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        四




 熱い痺れのような名残が、身体に残っていた。

 闇に閉ざされていた世界が元の明るさを取り戻してゆく。どこからか澄んだ空気も流れ込んできた。

 腹の底にまで、清涼な空気が沁みわたる。

 ほぅと息を吐き出すと同時、足から力が抜け、へなりと膝をついた。

 言いようのない心地よさに、楓は少しの間浸っていた。

「秋刀魚が食べたいって、なんだよそりゃ」

 透明になった空をぼんやり瞳に映していた楓のそばに近付く気配があった。

 桐午だった。

 その後ろにいる紗一も、まとっていた不思議な衣はいつの間にか消えていた。

「署名だとしても、間抜けた署名だよな」

「……署名?」

 言葉自体は揶揄(やゆ)する調子だったが、砕けた笑みが、桐午の口元にほんのりと乗せられていた。

「おれたちいねとら組が紋を描くと、必ずそこに署名が入るんだ。紋自体にはなくても、描いていると自然に入り込んでる」

「署名……、ですか……」

 真っ白になった頭で、桐午の言葉を繰り返す。

 声でなにを紡いだのかはほとんど覚えていないが、確かに『秋刀魚が食べたい』と言ったような気はする―――けれども。

『秋刀魚が食べたい』なんて文言に、がっくりと滅入ってしまう。秋刀魚は確かに好物だが、一応年頃の娘なのだから、せめてもう少し美しい表現だったり言葉でもいいだろうに。

「お前、やっぱ三人目だったんだな」

「声で紋を描くって方法、初めてなんじゃない?」

「いねとら組歴は長いほうだけど、聞いたことはねェな」

「……、すみません……」

「謝んなって。それがお前のやり方だったってだけで」

「これで三人が揃ったってことだね。何年振りだっけか?」

「十……何年だかな。あんま覚えてねェや」

 桐午と紗一は、すっかり楓が三人目だとして、戦いの終わった余韻の中、和やかに話しだす。

(あの。違う……。違うの、あたしそうじゃなくて)

 心地よさをも誘う強い疲労と同じくらいに、抑えきれない後ろめたさがあった。

 自分は、三人目なんかじゃない。

 怨妖を祓ったわけじゃない。自分の言葉で拘束紋が効果を発揮したわけでも、分解紋で分解したわけでもない。

 むしろ逆。

 あれはただ、同じ怨妖同士ということで祓われたふりをして、どこかへと逃げただけ。

 そうに決まってる。

 自分は、怨妖なのだから。

 桐午たちのように紋を描いたわけではない。桐午たちだって、声で紋を描くのは初めてだと、聞いたことがないと言っている。

 だからあれは、祓ったのではない。

 怨妖である自分が、いねとら組の三人目であるはずがないのだ。

(だけど……)

 胸に、いまでも(とも)り続けるこの熱さは、なに?

 これまで感じたことのないこの心地の良い感覚は、いったい、なに。

 判らない。

 完全な怨妖になったということ?

 それとも自分は真実三人目なのか。―――怨妖なのに、三人目だと?

 そんなまさか。ありえない。

(あたし……じゃあ……、なら、同族を祓っちゃった、ってこと……?)

 祓ったのか逃がしただけなのか。

 実際はどうだったのか、とても桐午たちには訊けない。

「どした」

 よほど思い詰めた顔をしていたのだろう。怪訝な顔で桐午が訊いてきた。

「……」

 紗一も、青い顔の楓を心配そうに見つめている。

「怪我でもしたのか?」

「……」

 桐午たちは、なんの疑問も抱いてないのだろうか。おかしいと僅かも感じないのだろうか。

(あたしが怨妖なんだって言ったら)

 きっと、祓われる。

 正体を告げたら、ここでいますぐ祓われてしまう。亨の無念がうやむやになってしまう。

 それだけは絶対に嫌だった。絶対に、隠し通さなければならない。

「どうした。なんだ。いまになって怖くなったのか?」

 屈んで覗き込んでくる桐午。その、まっすぐで(かげ)りのない淡い藤色の瞳。

 ああと、胸に落ちるものがあった。

 いまさらになって気がついた。

(桐午さん、〈色〉、戻ってない……)

