二章 18 赤テープ同士すか?
◇
【全校男子鉢巻争奪戦】
教師棒倒しが終わって十分ほど経ったというのに、観客席から人が引く気配はなかった。
むしろ増えている。
保護者席には脚立へ乗ってカメラを構える者まで現れ、校庭の外周には女子生徒が二重、三重に並んでいた。さっきまで救急車で運ばれていった山本先生の話で盛り上がっていた連中も、今は誰もが校庭へ目を向けている。
どうやら本当に、これが体育祭のメインイベントらしい。
『さあ――大変お待たせいたしました!』
スピーカーから響いた綺羅羅の声に、ざわついていた校庭が一気に沸いた。
『本日のメインイベント! 一年から三年まで、男子全員参加! 全校男子鉢巻争奪戦です!』
「「「「うおおおおおおおおお!!」」」」
鼓膜が震えるほどの歓声が押し寄せ、俺は思わず片耳を塞いだ。
「うるせぇなぁ……」
校庭には赤と白の鉢巻を巻いた男子が広く散らばっている。
ルールは単純。
相手の鉢巻を一本取れば一点。取った本数がそのまま個人成績になり、さらに所属する赤組、白組の団体得点へ加算される。
殴る、蹴る、投げるは禁止。
その代わり、逃げるのも、囲むのも、仲間同士で手を組むのも自由。
つまり、強いヤツが一人いれば勝てる競技ではない。
「獅子丸ー! 百本取れー!」
「豪樹ー! 去年六位だろ! 今年は三位入れよー!」
「童貞卒業しろー!」
「うるせぇぇぇ!」
少し離れたところで豪樹が怒鳴り返し、観客席から笑いが起きる。
豪樹は白組。
俺様は赤組。
朝からあれだけ「今年は俺が勝つ」と威勢よく言っていたくせに、さっきから俺と目が合っても何も言ってこない。
腿を伸ばし、足首を回し、何度かその場で軽く跳ねながら、ひたすら身体を温めている。
(ずいぶん真面目じゃねぇか)
俺も赤い鉢巻を締め直し、軽く首を回した。
その時だった。
目の前を横切った白組の三年生が、俺から四メートルほど離れた場所で止まった。
「……ん?」
そいつの横へ、もう一人。
少し間を空けて、また一人。
さらに後ろからも白い鉢巻が集まり始め、何をしているのかと思っているうちに、視界の端から端まで白で埋まっていった。
「なんか獅子丸の周り、白ばっかじゃね?」
「……囲んでない?」
観客席も気づいたらしい。
ざわめきが少しずつ広がっていく。
前だけじゃない。
振り返っても、右を見ても左を見ても白。
俺を中心に、四、五メートルほど距離を取った大きな輪が出来上がっていた。
「おいおい……」
軽く見積もって四十人。
まだ増える。
最後に何人かが隙間へ入り、ほぼ完全な円になった。
『これは……どういうことでしょうか!? 白組、試合開始前から獅子丸くんを完全包囲! 五十人近くいるぞー!』
「五十対一ぃ!?」
「やりすぎだろ!」
「反則じゃねぇの!?」
『残念ながら反則ではありませーん! 殴る、蹴る、投げる以外なら、囲むのも逃げるのも作戦のうち!』
笑いと歓声が入り混じる。
だが、俺を囲んでいる連中は誰一人笑っていなかった。
全員、本気だ。
(五十人で俺様の鉢巻一本を取りに来る?)
どう考えても割に合わない。
仮に俺の鉢巻を取れても、その間に何十本奪われるか分からない。それどころか俺が取った鉢巻は、そのまま紅組の団体得点になる。
「いいぜ」
両手を広げ、少し笑った。
「まとめて来いよ」
何人かの眉が動いた。
それでも誰も前へ出てこない。
代わりに、円の向こう側から小さな声が聞こえた。
「追うなよ」
「分かってる」
「取られたヤツはすぐ外へ抜けろ。穴は後ろが埋めろ」
「……?」
取られたヤツは抜けろ?
