二章 9 まふまふ
「あっ……あの時の……女?」
「ああ、私に負けた男!」
「負けたって……」
豪樹くんは目を逸らして視線を横に向け、バツが悪そうに鼻をこすった。
「豪樹に勝った?」
溝口くんは何度も僕とイチゴさんを見比べ、水樹ちゃんだけが呆然と立ち尽くしていた。
「きゃー可愛い。結構お金かかったでしょーこの髪色」
スキップするように近寄ってきたイチゴさんは、水樹さんの目の前でぴたりと足を止めた。返事を待つこともなく髪を一房つまみ、光に透かすように眺めている。
「いえ、あの……誰ですか?あなたは」
「私はイチゴ!本名!君は?」
「えっと……水樹です」
「君は獅子丸くんのこと、好きなの?」
「えっ……なぜそれを言わなきゃいけないんですか?」
水樹さんの肩がぴくりと揺れた。教室中の視線が一斉に彼女へ集まる。
「だって〜裁判ごっこしてたんでしょ〜?」
「ええ、なんかノリで……」
「好きならもっと抱きしめれば良いのに、こうやってー」
「えっ?」
イチゴさんはそう言うと、僕の腕をぐいっと引っ張った。
反応する間もなく身体が前へ傾く。
次の瞬間、顔が柔らかな胸元へ埋まる……
「ほ〜らね」
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
教室の空気がぴたりと止まる。
豪樹くんは口を半開きにしたまま固まり、要くんは「うわっ」と小さく声を漏らした。周りの連中も声を失い、ただ僕たちを見ている。
慌てて僕はイチゴさんの腕から離れた。
「なっ……それは身体を使って……」
「身体張れない子なの? 獅子丸くんは?」
「そういう意味じゃ……」
「好きは自由だよぉ〜想うことはね〜」
「動くかどうかは自分次第ってね〜」
イチゴさんは悪戯っぽく笑いながら一歩下がる。
水樹ちゃんはイチゴさんを見つめたまま口を開きかけた。視線が僕へ移る。何か言いたそうだったが、小さく息を吐いただけで、結局なにも言わなかった。
「ところでさ……入ってくるときに撮ったんだけどさ?」
イチゴさんは制服のカバンからスマホを取り出し、慣れた手つきで画面を何枚か表示すると、自然と全員が画面を覗き込んだ。
「入学式の時の……校長と一年生か?」
豪樹くんはそう言うと、イチゴさんが画像の校長先生を指さした。
「この人だよ、優希ちゃんと一緒にいたのは」
「は〜?なんで校長と?」
「そこまでは知らないわ、でも間違いないかな」
ガラーッ。
勢いよく教室のドアが開いた。
「ちょっと、あなたね? 部外者は」
美月先生がイチゴさんの前へ立ち、後ろでは学年主任が教室を見渡していた。
「部外者じゃないで〜す 獅子丸くんの同居人でーす!」
「「「「えええええ」」」」
◇
先生たちが来たこともあって、学年主任も交えて僕たちは優希さんのことを話した。
教室の空気は、さっきまでの裁判ごっこの騒がしさが嘘みたいに静かになっていた。
連絡が八月頃から誰も取れていない。
家にはいると優希の親には言われたが、見たわけではない。
繁華街で見たが逃げるように消えた。
そしてその後の目撃者がイチゴさんで、校長の車に乗っていったことを先程知った。
机を囲んだ全員の視線が自然と学年主任へ集まる。
「いや〜それだけだと、なんとも言えないぞ……」
「そうですねぇ」
学年主任と美月先生は顔を合わせ、小さく頷き合った。二人とも眉をしかめたまま言葉を探しているようで、教室に短い沈黙が流れた。
「でもさ? 優希んちコロナなのにマスクしてないとかさ? 結構事件に巻き込まれてんじゃね?」
黙って話を聞いていた水樹さんが、勢いよく立ち上がった。
「気持ちはわかるけど……親御さんが家にいる、繁華街で元だけど校長先生が、車に乗せてって言われてもねぇ」
「そうだなぁ。補導して送り返したって線の方が強いよなぁ……まあ確かに普通は自家用車には乗せないけど、お母さん教育委員会の人だしなぁ……」