〈色〉を奪った怨妖を逃がしたのだから、桐午にそれが戻るわけがないのだ。

 なのに、責めるでもなく楓のことを気にしてくる。楓が逃がしたせいで、〈色〉が戻らなかったというのに。

(あたしは亨さんだけじゃなくて)

 桐午の人生まで狂わせてしまったのだ。

 あんなにも心惹かれる絵を描くひとなのに。

(あたしのせいで、……!)

 そのとき、前触れもなくふわりと、脳裏に亨の笑顔が現れた。

 なにかを伝えようとしているのか、唇を動かしている。

 そうして、穏やかな眼差しで頷いてくる。

(な。いいの? でも、だって、亨さん)

 亨は、曇りのない笑顔を浮かべている。

 こちらを見つめる眼差しは優しい。

(亨さん、あたし)

 その選択は、亨を裏切ることになる。

 それでもいいのかと問うも、亨の優しい表情は変わらない。

 彼の無念と怨みを晴らすことができなくなる。怨妖の言い分を退けてまで貫いた怨みなのに。

 なんてすっきりとした朗らかな笑顔なんだろう。

(いやだよ)

 ―――できない。

 この怨みは、絶対に晴らす。その思いは変わらない。

 寂しさや恋しさで心が折れそうなとき、いつも自分を支えてくれた感情だった。この思いがあったからこそ生きてこれたのに。

 亨の笑顔が、大好きだった。亨の笑顔を、失いたくなかった。

 諦めたくなかった。手放したくない。

 命を懸けた思いだと思っている。

(でも……)

 亨の顔に重なって、藤色の瞳が言葉をなくす楓をじっと見つめている。

 隠しきれない。

 隠しちゃ、いけない。

「―――ごめんなさい」

「? どうした、いきなり」

「あたし、……―――あたし、あたし怨妖なの」

「……」

「……」

 突然の楓の告白に、桐午と紗一は動きを止める。

「……なんてった?」

 聞き取れなかったはずはないのに、紗一と目を合せ、桐午は訊き返してきた。

「怨妖なんですあたし」

 今度ははっきりとふたりの顔を見て答えた。

 桐午は、またも紗一に顔を向けた。

 次の動きは自分を祓う紋を描くものだと軽く身構えていると、

「ははァん、だからお前、ここにいるときいッつも怯えてたのか?」

 したり顔で、桐午は言った。

「え」

 目をぱちくりさせるのは、今度は楓のほうだった。

(知って、た、の……?)

 紗一に目を遣ると、頷きが返ってきた。

「あのな」

 桐午はしゃがんで楓と目の高さを合わせる。

「ちゃんと説明しなかったこっちも悪かったよ。けど。―――楓。お前は、怨妖じゃねェよ」

「でもあたし、あたし、ものすごくものすごく、どうしようもないくらいに怨んでるひとがいるんです」

「この世で一番残虐な目に遭わせて、助けをどれだけ請われても死んだほうがマシってな苦しみで(なぶ)り殺す、それでも足りないくらいに怨んでるヤツだろ」

「ええ」

「それは〝怨念〟で、怨妖になったってわけじゃないよ」

 神妙に頷いた楓に、紗一が言った。

「ど、どういうことなんですか?」

 怨妖では、ない?