勝つつもりなら、普通は俺の鉢巻へ手を伸ばす。
ところがこいつらが気にしているのは、俺がどちらへ動くかだけだった。
その時、五十人の肩越しに豪樹が見えた。
輪には加わっていない。
白組なのに俺の方すら見ず、校庭の反対側で腰を落とし、赤い鉢巻の群れを眺めている。
まるで競技場全体を獲物の群れとして見ているようだった。
(……ほう)
ようやく少し面白くなってきた。
『それでは全校男子、準備はいいですかぁ!』
あれほど騒がしかった観客席が静まっていく。
五十人に囲まれた俺。
その外で、たった一人だけ違う方向を向いている豪樹。
まだ号砲すら鳴っていないのに、何かが始まる気配だけが校庭を覆っていた。
風が抜け、鉢巻の端が額の横で揺れる。
『位置について――』
周囲の五十人が腰を落とした。
俺もわずかに膝を曲げる。
パンッ!
乾いた音が空へ抜けた瞬間、円が一気に縮んだ。
「出すなぁぁぁ!」
「囲め!」
「来いやぁぁぁ!」
正面から伸びてきた手に、自分から半歩踏み込む。
相手は俺が下がると思ったのだろう。
指先が頭の横を通り過ぎるより早く身体を沈め、その脇を抜けながら鉢巻の結び目だけを引いた。
右から二人。
片方へ視線を向ける。
そいつが反射的に身構えた瞬間、狙ったのはもう片方だった。
肩を入れ替えるだけで二人の間を抜け、すれ違いざまに一本。そのまま一歩だけ踏み込み、振り向こうとした最初の男からもう一本。
「えっ?」
まだ自分の鉢巻がなくなったことにも気づいていない。
『速い! 獅子丸くん、開始直後から一気に四本!』
「何だ今の!」
「見えねぇ!」
歓声が上がった。
俺はそのまま外へ抜けるつもりで踏み込む。
――だが、白がいた。
「……あ?」
今四人分の穴を開けたはずだった。
なのに、その後ろにいた連中が身体を横へ滑らせ、俺が抜けようとした場所を塞いでいる。
右へ走れば、円の右側が一斉に寄る。
急に左へ切り返しても、反対側にいた連中が前へ出て出口を潰した。
「取られていい! とにかく出すな!」
「後ろ詰めろ!」
なるほど。
俺様を倒すための五十人じゃない。
俺様をここへ置いておくための五十人だ。
「ハッ!」
思わず笑った。
(最初から俺様の鉢巻なんかどうでもいいってか)
五十本を丸ごと差し出すつもりなのかと思ったが、違う。
俺が自由になれば、校庭中を走って五十本どころじゃなく持っていく。
なら最初から一定数を犠牲にし、俺が稼げる場所そのものを狭くする。
その代わり――。
(豪樹は?)
円の隙間から外を見る。
さっきまで百メートル近く向こうにいたはずの豪樹が、もう別の場所を走っていた。
「なっ……」
赤組の男子が二人で揉み合っている。
豪樹はその横を通過しただけに見えた。
だが、すれ違った直後、その右手には赤い鉢巻が握られている。
止まらない。
振り返らない。
次の相手へ向かって、そのまま走っていく。
「豪樹来たぞ!」
「逃げろ!」
一人が背を向けた。
豪樹との距離はかなりある。
逃げ切れると思ったのだろう。
俺にもそう見えた。
ところが、あと数歩というところで豪樹の身体が沈み、その瞬間だけ足の回転が一段上がった。
「速っ!」
並ぶ。
追い越す。
その一瞬だけ右手が伸び、鉢巻が豪樹の指へ絡んだ。
相手が頭を押さえて振り返った時には、豪樹はもう十メートル以上先へいる。
『豪樹、また一本! そのまま次へ向かう!』
(あの野郎……)
俺様とは戦い方がまるで違う。
真正面から来るヤツには付き合わない。
足を止める必要がある相手も捨てる。
逃げるヤツ、他の相手へ意識を向けているヤツ、追えば確実に取れるヤツだけを選び、ひたすら走る。
去年六位。
なるほど。
こいつの武器は、最初から喧嘩じゃなかったわけだ。