学年主任は腕を組み、ゆっくりと言葉を選びながら話していた。
「警察には言えないんですか?」
「難しいかなあ。一応、優希さんの担任の先生にまずは親御さんへ聞いてみてもらう。これくらいしか出来ないかなあ」
その返事に、教室のあちこちから小さく息を吐く音が聞こえた。
「公務員ってば大変ですなぁ〜忖度だね〜」
「忖度なんてないけど、順序ってものがな」
「アタシの周りでも教師の息子ってだけで、児相に連れて行かれない子とかいたわ〜」
イチゴさんはひょいっと机の上へ腰を下ろした。チュッパチャプスをくるりと回して口へくわえ、学年主任を下から覗き込むように見上げる。
学年主任は返事をする代わりに、小さくため息をついた。
誰もが優希さんのことを心配しているけど、それだけでは動けない。
そんなもどかしさだけが、教室の中に重く残っていた。
◇
放課後
「獅子丸くん、あの後も優希さんちの玄関をモニタリングしているけど、出入りした様子はないよ」
尊くんはスマホを見ながら淡々と言った。
(龍馬さんが尊くんへ依頼したやつだ)
「俺さ〜、なんか名探偵みたいな洞察力っていうの? そういうのはないけどさ〜、なーんか、悪いことは分かんだよなあ」
豪樹くんは頭の後ろで両手を組み、空を見上げながらぼやくように言った。
(豪樹くんが言っているのも、最もだよな)
僕は二人と並んで歩きながら、黙って話を聞いていた。
夕暮れの住宅街を吹き抜ける風が制服の裾を揺らす。信号待ちの車がゆっくりと横を通り過ぎても、誰も次の言葉を口にしなかった。
なにか大人全員が少しずつ嘘をついているような気もするし、偶然ってそんなに繋がるものだろうか。
頭の中で何度考えても答えは出ない。
そんなことを考えていたが、僕ではどうしたらよいか全くわからなかった。
◇
九月六日 水曜日 午前三時半
珍しく夜中に気になって目が醒めてしまった。
部屋は静まり返り、カーテンの隙間から差し込む街灯の明かりだけが床をぼんやり照らしている。
枕元に置いていたスマホを手に取り、時刻を確認する。まだ三時半だった。
僕は龍馬さんへ四日の日にあったことをメールの下書きへ残していたが、新しい下書きメールが一件増えていた。
昨日の先生たちの話では、親御さんには連絡して警察に言うようなことではないと言われたこと。
旧校長は連絡が取れていて、特に問題なく自宅にいるということ。
それと龍馬さんが美月先生から校長の住所を聞き出して、メールの下書きに残っていた。
特に僕の日になにかやっておけという指示もない。
画面を閉じると、部屋はまた静けさに包まれた。
(龍馬さんも動かなかったってことか……)
「獅子丸くん……起きちゃったの?」
隣から眠たそうな声が聞こえた。
「えっ? ああ、逆にごめん、起こしちゃった?」
イチゴさんは薄く目を開け、髪をかき上げながらゆっくり身体を起こした。
なぜか夜になると、イチゴさんは必ず僕のベッドへ潜り込んで寝ている。
「そういえばナイフあったよ」
「ナイフ? どこに?」
「紙袋の中」
そう言うと、イチゴさんはベッドの縁から身を乗り出し、手探りでベッドの下を探る。
「あったあ」
紙袋を引っ張り出すと、膝の上へ置いて軽く叩いた。
「えっ? 悠真先輩のお父さんから渡されたやつ……すっかり忘れてた……ナイフ?」
紙袋を受け取り、中を覗き込む。
薄暗い部屋の中でも、鞘からわずかに覗く金属の鈍い光が目に入った。
ゆっくりと引き抜くと、細身の刀身が街灯の光を静かに反射する。
フェアバーン・サイクスが入っていた。
自然と手に馴染む重さだった。
(僕が持っていた物と違う……)
「ってか、勝手に開けるなー」
「いやいや、重さ的にお菓子だと思ってね」
イチゴさんは悪びれた様子もなく笑っていた。