「怨妖と怨念は、全然違うものなんだ。どれだけ深い怨みを抱いても、ひとは怨妖にはならない。なりたいと思っても、なれない」

「ならない……んですか」

 怨妖では、ない。

 優しく頷く紗一。

「怨念というのは、ひとの内側に生まれて、そのひと自身が抱えてゆくものだ。その怨念があまりにも強いと、まれに本人の許容範囲を超えてにじみ出てきてしまう。そういうにじみ出た怨念が集まって(あやかし)となったものが、怨妖なんだ。純粋な怨みという念でできているけど、その念しかないから逆に怨みをぶつける相手は存在しない。楓ちゃんは違うでしょ? 怨めしいと思う相手、ちゃんといるんでしょ?」

 弱々しく頷く楓に、紗一は続ける。

「楓ちゃんが、怨妖ではなく人間だからだよ。行き先のない怨念を抱くことは、ひとにはできない。それに、ひとがどん底まで深い怨念を持ってしまうってことは、言い方は変だけど、普通のことなんだ。喜びや悲しみと同じ。感情の動きのひとつだよ。もちろん、怨妖は怨念からできているから、ないほうがおれたちには楽なんだけど」

「誰も怨まないなんて綺麗事ができる人間なんざァいない」

 きっぱりと桐午はあとをつぐ。

「ひとってのは、いろんな軋轢(あつれき)があって揉まれて苦しんでくのが普通なんだ。『怨むな』とか『負の感情はいけないことだ』とか言う輩は掃いて捨てるほどいる。だけどよ、ンな莫迦なことあるか。喜びがあるから憎しみもある。悲しいこともあれば嬉しいこともある。なにかがあったときどう受け取るのかひとそれぞれ違うように、怨みも喜びもたんなるひとつの現象の表と裏でしかねェ。楓。お前は深い怨みを抱いちゃァいるが、それだけのことだ。怨妖とは違う。全然違う。お前はれっきとした人間サマだ」

 人間が―――自分が怨妖になるわけではない。

 自分が抱えているのは怨みの念。そして、怨みを抱いてはならない、というわけでもない、と。

 怨妖として祓われる心配なんて、最初からなかったのだ。

 怨みつらみを抱き続けるのを、軽蔑されると思っていた。

 ずっと張りつめていたなにかが、少しだけ緩んでゆく。

 背中を、とんと押された思いがした。

 楓は桐午と紗一、それぞれに眼差しを向けた。

「あたし……、ずっと怨妖なんだと思ってた。だから怨妖の模様も見えたし、さっきの怨妖も逃がしちゃったんだと」

「逃がしてなんてないよ。楓ちゃんは誰に教えられることもなく、ちゃんと怨妖を祓ったんだ。おれも桐午もずっと手こずってた相手をね」

「祓った……? あたし、本当に怨妖じゃなくて……」

 眩しく輝いた分解紋の光に消えていった怨妖。そのとき感じたじんわりとした心地よい痺れを思い出す。

 あの感覚は、怨妖を祓ったからこそのものなのかもしれない。

「だけど、桐午さんの〈色〉、戻ってないし」

 気まずそうに、桐午と紗一は視線を交わす。

「おれの〈色〉は、あいつを祓っても戻らないってのは、実は、判ってたんだ」

 確かに以前、そんなようなことを口にはしていたけれど。

「〈色〉を奪ったのはあいつだけど、持ってるのはお前だろ」

「あのとき、あのときあたしが花びらを食べちゃったから? 食べなかったら、桐午さん、〈色〉を取り戻せてたってことですか?」

 首を振る桐午。

「お前が喰わなかったら、きっとどこぞの誰かに踏み潰されてどうにかなってただろう。お前のせいじゃない。逆にお前のおかげで、〈色〉を見られるようになったんだ、ありがてェくらいさ」

 おそらく桐午は、楓が〈色〉を持っていると知った時点で、あの怨妖を祓っても〈色〉は戻ってこないと察したのだろう。

 申し訳がなかった。

「お前が紋を見れたのは、おれの〈色〉を持ってるからでもないし、ましてや怨妖だからでもない。三人目だからだ」

 紗一もはっきりと頷く。

「おれたちが怨妖の祓い方を敢えて教えなかったのは、楓ちゃんが真実三人目だったら、自然に身体が動くからなんだ。実際そうだったろ? 怨妖だからできたんじゃない。三人目だからできたんだ。でもそれが、かえって不安にさせてたんだったら悪かったよ」