『開始一分! 個人暫定、獅子丸十八本!』
「「「うおおおおお!」」」
『そして豪樹――二十一本!』
「「「えええええええ!?」」」
観客席の声がひっくり返る。
「豪樹が勝ってる!」
「三本差!」
「ギャハハハハ!」
面白ぇ。
「だったら、五十人全部取るまでの時間を縮めりゃいいんだろ!」
真正面へ踏み込んだ。 男の視線が俺を追う。
その目線だけを右へ誘い、身体は逆へ抜く。
「右だ!」
「違う、左!」
声が重なった頃には、もう二本抜いていた。
次の男には一度だけ足音を強く聞かせる。
そいつが音へ反応して振り向いた瞬間、その死角側を抜けて鉢巻を取る。
「どこ行った!?」
「後ろだ!」
五十人もいるのに俺の位置を見失い始めた。
こういう時、人間は目だけで相手を追わない。
周囲の声。 誰かの視線。 足音。
隣の人間が身体を向けた方向。
全員がそれを頼りに動く。
だから一人だけ間違った方向へ視線を向けさせれば、その後ろの何人かもつられて動く。
昔なら、そこに一瞬だけ生まれる死角を使っていた。
今は――。
「いただき!」
鉢巻を取るだけだ。
『獅子丸、さらに加速している!』
白い円が波打つ。
俺が右へ抜けたと思った集団が右へ寄ったところで、身体を反転させて中央へ戻る。その途中で一本を抜き、俺を見失って首を振った男からもう一本。
次々と腰へ鉢巻が増えていく。
『三十七! 三十八! 三十九!』
『豪樹も四十一! さらに四十二!』
「うおおおおおおお!」
向こうで豪樹の身体が大きく傾いた。
一瞬、転んだと思った。
だが、左手を地面へついたまま身体を流し、ほとんど速度を落とさず立て直した。
「まだ走んのかよ……」
ここからでも肩が上下しているのが分かる。
当たり前だ。
アイツは最初からずっと走りっぱなしだ。
俺様の相手は人間。
豪樹の相手は距離と自分の肺だ。
それでも止まらない。
追いつけない相手は捨て、次へ向かう。取れると判断した瞬間だけ加速し、一本奪えばまた走る。
(バカのくせに……)
笑いが込み上げた。
(ちゃんと俺様に勝つ方法を考えてきやがった)
「ここは通さねぇ!」
今度は三年らしい大柄な男が、両腕を広げて正面へ立った。
その後ろには二人。
まともに抜けば身体が触れる。
「そうかよ!」
なら、まともに抜かなければいい。
真正面から速度を落とさず走る。
「来た!」
ぶつかる寸前で腰を落とした。
男の腕が俺の頭上を通り過ぎ、その脇へ身体を滑らせる。
「消え――」
言葉が終わる前に一本。
後ろの二人が同時に寄ってきた。
進路がなくなる。 だったら。
片方が低く構えた肩へ片足を置き、その力を借りるように身体を浮かせた。
「はぁ!?」
視界が一瞬だけ白い鉢巻の頭上へ出る。
空中ですれ違った一人から一本を抜き、着地した先でもう一本。
『飛んだぁぁぁぁ!』
「反則だろ!」
『反則ではありません!』
着地した場所にも三人。
さすがに外へは出られない。
どこまで抜いても、残った白組が外周から内側へ詰めてくる。
「ハハッ……徹底してやがる」
だったら、最後まで付き合ってやる。
『残り二分! 豪樹五十六! 獅子丸五十四! わずか二本差!』
観客席から聞こえる声が、いつの間にか赤組と白組の応援ではなくなっていた。
「豪樹ぃぃぃ!」
「獅子丸いけぇぇぇ!」
「二本差だぞ!」
俺を囲んでいた輪も、もうかなり薄い。
その代わり、残った連中の顔は最初より険しかった。
「豪樹が勝ってる!」
「あと少しだ! 絶対出すな!」
十人ほどが正面へ固まる。
ここまで来ると、自分の鉢巻を守ろうとするヤツはいない。
どうやって俺の一秒を奪うか。
それだけを考えている。
「いい作戦だよ」
俺は息を吐き、軽く笑った。
