一章 10 Mary is so silly (メアリーはおバカさんです)
五月十五日 放課後。
夕日が海沿いの歩道を橙色に染めていた。
防波堤を越えて吹く潮風が、制服の裾を揺らす。
しばらく二人とも何も話さず、足音だけが静かに重なっていた。
「……ねぇ、獅子丸くん」
「ん?」
澪は前を向いたまま、小さく笑った。
「今日、ありがとう」
「悠真のことか?」
「怖かった。でも……あの人、悠真くん、本当は昔からあんな人じゃないの。小さい頃はね、すごく優しくて、私が泣いてるとよく海まで連れて行ってくれたの。『関係ねぇよ、あんな奴ら』って、『泣きたいなら泣け』って、何時間でも隣に座ってくれてた」
遠くの水平線へ目を向けたまま、少しだけ寂しそうに笑う。
「でも、いつからだろ……急に荒れちゃって。職員さんにも暴力を振るうようになって、悪い友達ばっかり増えて」
少し間を置いてから、ぽつりと続けた。
「本当はね、お母さんに会いたかっただけなんだって」
「会わせてもらえんのか?」
「うん。悠真先輩は二歳から施設にいて、虐待もなかったって聞いた。でも、一度も……一度も、お母さんに会わせてもらえなかった」
思わず足が止まりかける。
「……そうか」
「それを知った頃から、変わっちゃった」
(まさかとは思うが……)
「澪、お前は美咲とは会えているのか?」
澪が立ち止まり、不思議そうにこちらを見た。
「……美咲?なんで獅子丸くん、お母さんの名前知ってるの?」
(やっべ、俺様としたことが娘のことになると)
「いや、その……どっかで聞いたんだったかな」
頭を掻いて誤魔化す。
澪は少し首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
「私はね、小学校一年生の時に一時保護されたの。二年間、お母さんにも会えなくて、勉強もほとんどしてない。そのまま三年生で白浦学園へ来たんだ」
龍馬は何も言わず歩き続ける。
児相。養護施設。そして金は充分にあったはずなのに……なぜ。
俺様が知っている"保護"とは、どうも違う。
親子を守るためではなく、親子を離すためにあるような……そんな話に聞こえてしまった。
「あとね」
少し照れくさそうに笑う。
「悠真先輩、私の初恋だったんだ」
「ほう?」
「もちろん昔の話だけどね。だから……あんなふうになっちゃったのが悲しくて」
澪は照れ隠しのように笑い、少しだけ前を向いた。
「でも、中学校に入ってからは獅子丸くんが一緒に帰ってくれるようになったから」
澪は前を向いたまま、小さく息を吸った。
「私ね、もう守られてばっかりじゃ駄目なんだと思う。ちゃんと、自分でも強くなりたい」
「でもなんでだろう……昨日までの獅子丸くんには、話せなかったのに、今日は……言えた」
夕日に照らされた澪の横顔は、少しだけ大人びて見えた。
悠真。児相。白浦学園。
どれも俺様には関係ない話のはずだった。
それでも胸の奥には、小さな棘のような違和感だけが、いつまでも残り続けていた。
五月十五日 松丸邸
「おい……これはなんだ?ゆるふわ親父……」
「なにって獅子丸くんが買えって言うから、スミスマシーンだよ」
「——いくらしたんだ、こんなもの」
「えーと、母さん、これいくらだっけ?」
「ニ百五十万だったかしらね?設置込みで」
「ニ百五十万!?」
「父さんも使ってみたけど、この胸筋にな、ガッツリ刺激が入った気がするよ、いい買い物だったな?獅子丸!」
「パパもママも獅子丸に甘すぎなんだよー」
今日も下着でソファーから姉の愛羅が文句を言っている。
「はーい!出来たわよー、晩ごはん、獅子丸ちゃんも着替えてきてね」
「うわっ、なんだそれ?」
「なにって獅子丸ちゃんが、そうしろって」
大量の鶏むね肉、山積みのブロッコリー、一匹丸ごとか?サーモン、プロテインと……錠剤?
