一章 13 あとで喋ると滑っちゃいそうな話!
五月二十日 土曜日 午後九時半
(もう……ここに戻ることもない……)
窓から外へ抜け出し、白浦学園を見上げた。
ほとんどの部屋は消灯している。毎日見てきたはずの建物なのに、金網の外から見ると、巨大な檻のように思えた。
シュボッ。
ライターの火が、暗闇の中で一瞬だけ揺れる。
悠真は煙草に火をつけ、肺の奥まで吸い込んだ。ゆっくり煙を吐き出すと、張り詰めていた胸がわずかに軽くなった。
「悠真くん、どこに行くの」
「……っ」
澪の声だった。
顔を見れば、ここから動けなくなる気がした。
「澪か…」
背後から、澪の小さな息遣いだけが聞こえてくる。
「俺、必ずここを潰す」
握った拳が震えた。
「その時は、お前も自由になれるように……」
「行かないで……」
「くっ!」
煙草を地面へ落とし、全力で駆け出した。
金網へ足を掛け、一気によじ登る。
「俺だって……」
口からこぼれた言葉は、夜風に消えた。
◇
「マジか! 澪!」
『うんっ、行き先は聞いていないけど……その……うっうっ……どうしたらいい?』
電話の向こうで、澪の声が震えている。
(澪……)
僕まで不安そうな声を出したら、もっと怖がらせてしまう!
「いや、大丈夫。よく連絡してくれた。ありがとう」
できるだけ落ち着いて聞こえるように、ゆっくり話した。
「もしかしたら、あれだ。決行日は明日だろ? 急にゲーセンへ行きたくなったのかもしれねーぞ?」
『でも、そんな雰囲気じゃっ……』
「わっ、わかっているよ!」
やばっ声が裏返った……
「澪、だから……あの……俺様がいる」
『……獅子丸……くん?』
「いや、まあ、任せておいて……じゃなくて、任せておけ! 俺様に!」
澪が何か言う前に、僕は無理矢理電話を切った。
部屋が急に静かになる。
(今日は僕しかいない……)
だけど、ボイスメモには、尊くんたちも明日のために動いていると残されていた。
机の一番下の引き出しを開ける。参考書を何冊も取り出し、底板の端へ指を掛けた。
「くっ……」
爪を隙間へ押し込み、板を持ち上げる。
暗い空間の中に、黒い鞘が隠れていた。
僕のフェアバーン・サイクス。
鞘から刃を少しだけ引き抜く。
鋭い光が、細身の刃を走った。
僕の口角が上がるのがわかる。
(龍馬さん。一つ、僕の勝ちです……)
脛にベルトを巻きつけ、鞘を固定する。
ズボンを下ろせば、外からは見えない。
スマホを取り出し、運動公園までの道順を表示した。
「多分、今、龍馬さんをやれるのは……僕だ!」
窓を開けると夜風が一気に部屋へ入り込み、カーテンが大きく膨らんだ。
僕は窓枠へ足を掛け、二階から外へ抜け出した。
(勇気なら……勇気だけならっ!)
運動公園へ向かって走り出す。
(僕も……澪を守る!)
◇
駐車場の外灯の下に、何人かの人影が集まっていた。
僕は道路脇の生け垣へ身を滑り込ませ、枝の隙間から様子を窺った。
「おー、悠真。今日の役割、わかってんよな?」
「あぁ、はい……ところで、ちゃんと金もらえるんすよね」
「あぁ?」
身体の大きな男たちが顔を見合わせる。
薄暗くて表情まではよく見えない。それでも、馬鹿にするような笑い声だけははっきり聞こえた。
「おお、やるよ? 成功すればな?」
「やる前から金の心配かよ? へっへっ」
(龍馬さんなら……どこで助ける?)
今、飛び出す?
それとも、もう少し様子を見る?
見えているだけでも、男は五人以上いる。
(僕一人で……?)
