東條エノシマの人生は続く
ある夜、布団に入り目を閉じたエノシマは気がつくと見渡す限り青い平原に立っていた。見渡しても青、青、青。そしてその向こう側に人影が立っているのに気がついた。
これは夢だ。そんな事は解っている。それでもばくばくと心臓が鳴り止まない。
エノシマは走った。人影に向かって駆け出していた。
一歩足を進めるごとに、徐々に視界が高くなってく。足がすらりと伸び、体は女性的な丸みを帯び、かつて自分がそうであった姿を取り戻していく。髪が背中につくくらいに長く伸びた頃、人影に手を伸ばした。
「健吾!」
エノシマが泣き声に近い叫び声を上げる。人影はゆっくり振り返った。すこし垂れ目で、くせっ毛をパーマでごまかしている。健吾が両手を広げ、大人の姿になったエノシマをを抱きとめた。
「由比、すまんかったな。俺のせいで苦労させた」
エノシマは……いや、西ノ宮由比は涙を流しながら、懐かしい体温を感じていた。ほのかに香る、大人になった彼がいつもつけていたオー・デ・コロン。あのバニラに似た香り。あぁ、自分の知る健吾がここにいる。自分の愛した健吾がここにいる。夢なことくらい解っている。それでも、彼女にとっては幸せすぎる夢だ。今まで、幾度となく見た夢だ。それでも幸せだった。二度と会えないと思っていた男に再び会えるのだから。
「苦労だなんて、思ったけど、何度も何度も思ったけど、辛いなんて思ったことない。旦那さんの失態を拭うのはお嫁さんになった自分の役目だもん」
「ハッ、そこは嘘でも苦労なんてしとらんって言えや、ボケ」
いつもの悪態すら愛おしい。あぁ、自分はこの男が本当に好きだった。
「由比、今日はほんまのお別れを言いに来たんや。もうお前が俺の夢を見てうなされんでもええように」
「えっ……」
少し身を離し、健吾の顔を見上げる。健吾は悲しげに笑い、言う。
「東條由比がお前になる未来は消えた。俺は未来の亡霊や。もう、会われへん。二度と」
「そんな……。やだよ。私、健吾の夢を悪夢だなんて思ったことないのに」
駄々をこねるように首を振る女に、男は諭すように優しく言う。
「なぁ、由比。お前も、もう新しい人生を歩んどる。いつまでも俺みたいな亡霊に囚われとったら、お前は幸せにはなれん。やから、今日が最後。お別れや」
「健吾……」
男の体が薄れてゆく。体温が、香りが、声が、遠くなっていく。
「由比。幸せになってくれ。アホやった俺に振り回された分、何十倍も、幸せになってくれ。大人になったら、俺みたいなアホな男やない、もっとええ男みつけて、幸せになれ」
「健吾、嫌だ、やだよ、いかないで!」
消える寸前、健吾は笑っていた。
「そっちの由比と俺がどうなるかは、そっちの俺が頑張るやろうけど、どうやろうな。俺、ヘタレやからなァ」
「健吾!」
「由比、愛しとるよ。強情張って言えんでゴメンな。今までも、これからも、愛しとるで。だから……」
幸せになれ。
消えかかる声はもう耳に届かない。けれど、口の形でそう言って、健吾は消え去った。残されたのは、幼い姿のエノシマただひとり。青い平原も消え去って、今は自室の薄暗い天井を現実の自分の目で捉えていた。
布団が重い。もう、薄い夏用の布団に変えているのに。エノシマが頬を撫でると涙が溢れていた。
お別れや、由比。
健吾の声がまだ耳の近くで聞こえるような気がした。けれど、すぐにそれも薄れてしまうだろう。
「馬鹿。馬鹿。大馬鹿野郎。自分が言いたいことだけ言って消えやがって。私だって言いたいこと、山ほどあったのに」
夢に現れた彼が本当に未来の彼そのものなのだとしたら、恨み、つらみ、あらゆる罵倒の言葉を投げかけてやりたかった。それでも、本当に言いたかったのはただひとつだ。
「……私も、愛してる。愛してたよ、健吾……」
網戸越しに風が入ってくる。梅雨入り直後の生ぬるい風に、あのオー・デ・コロンの香りを求めてみる。健吾の体臭と混ざり、バニラの匂いに似たあの香りはもうどこにもなかった。
深夜の部屋は海の底のように静かで、デジタル時計しか置いていないこの部屋では秒針の音さえ聞こえない。エノシマは声を殺して静かにぽろぽろと涙を零した。
お別れや、由比。
――うん、分かったよ、健吾。
心の中でそう答える。そして涙を拭い、再び布団に潜り込んだ。
私はエノシマ。東條エノシマ。もう、由比じゃない。もう召喚もできないから、召喚獣を得ることもできない、ただの小学生の東條エノシマだ。
明日になったら、大好きな家族たちにおはようを言って、朝食を食べて、ランドセルを背負って小学校へ行く。そして出来た友達の連花ちゃんにあいさつをする。一度習った退屈な授業を聞き流しながら、消えた未来にお別れをして、新しい人生を歩いてく。
どうなるかなんて、解らない未来に向かって歩いていく。
――これでいいんだよね、健吾。私は歩くよ。おまけでもらえた新しい人生。エノシマという人生を。
答えはもう聞こえないけれど、エノシマはつかの間の青空に向かって心の中で問うてみる。やっぱり答えなんて返ってこない。けれど、エノシマは自分の信じる道を歩くだけだ。
大好きな家族たちのいる家へ帰る道は見慣れた道のはずなのに、知らない道を歩いているようで怖いけれど、それが新しい人生を歩くってことなのだろうとエノシマはひとりで笑った。




