録保持者なのに、偉そうにせんところがよか」


「田中君とのやり取りが漫才みたい」


 早苗本人は、なぜ笑われているのか分かっていないことも多かった。


「直樹」


「何ね」


「僕、最近知らん人から『今日も面白かったです』って言われるんだけど」


「早苗が天然じゃっで」


「僕、養殖じゃないよ」


「魚の話じゃなか!」


 近くにいた陸上部員たちが吹き出す。


 早苗は不思議そうに首をかしげた。


「また笑われた」


「今のは笑われても仕方なか」


「僕は真面目に答えたのに」


「そいが人気の理由じゃろな」


「直樹、僕のこと褒めちょる?」


「半分くらい」


「また半分?」


「残り半分は心配」


「有馬先生と同じこと言わんでよ」


 記録保持者。


 全国強化合宿招集選手。


 ユースオリンピック代表候補。


 肩書だけを並べれば、近寄りがたい存在になっても不思議ではない。


 だが、早苗と直樹は変わらなかった。


 練習でいいタイムが出れば喜ぶ。


 悪いタイムの日には、今日はだめだったと認める。


 互いに励ましながら、最後には必ず言い合いになる。


 そして練習が終われば、ベンチに座ってラジコでホークス戦を聴く。


「ツーアウト満塁じゃっど」


「ここで打ったら逆転じゃ」


 二人はスマートフォンへ顔を近づける。


『投げました!』


「打てー!」


 二人の声が完全に重なる。


『打った! 右中間へ大きな当たり!』


「行けー!」


「抜けろー!」


 打球が外野手の間を抜けた瞬間、二人はベンチから飛び上がった。


「よっしゃー!」


「逆転じゃー!」


 全国合宿への招集通知を受け取ったその日も、結局、二人の最大音量は陸上の話ではなくホークスの逆転打に使われた。


 有馬は遠くからその様子を見て、苦笑した。


「世界へ行っても、あのままじゃろな」


 それは、心配でもあり、同時に安心でもあった。


 周囲の期待に押しつぶされず、自分たちの日常を保つ。


 いい時はいい。


 悪い時は悪い。


 走れない日は無理をせず、走れる日は全力を出す。


 笑える時には思いきり笑う。


 それが早苗と直樹の強さだった。


 日本陸連から届いた一通の封筒は、二人の未来を大きく変える可能性を秘めていた。


 だが、世界へ続く扉の前に立っても、二人はまだ、いつもの鹿児島高校一年生だった。


「直樹、全国合宿に梅ジュース何本持っていけばよかかな」


「荷物になるから現地で買え」


「売ってなかったら?」


「普通の飲み物で我慢せえ」


「僕の走りの原動力だよ」


「そげな設定、今まで聞いたことなか」


「今決めた」


「勝手に競技人生の設定を増やすな!」


 二人の笑い声が、夕暮れのグラウンドへ響いた。


 この時、早苗と直樹はまだ知らない。


 全国強化合宿で出会う選手たちが、やがて世界の舞台で競い合う仲間になることを。


 そして、自分たちの名前が本当にユースオリンピック日本代表候補者名簿へ記される日が、思った以上に近づいていることを。


次回予告


第10話「鹿児島を離れる朝」


 全国強化合宿への出発日が近づく。


 初めての本格的な県外遠征に、早苗は旅行気分で荷造りを始める。


「梅ジュース六本、ホークスのタオル、コアラのぬいぐるみ……」


「陸上の道具はどこね!」


 直樹から鞄の中身を確認され、肝心のスパイクを入れ忘れていたことが発覚。


 一方の直樹も、東京の鉄道路線図や時刻表を大量に詰め込み、早苗から旅行目的を見失っていると突っ込まれる。


 出発当日。


 大石家と田中家、クラスメイトたちが鹿児島中央駅へ見送りに集まる。


「二人とも、合宿で変なことせんようにな」


「僕は直樹を見張っちょるから大丈夫」


「何で俺が見張られる側なん!」


 そして鹿児島中央駅を発つ列車の中で、早苗が重大な忘れ物に気づく。


「直樹……僕、制服を家に置いてきたかもしれん」


「合宿は陸上着じゃっど!」


 次回、第10話「鹿児島を離れる朝」。


 世界への第一歩は、荷造りの大混乱から始まる。

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