「でもな――最後までやれると思うなよ!」
密集した真ん中へ飛び込んだ。
伸びてきた腕を頭だけでかわし、一人目。
肩を入れて進路を塞いだ男の身体を半歩回り込み、二人目。
その動きを追って全員の視線が一方向へ寄った瞬間、逆へ切り返して三人目。
『七十! 七十一! 七十二!』
「「「うおおおおおおお!!」」」
残った最後の男が後ろへ下がる。
「今さら逃げんな!」
一気に詰めた。 鉢巻が指へ掛かる。
『獅子丸七十三ぁぁぁぁ!!』
白い壁が消えた。
一気に視界が開ける。
広い校庭が、何分ぶりかに目の前へ戻ってきた。
その遥か向こうを豪樹が走っている。
『残り十秒! 現在、獅子丸七十三! 豪樹七十三! 同数ぅぅぅ!』
「「「うおおおおおお!!」」」
俺も走った。 ここからなら好きに動ける。
赤い鉢巻が一人見えた。 遠い。
豪樹の前にも一人いる。 あっちは近い。
『八! 七!』
豪樹に気づいた赤組の男子が逃げた。
「逃げろぉぉぉ!」
「豪樹取れぇぇぇ!」
俺も前へ出る。
間に合うか。
『六! 五!』
豪樹がまた加速した。
ここまで走り続けて、まだ残してやがった。
「ギャハハ! まだ上がんのかよ!」
『四! 三!』
並んだ。
豪樹は身体を掴まない。
押さえもしない。
ただ横を抜けていく。
『二!』
追い越す一瞬だけ、右腕が跳ねた。
赤い鉢巻が宙を舞う。
『一!』
パンッ!
終了の号砲が鳴った。
豪樹はそのまま十メートルほど走り、ようやく速度を落とすと両膝へ手をついた。
右手には、一本の赤い鉢巻。
校庭が妙に静かだった。
俺も腰へ差した鉢巻を見下ろす。
七十三本。
『……集計、出ました』
綺羅羅まで息を切らしていた。
『個人第二位――獅子丸、七十三本!』
大歓声が上がった。
『そして個人優勝――豪樹! 七十四本んんんんんんん!!』
「「「「うおおおおおおおおおおおおおおお!!」」」」
今度は本当に、校庭が揺れた気がした。
白組だけじゃない。
赤組も、女子も、保護者も立ち上がっている。帽子を空へ投げるヤツもいれば、知らない相手と肩を組んで叫んでいるヤツもいる。
豪樹はとうとう力尽き、その場へ仰向けになった。
『そして団体得点! 紅組九十五! 白組八十九! 団体優勝は紅組ぃぃぃ!』
今度は赤組が爆発する。
なるほど。
白組は豪樹を勝たせるため、俺様へ大量の鉢巻を差し出した。
その六点が最後まで響いた。
個人は豪樹。
団体は紅組。
「……ギャハハハハ!」
腹の底から笑った。
(澪……父ちゃん、中坊に負けちったわ)
「獅子丸くぅぅぅぅん!」
「ん?」
振り返った時には遅かった。
保護者席から飛び出してきたイチゴが、勝ったボクサーへ駆け寄るセコンドみたいな勢いで突っ込んでくる。
「ナイスガイぃぃぃぃ!」
「おい、待――うおっ!」
そのまま首へ両腕を回され、勢いに押されて二歩下がった。
「すごかったぁぁぁ! 何あれぇぇぇ!」
「勝ったの俺じゃねぇぞ!」
「でもカッコよかったぁぁぁ!」
「暑い! 離れろ!」
観客席から笑いと口笛が飛んでくる。
その向こうでも、一人が赤組の席から校庭へ飛び出していた。
優希だ。
「豪樹ー!」
さっきまで地面へ転がっていた豪樹が、慌てて上体を起こす。
「……優希?」
優希は豪樹のところまで走っていくと、膝へ手をついて何かを言った。
ここからじゃ聞こえない。
けれど、豪樹の顔を見れば十分だった。
ついさっきまで全校生徒の前で七十四本も鉢巻を奪い、あれだけ堂々と走り回っていた男が、優希一人を前にした途端、どうしていいのか分からない顔をしている。
「ギャハハハハ!」
競技はとっくに終わっている。
それでも誰も席へ戻ろうとしなかった。
赤も白も関係なく、校庭にはまだ豪樹と俺の名前が飛び交っていた。