「誰にも負けないくらいの怨念を持ってるのに?」

 祓う側が強い怨念を持ち続けるのは、矛盾にも思える。

「ああ。それでも三人目だ。怨念持ちだからって卑屈になるこたァねェ。怨念を抱いているからこそ生きていけるヤツもいるわけだし」

 楓自身を暗にほのめかして桐午は言った。

「ひとを怨んで生きるのは、いいことじゃないでしょう?」

「褒められることじゃないのは確かだろうよ。自分の怨念に負けてぼろぼろになって死んじまう奴もいるから、一応、そう教えられるわな」

「あたしは。この怨みが晴らせるのなら、命をなくしたって構わない。だって、―――あたしが……出会わせたんだもの。一番の元凶はあたしだもの。命と引き換えにしてでも八つ裂きにしてやりたい。そのくらいでないと、亨さんやお父っつぁんたちに申し訳がたたない」

「それでもいいと思うよ。世間では引かれるだろうけど、おれたちにとっては怨念にまみれてるほうが都合がいい、っていうのが本音だったりするんだ。怨みを抱いたことのないひとがいねとら組に入っても、怨妖に()てられやすくてすぐにダメになっちゃうから」

「これだけは言っておく。楓。強い怨みを持つのは構やしねェが、その怨念に負けさせるわけにゃいかねェ。そんなことァおれがさせねェ。必ず阻止してやる。怨みを晴らしたあと、自分の命に決着つけようなんて真似はすンじゃねェぞ」

 桐午たちの揺るぎない眼差しに、たったひとりで怨念を抱えていた寂しさが、ほろりと解けてゆく。

 楓の表情の変化に気付いたのか、桐午は早口になって続ける。

「お前はおれの〈色〉を持ってンだ。簡単に怨みに負けてもらっちゃァ困るんだよ」

「そう、ですよね」

 そうだ。自分は、桐午の〈色〉を持っている。命の期限を勝手に決めたら、桐午に〈色〉が戻らなくなる。

 詭弁かもしれない。こじつけかもしれない。それでも、必要とされていることが、命綱にすら思えた。

「考えようによっては、楓ちゃんが怨みを晴らす時間を、いねとら組が保証したってことかもね。怨みを晴らして気が済んだら、ここを辞めればいいんだし」

「辞めることが、できるんですか?」

 紗一はさも当然のことのように頷いて見せた。

「実際辞めて、普通にあしはらの住人に戻っていったひとはたくさんいるよ。ほら。桐午がいまとりかかってる縁起絵」

「はい」

 なんとかという神社の宮司だと言っていた。

「あれを頼んだのも元仲間なんだ。楓ちゃんも、怨みと折り合いがついたとかで辞めたいと強く思うようになったら、いねとら組を辞めて、普通のあしはらの住人のひとりに戻ればいいんだ」

 怨みを晴らすことができるまで。

 怨妖を祓う存在のふたりから、怨みを抱き続けてもいいと太鼓判を押されるとは思わなかった。

「おい紗一」

 不機嫌そうな声で桐午は紗一を振り仰ぐ。

「あんまそそのかすなよ。せっかく久しぶりに三人揃ったわけだし。てかおれの〈色〉を持ってンだ。勝手に怨み晴らされて、ハイそれじゃ退散します、ってなったらおれが困るだろが」

「それはまぁ……、でも楓ちゃんの事情もあるだろうし」

「そらそうだけど。―――で、どうする」

 くいっと桐午は楓に首を向ける。

「どうする、っていうと?」

「お前は正真正銘いねとら組の三人目だ。こっちに移る気はあるか」

「澤野やではなく……?」

「ああ」

 一番最初にいねとら組三人目疑惑が持ち上がったとき、紗一が言っていた。怨妖に狙われやすいこともあって、いねとら組の者はここで暮らすのだ、と。

 もう自分は怨妖でないと判ったのだから、ここで暮らしたとしても祓われる心配はなくなった。

(でも)