心臓の音が、相手に聞こえてしまいそうなほど大きい。
(やれない理由を探すな!)
僕は自分の腕へ爪を立てた。
痛みで震えを押さえつける。
(僕は……僕は変わる!)
生け垣をかき分け、駐車場へ飛び出した。
「悠真先輩っ!」
◇
「獅子丸くんっ!」
僕は、椅子を蹴るように立ち上がった。
机の上に置いた端末には、運動公園周辺の地図が表示されている。
獅子丸くんの位置を示す印が、明日向かうはずだった駐車場で点滅している。
(なぜ……獅子丸くんが、明日のポイント地点に……今日?)
「誰に聞いたんだよ……明日のはずだった!」
スマホを掴んだ。
連絡先から美月先生を選び、通話ボタンを押す。
呼び出し音が、やけに長く感じる。
『もしもし?』
「美月……先生?」
『どうしたの? 尊さん?』
「先生!」
声が喉につかえた。
「獅子丸くんが……いえ、松丸くんが、運動公園の駐車場にいます」
◇
「おいっ、尊! どうなってんの?」
『あっ、ああ、水樹さん?』
「なんで獅子丸が今日、運動公園に移動してんの?」
制服の上へパーカーを引っ掛けながら、スマホを耳と肩で挟んだ。
『僕にもわからない……美月先生には連絡した』
「アタシ、これから向かう」
『僕も……行く!』
「わかった。運動公園の入口で合流するよ!」
通話を切り、玄関に置かれていた靴へ足を突っ込む。
踵がうまく入らない。
「もうっ!」
靴紐を結ぶ時間も惜しかった。
踵を踏んだまま、玄関を飛び出した。
◇
走って現地に向かっているところにワイヤレスイヤホンへ、着信音が流れた。
「誰!? 今、緊急!」
『優希っ! やっぱ緊急なのー?』
「うん、今、運動公園に向かっている」
喋るたびに息が切れる。
足が重い。喉の奥が乾いて痛かった。
『じゃあアタシも向かうっ!』
「うん……じゃなかった! 多分、優希さんは澪ちゃんのところだと思う!」
『澪? なんで!?』
「いや……」
『アタシも行くっ!』
「違う……聞いて! 多分、あの、多分だけど……」
『ああん?』
「獅子丸くんは、優希さんに澪さんを任せていた」
『あっ……』
イヤホンの向こうが静かになった。
「僕たちは……獅子丸くんを信じよう」
走りながら、端末で確認した位置を思い出す。
獅子丸くんは一人で、明日の予定地点へ向かった。
何か考えがあるはず。
そう思わなければ、怖くて足が止まりそうだよ。
『……わかった! こっちは澪のところに行く!』
「お願い!」
通話が切れる。
僕はスマホを握り直し、運動公園へ向かって走り続けた。
◇
「澪……澪……!」
優希は走りながら、もう一度発信ボタンを押した。
『この電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が――』
「やっぱ、繋がんない……」
足を止め、白浦学園のある方向を見る。
運動公園とは反対方向だった。
獅子丸が自分へ澪を任せた理由。
今になって、ようやくわかった気がした。
「なら、行くよぉ〜!」
優希はスマホを強く握り、白浦学園へ向かって走り出した。
◇
「誰だぁ? この子どもは……」
男の一人が、こちらへ近づいてきた。
(大きい……)
近くで見ると、僕とは身体の厚みが全然違う。
逃げたい。
それでも僕は男から目を逸らし、悠真先輩の腕を掴んだ。
「悠真先輩!」
「せん……ぱい? お前……誰――」
「帰りましょう、先輩」
悠真先輩が何か言いかけた。
その瞬間、視界の端で男の脚が動く。
「うぐっ!」
腹へ強い衝撃が走った。
身体が地面から浮き、肺の中の空気が一気に押し出される。
「かっ……は……」
息を吸おうとしても、喉が引きつるだけで空気が入ってこない。
膝から崩れ落ち、両手をアスファルトへついた。
(苦しい……苦しい……息ができない……)
何をされたのか、ほとんど見えなかった。
(僕には……無理?)