「おい、この得体のしれねー水色の錠剤はなんだ?俺様の身体が食ってはいけない色だと拒絶しているぞ」
「あーそれね!父さん探すの大変だったんだぞぉ」
「海外の掲示板で一番人気だった筋力増強剤」
「おい!ゆるふわ親父!中学生に、んなもん飲ませるな」
「え〜昨日は欲しいって言うから〜」
(そーいうことじゃねーだろ!?やはり、コイツもここの家の血を引いている——)
◇
ビールを飲みながら部屋に戻ると机に、一枚の紙切れがあった。
【引き出しを僕は帰ったら開ける!パパとママはこれを見ても開けないで】
(朝は気づかなかったな)
引き出しを開けると、五枚のプリントと、その下には更にメモ紙があった。
【もうすぐテストがあります、とりあえず五教科の過去問を入れておきますから今日中にテスト問題をやっておいて下さい】
ビールを飲んでいる手が止まった。
「なにーーーー!!」
「時間は?七時半くらいか!」
まずは……尊だ。【うちにカメラを持って来い!大至急だ!】と、入れて送った。
「テスト?知らねーよ、そんなの、えっと……まずこれか……次の中から正しいものを3つ?……」
◇
五月十六日 火曜日 午前五時半
目を覚ますと僕は机で寝ていた。
机にはダウンロードした過去問とメモリーカードが置かれている。
過去問をざっと見た。
「うわ……思った以上にひどいかも」
僕は、その時少し笑ったかもしれない。
最強の男。
こんなところで弱点が見えたことにホッとする自分がいるのが可笑しかった。
スマホを取り出し、ボイスメモを開いた。
新規で作られたボイスメモが一件あった。
【俺様を試そうとするとはいい度胸だな!○時までには終わらせた。当然オール満点。俺様だからな!それとな、メモリーカードを見ろ。スミスマシーンもいいが、本当の強さはちげー。最強のアサシンを作る第一歩は、ラッキングによる基礎体力。全身を鍛え、長距離歩行で心肺機能と持久力を養え。そして最後に最強たらしめるのは筋肉じゃーない。どんなに苦しくても、毎日やり抜……】
途中で切れたボイスメモを見返すと、録音時間は午後十一時五十九分となっている。
(待っていて下さい龍馬さん、必ず追いつく)
五月十七日 水曜日 午前四時頃
「ぐあぁぁぁ、痛てーーー」
あまりの全身の痛みで、目が覚めた。
筋肉痛?痛ってぇ……
懐かしい痛みと共に俺様の口元が緩むのがわかる。
コイツめ……
◇ 五月十七日 水曜日 午前十時過ぎ
「ん……なぜ創立記念日に呼ばれるのだ」
「なにって獅子丸くんが昨日言ったんじゃない」
「お腹が痛いのだが?」
「なら常駐の人がいるから保健室に行く?」
「……いや」
「さっ始めましょー!補習!補習!」
「なぜウキウキしているのだ?」
「さあ、まずは英語から」
「美月は国語だろ?」
「中学生の英語くらいわかるわよ」
「はぁ」
また、テストさせられるとは……
◇
「美月……出来たぞ〜」
うんざりだ。中間テストなどいらんではないか。
年一で良い。
「はーい。じゃあ採点しま~す」
「……なにかがおかしい、美月はなんでこんなに嬉しそうなのだ」
「……」
(獅子丸くん……やっぱり違う……)
「獅子丸くん、この問三」
美月は答案用紙を指で叩いた。
『次の日本語を英語にしなさい。――私に任せてください』
「なんで、I got this.なの?」
「何がおかしい。俺に任せろ、だろ?」
「学校では、Leave it to me.よ」
「意味は同じではないか!」
「I got this.は教科書に出てないの。それに……」
「発音も、日本人が学校で習う英語じゃなかった」
「そうか?気のせいだろ?」
「"got"も"this"も、ネイティブみたいな発音だった」
(なぜ……美月は少し涙を……?)
美月は答案から顔を上げた。
(やっぱり、この子の英語……習ったものじゃない)
「あなたは——誰?」