 若い男ふたりの中に飛び込むのには抵抗がある。桐午は置いておいて、紗一は物腰も優しいし、ヘンなことを無理強いはしないだろうけれど。

 たとえこの世にいないとしても、亨はいい顔をしないだろう。

 亨を裏切る真似はしたくなかったし、養父母を心配させたくもなかった。

 なにより、澤野やを、ふたりだけにはさせたくなかった。

「澤野やに、帰れるのなら、あたし」

 じっと答えを待つ桐午と紗一の視線を受けながら、楓はふたりを見た。

「あたし。澤野やに帰りたい。亨さんがいなくなったからこそ、あたし、澤野やにいなくちゃいけないんです」

 跡取りだった亨が死んでしまったから、辰吉たちには楓しかいない。婿を取り、澤野やを継いでゆくのが、愛情をこめて育ててくれた辰吉たちへの恩返しだ。いねとら組三人目以前に、楓は既に澤野やの跡取りなのだ。

「ん。じゃァ、そうすればいい」

「え。桐午!? だっておれたちは」

 声を裏返らせた紗一に桐午はひとつ頷くと、なにもかも初めから判っていたように、表情を和らげた。

「楓。さっき紗一も言った、怨みを晴らす時間を保証するって意味、判るか?」

 ふるふると首を振る楓。よく判らなくて聞き流してしまったけれど。

「これが一番みんなを苦しめるんだが、おれたちいねとら組の者は、時間から切り離されてる。ひと言でいうと、年を取らない」

「年を、取らない……?」

 いまいちピンとこない。

 ひとつ頷く桐午。

「初めて怨妖を祓った瞬間に、よく判らんがそうなっちまうらしい」

「じゃあ、あたし、もう?」

「ああ。老いることがない。望むと望まざるにかかわらず、もうそのまんまだ」

 そう言われるも、正直なところ簡単には信じられない。

 年を取らなくなっただなんて、それこそ伝承や黄表紙の中でしか聞いたことがなかった。まさか自分の身に起こるだなんて、現実にはありえないと思っていたから、頭がついてこない。

 嘘をつかれているわけではないのだろうけれど、

(……。全然、実感わかないんだけど)

 たとえばいったん熱が出るとか眠りにつくとかすれば、そうなのかなと思えるのかもしれないが。

 不思議そうにしている楓の頭の中を読んだのか、桐午は言う。

「いまはまだ実感わかないのも当然だし、影響なんてないようなモンだ。だがな、いずれは(ひず)みが出てくるようになる」

「歪み……?」

「家族や友人たちばかりが年齢を重ねる一方で、自分だけがそのままの姿で年を取らない。近しい者が年を重ねて寿命を迎えても、子供や孫が寿命を迎えても、ひとり自分だけが若いまま取り残されてく」

 そういう内容の黄表紙を読んだことがある。主人公はどうしようもない孤独に陥って、たったひとり苦しんで、最後は深い洞窟に姿を隠したという話だった。

 自分も、そうなるのか。

 辰吉やお佐和が老いていつか亡くなっても、迎えた婿が年を取っていっても、産んだ子が大きくなって澤野やを継いで孫が生まれても、―――自分だけがいまのまま、十九歳の姿のまま変わらずに取り残されてゆく、と?

「……」

 現実として受け止めるにはあまりにも途方もない話だったが、将来に待ち受けている事態を思うと、うっすらとした恐れが胸の底に滴り落ちてゆく。

 楓の気持ちを思いやってくれているのか、そっと紗一は言う。

「おれたちがここにいるのは、時間から取り残されているから、っていうのもあるんだ。世間と接すれば接するほど、置いて行かれる自分を突きつけられる。こればっかりは、いまでもきついと感じる。家族が待ってくれてるのは判るけど、澤野やに戻れば、そのぶん別れがつらくなるよ。別れは必ずやってくるから」

