東條湘の幸福論
毎朝起きて、ジョギングをする。
帰ってきて、濡れタオルで汗を拭って、天気のいい日は洗濯機を回す。
朝食の準備をしながら家族が起きてくるのを待つ。
家族が朝食を食べ終わったら自分が朝食を食べる。
布団や洗濯物を干す。掃除をする。
昼食を作って、家にいる皆と食べる。
筋トレや組手をする。洗濯物や布団を取り込む。
夕飯の買い物に出て、夕食を作る。
ざっとシャワーを済ませて『仕事』に向かう。
『仕事』を終えたら風呂に入って、眠る。
毎日だいたいこんなことを続けている。
「お兄ちゃん、大変だなぁ」
「なんだ、急に」
皿を洗う手伝いをしてくれていた妹にそんな事を言われ、反射的に答えていた。
「毎日、毎日、家事して、仕事して、家族で一番遅くにお風呂入って、それで寝て、家族で一番早く起きて、って繰り返してるんでしょ? だから、すごいなぁって改めて思ったの」
「何だそんな事か。大したことはしてないよ、別に」
食器は無事に全て洗い終わり、食器棚に収まった。蛇口を持ち上げ水を止め、タオルで手を拭きながら言う。
「むしろ、毎日こんなに幸せでいいのか不安になるくらいだ。そりゃ、仕事は大変なこともあるけど、俺だからできることだって認められてる印だし、苦には思わないしな」
「……お兄ちゃん、幸せなの? 今の生活が?」
「幸せだよ」
妹も手を拭き、不思議そうにこちらを見上げてくる。
俺は頭一つ分小さなそのショートカットを撫でながら言う。髪は洗いたてで、ドライヤーで乾かされたばかりのその髪は柔らかく、彼女や姉やもうひとりの妹の愛用しているコンディショナーの香りがふわりと漂う。
「俺の作った飯をうまいって言ってくれる人がいて、俺の作った飯で幸せそうにしてくれる人がいて、俺の掃除した部屋で快適そうに過ごしてくれる人がいて、俺の洗濯した服を着心地良さそうにしてくれる人がいて、俺の個人的な訓練に付き合ってくれる人も現れた。これ以上の幸せ、望んだら罰が当たるくらいだ。俺は幸せだよ」
「そんなものかな……」
「それで十分なんだ、俺はな」
「でも、細やかすぎるよ、そんなの」
夕方を過ぎてから降り出した雨の雫が窓を濡らしていくのを見て、俺は中庭の見える窓辺のカーテンを閉めに行く。中庭には蟲術師である姉が個人的に育てている『害虫避け』の魔術の施された紫陽花が咲いていて、暗がりの中、部屋から溢れる光に照らされていた。
それに別れを告げるようにカーテンを閉める。
「……この世界に生きとし生けるもの、四季の移ろい、天候の変化、森羅万象、全てを美しいと、愛おしいと思える感性があるから、兄貴殿は幸福だと思い続けられるのじゃろうな」
未来からやってきたと言う、もうひとりの妹がテレビのバラエティ番組を眺めながら呟いた。
「どういうこと、エノシマ?」
由比が彼女……エノシマさんの隣に座り、不思議そうに首を傾げる。
「少なくとも、儂の知る兄貴殿はそんな人じゃったよ。人間どころか自然をも食い散らかし、暴れるレヴィアタンに怒り狂い、戦いを挑む程度にはな」
「未来のお兄ちゃんはそれで戦ったの?」
「もちろん特魔の指令もあったのじゃろうがな。あんなに怒った兄を見たのは初めてじゃったよ」
菓子盆からフィルムに包まれたラムネを取り出し、ひとつ摘んで口に運ぶ。
「……ねぇ、エノシマ。未来のお兄ちゃんに、愛する人はいた?」
「さぁ、のう。じゃが、家族を大切だと思っておったのは間違いなかったと思う。今の兄貴殿と同じじゃな」
「結婚とか、してなかったの?」
「それは秘密じゃ」
エノシマさんはもう一粒ラムネを摘むと隣に座る由比の口に押し入れた。おしゃべりな口を封じるように。
「未来は知らぬほうが幸せなことのほうが多いぞ、由比。それに今の兄貴殿が儂の時空の兄貴殿と同じ選択をするとは限らんじゃろう?」
子供らしくない表情でにやりと笑って、エノシマさんは俺に小さくウィンクをする。それを受け止め、俺も少し笑った。
「あぁ、未来なんて、解らないから面白いんだ」
好きな相手がいるだなんて、少なくとも今の自分には考えられない。由比が細やかだと言う、家族の幸せを守ることが最上級の幸福な俺には、それ以上のモノなんて持てそうにない。きっと、未来の俺も同じだったのだろう。
由比が結婚しても、きっと姉の面倒を見ることに注力していたに違いない。理想の高い姉はなかなか結婚しそうにないから。
それでも俺が家を出たということは、姉にふさわしい結婚相手が見つかったからなのだろう。
『名家の魔術師の家系の次男坊で、自分を縛り付けることもない、仕事を続けても文句を言わない、自分より式神を優先しても何も言わない』ような男が。
……少なくとも、今は姉にそんな男がいる影は見えないので、まだまだ自分はこの生活を続けられるのだろう。
だとすれは、これほど幸福なことはない。
毎朝起きて、ジョギングをする。
帰ってきて、濡れタオルで汗を拭って、天気のいい日は洗濯機を回す。
朝食の準備をしながら家族が起きてくるのを待つ。
家族が朝食を食べ終わったら自分が朝食を食べる。
布団や洗濯物を干す。掃除をする。
昼食を作って、家にいる皆と食べる。
筋トレや組手をする。洗濯物や布団を取り込む。
夕飯の買い物に出て、夕食を作る。
ざっとシャワーを済ませて『仕事』に向かう。
『仕事』を終えたら風呂に入って、眠る。
そんなただの日常が続くことが、自分にとっての最高の幸福なのだから。