掌へ砂利が食い込む。
男たちの笑い声が頭の上から降ってくる。
(澪……)
ズボンの裾を上げ、フェアバーン・サイクスを鞘から引き抜く。
「おいっ、この小学生、ナイフまで持ってきたぞー!」
「ははっ、やっちゃえ、やっちゃえ!」
「うぉぉぉぉぉぉっ!」
立ち上がり、目の前の男へ刃を突き出す。
(かわされ……た?)
「おーらよっと」
頬に何かがめり込んだ。
視界が白く弾け、身体が横へ吹き飛ばされる。
「うっ!」
地面へ肩から叩きつけられた。
口の中に鉄の味が広がる。
悠真先輩を見たが目が合いそうになった瞬間、悠真先輩は顔を背けた。
(……悠真先輩)
「おぁぁぁぁっ!」
僕はナイフを握り直し、もう一度立ち上がった。
(足を止める! 狙いはアキレス腱)
男の膝下へ向かって刃を振る。
「ほらよっと!」
背中に強い衝撃が走った。
「うぐっ!」
前のめりに倒れたところへ、靴底が背中へ乗った。
身体が地面へ押しつけられる。
頬がアスファルトに擦れ、皮膚が焼けるように痛い。
(まだだ! まだ動ける!)
龍馬さんなら……諦めない!
「おらー! みんなで蟻ん子潰しやろーぜぇ!」
いくつもの足音が近づいてくる。
次の瞬間、腹、背中、肩へ、次々と靴が降ってきた。
「ぐっ……うぁっ……!」
(苦しい……)
(澪……)
「うわぁぁぁっ!」
僕は身体をひねり、ナイフを横薙ぎに振った。
「いてぇぇっ!」
男の一人が飛び退く。
「なんだっ、やられたのか?」
「ふぅ……いや、かすり傷だ」
破れたズボンの隙間から、細い赤い線が見えた。
「おう。みんな、このガキ持ち上げろぉー」
「おおー!」
何本もの手が伸びてくる。
「離せっ! 離せぇ!」
両腕と両脚を掴まれ、身体が宙へ浮いた。
手足を動かしても、びくともしない。
「そーれっ!」
目の前の景色が大きく流れた。
枝の折れる音とともに、僕の身体が駐車場脇の生け垣へ叩き込まれる。
「うっ……!」
背中へ硬い枝が食い込んだ。
細い葉が顔を覆い、周囲が見えない。
立ち上がろうと腕へ力を入れた瞬間、手首を踏みつけられた。
「このガキ……ナイフなんて持ちやがって……」
指を一本ずつ剥がされ、フェアバーン・サイクスが奪い取られる。
(ナイフを……取られた……)
葉の隙間から、男が刃を持ち上げるのが見えた。
外灯の光が刃に反射する。
「ずいぶん物騒なもん持ってんなぁ」
腕を引っ張られ、生け垣の外へ伸ばされた。
手の甲へ、冷たい刃先が触れる。
「やめ……」
男の顔は、逆光でよく見えない。
「やめろ……!」
刃先が消えた。
次の瞬間、手の甲を鋭い痛みが貫いた。
「ギャァァァァァァ!」
痛みで身体が跳ねる。
「おおー、いい声で泣くねぇ」
「土まで刺してっと」
「グァァァァァァ……!」
腕を引くたび、手の中で何かが裂ける。
ナイフは僕の手を貫き、その下の土まで深く刺さっていた。
「磔のでっきあっがりー!」
男たちの笑い声が遠くなっていく。
(手が……動かない……)
視界が暗くなる。
痛みはあるはずなのに、指先の感覚が薄れていった。
(ごめんなさい……龍馬さん)
葉の隙間から、わずかに夜空が見える。
(僕は……ここまでしか……)




