真夏の蜃気楼
彼女が彼を初めて見たのは一年前の夏だった。
受験生ではあったが、早々と推薦入学をもぎとった彼女にとっては、なんてことない夏休みの一日だった。ただ、なんとなく。そう、なんとなく自分が通う学校を改めて見物に来ただけだった。
キャミソールに薄いロングスカートを履き、意気揚々と出たまでは良かった。
来年の春から通う通学路。さんさんと照りつける太陽は肌に痛いくらいだったが、アスファルトからの放射熱の方に頭がくらくらしそうになる。せめて曇りの日に来ればよかったと少し後悔し始めた、そんな時、グラウンドから野球部の声が聞こえてきた。
うつろな目で顔を上げると、グラウンドの端で転がるボールを拾っては投げる、細い少年を見かけた。
……あぁ、彼はきっと、まだ一年生で、球拾いくらいしかさせてもらえないのか。
ぼんやりした頭でそう考えたところまでは覚えている。意識はそこで途切れた。
目覚めたのは木陰の下だった。頭にひんやりとした濡れたタオルが置かれている。
「あ、目、覚めた?」
横に居たのは、あの球拾いをしていた少年だった。
「ここは……どこですか」
慌てて起き上がろうとする少女を少年は優しく横たえさせる。
「無理すんなって。軽い日射病でよかったよ。もうちょっと重症だったら救急車の世話にならなきゃいけないところだった。うちの優秀なマネージャーに感謝しろよー!」
日によく焼けた少年は白い歯を見せて笑う。
「お、その子目を覚ましたか、砂月?」
そうこうしている間にジャージ姿の若い教員が歩いてきた。
「あ、監督。大丈夫みたいです、ちゃんとろれつも回ってますし」
「ん、じゃあスポーツドリンクでも飲ませてやれ。お嬢ちゃん、感謝しなよ。砂月があんたが倒れたことにすぐに気がついたから早めに処置できたんだ」
「そう、ですか。……ありがとうございます」
少女は小さな声でお礼を言う。監督と呼ばれた教員は笑って砂月と呼ばれた少年に言った。
「砂月、お前はこの子が動けるようになるまで側に居てやれ。それまで休憩扱いにしといてやるから」
「マジっすか!?」
「あぁ、その代わりに休憩終わったらグラウンド十周な」
「ひぇ……」
「ゆっくり休んでいきな、お嬢ちゃん」
そして男は立ち去ってしまった。木陰に残されたのは砂月と呼ばれた少年と、少女の二人きり。
「厳しいんだか優しいんだかわかんねーよなぁ、光友先生は……。あ、ここがどこか解るか? のばら原高校のグラウンド。お前、フェンスによりかかったかと思ったらそのまま倒れちゃってさ。俺が急いで外出て担ぎ上げて、グラウンドの中に入れて、マネージャーに容態見てもらったんだ。マネージャー、治癒魔法が得意で、保健委員もやってるから」
「のばら原……解ります。……あたし、この学校を見に来たんです。今年、受験するから」
「へぇ、そうなのか! じゃあ、後輩になるかもしれないんだな! ほら、スポーツドリンク。水分とっとけ」
「ありがとうございます」
砂月が差し出したクーラーボックスに入れられたスポーツドリンクのボトルを受け取り、蓋を開けようとする。しかし、腕に力が入らず、なかなか開かない。
「貸してみな」
砂月は少女の手からボトルを取り上げると、開けようとする。しかし、なかなかの難敵のようで少年の手でも開かない。
「ちぇっ、しょうがないな」
砂月は小さな声で詠唱し、腕の筋力を増強させる。ぶかぶかだった練習着が、瞬時にぱつんぱつんになり、軽く力を入れただけで蓋はすぐに開いた。
受け渡すのと同時に体は空気の抜けた風船のようにしゅるると元の姿に戻る。
「……筋力強化の術ですね」
「おー、まぁな! っていっても、俺、これくらいしか魔術で得意なのないんだけどな!」
照れたように笑う砂月に少女の表情を和らげる。そして、やっとスポーツドリンクに口をつけた。
「うん、やっぱりなぁ!」
砂月は満足したように言う。
「……何がですか?」
少女が訊くと砂月はにかっと笑い、なんでもないように言った。
「顔だけみたら、あんた男っぽいけど、笑うと女の子らしくなる。せっかく綺麗な顔してるんだから、女の子はもっと笑ったほうがいいよな!」
その言葉に、少女は思わず頬を赤らめた。しかし、顔を上げ、スポーツドリンクを飲み干し、立ち上がる。それに狼狽えたのは砂月だった。
「お、おい。もういいのか? 顔、赤いけど平気か?」
「あたしなら大丈夫です。ありがとうございました、砂月『先輩』」
そしてすたすたとグラウンドにいる顧問で監督である教員に歩み寄り、お礼を言うとまた砂月の所に戻ってきた。
「帰ります。ご面倒をおかけしてすみませんでした。あたし、エレーナ・ルキーニチナ・アリビツカヤって言います。来年の入学式でまた会いましょうね」
「エレ……なんだって?」
「多分入学する時は和名で入ると思うので、忘れてくれていいですよ。でも、本当の名前も知っててもらいたかっただけです。それじゃ」
そして、金の髪を揺らして少女は去っていった。砂月にとっては真夏に見た蜃気楼のような存在だった。
そして、春が来た。砂月は無事に二年生になり、エレーナ・ルキーニチナ・アリビツカヤは『天ヶ崎エレナ』として入学式を終え、野球部のマネージャーに就任した。
「天ヶ崎、スコアブックの書き方覚えたか?」
「大丈夫です。私元々ソフトボール部でしたから、大きな違いはありませんよ、砂月先輩」
「しっかりしたマネージャーが来てくれてよかったよ。去年までのマネージャーは三年生の先輩だったから、卒業しちゃって心配だったんだ」
「お役に立てるなら、なによりです」
真夏の蜃気楼のことなどすっかり忘れてしまった砂月は、美貌の金髪の新入生を見てもあの不思議な響きの名前の少女と同じだと思わなかった。しかし、蜃気楼は覚えている。さんさんと輝く、あの日の真夏の太陽のような少年のことを。
「ほら、さぼってるとまたペナルティ科せられますよ。光友先生は厳しいんでしょう?」
「そうだった、じゃあな! 天ヶ崎!」
地道な努力の甲斐があって無事にレギュラーに抜擢された砂月を、天ヶ崎エレナは笑って見つめていた。