「別れ、って」

「紗一の言うとおり、厳しいようだがそれが現実だ。でもまァ、どうすることもできなくなるまでは、澤野やの跡取りとして本分を貫いて生きていけばいいさ。怨みを晴らしたあとに〝澤野やの楓〟を選ぶのなら、まァなんだ。おれは困るがそれも仕方のないこった。辞めれば時間も戻ってくる。ここを辞めてったヤツらも、年を取らないことに疲れたってのがほとんどだし。―――っても、できることならおれの〈色〉を持ってるわけだから、『いますぐ辞めます』ってのは勘弁してもらいたいんだけど」

「……はい」

「ん」

 ごくごく自然な動きで、桐午は楓の(まぶた)にかかっていた髪をそっと外した。

 当たり前のようなその仕草に、どくんと鼓動が大きく跳ねた。

 頭が、停止する。

「今後のことはじっくり考えていけばいい。言葉どおり考える時間は腐るほどある。お前の好きにしたらいい」

 桐午は、自分がいまなにをしたのか気付いていないのか平然としたものだった。はたで見ていた紗一のほうが、ぎょっとしている。

「あああの。あたしが澤野やに戻るとみんなに迷惑がかかるって前言われたんですけど、まわりのみんなが怨妖に狙われるって桐午さん言ってたじゃないですか。大丈夫なんですか、そのことは」

 狼狽を誤魔化すように訊いた楓の言葉に、桐午の頬がぴくりと引きつった。

「あぁ、それは」

「大丈夫だ。ちゃんと対策は考えてあるから」

 紗一の言葉尻に、桐午は畳みかける。

「対策? そう、なんですか?」

 どんな対策なのだろう。三人目となったことで、いままでできなかったなにかに対応できるようになった、とか?

「いままで無事に過ごせたのも、もしかしてなにか対策をしてくれてたんですか?」

「ん。いや、まぁ、なんだ。そういうことかな」

 歯切れが悪い。

 桐午は立ち上がって、がしがしと頭を掻く。どういうわけか紗一を睨んでいた。紗一は紗一で、とぼけた顔を返している。

「楓。今日はお前、なんだ。もう帰りな」

「え? 縁起絵は?」

「今日はいい。別のを描くからよ」

「別の絵、にも、〈色〉がいるんじゃないですか?」

 新たな依頼を受けていたのだろうか。聞いてはいないけれど、それでも〈色〉は必要なはずだ。

「白黒での付き合いのほうが長いからいい」

「はぁ……?」

(付き合い?)

 内心首を傾げる楓。

「また明日迎えに行く。今日はたっぷり飯食って存分に寝て、身体を休めてろ。自覚ないだろうが、身体にゃかなりの負担がかかってるからな」

 言って、桐午は逃げるように書斎へと去っていった。

 その背中をぼんやり眺めながら、楓はいま聞いたばかりの言葉を反芻する。

 俺様(オレサマ)な桐午が『身体を休めろ』発言するとは。

 だが、怨妖と戦っている最中、彼はことあるごとに気遣ってくれていた。なんやかんや言いつつも、根はいいヤツなのかもしれない。いきなり髪を直されたのには、びっくりしたけれど。

「桐午の言うとおりだよ」

 つい呆けてしまった楓に、紗一は言う。

「身体はすごく疲れてるはずだから。初めて怨妖を祓ったわけだし。今日はもう休んだほうがいい」

「紗一さんたちは大丈夫なんですか?」

「おれたちは慣れてるからね」

 ひょいと肩をすくめる。

 だから桐午は当たり前のように絵を描こうとしているのか。

 訊くと、

「桐午は祓った怨妖を絵に残してるんだ。おれがいねとら組に入ったときには既にそうだったから、少なくとも三十年はそうしてる。慣れたもんだよ、心配いらない」

「……。―――さ、三十年ッ!?」

(なにそのあたしの人生よりも長い時間!)

 自分が生きてきた時間の倍近くもあるその数字を、思わず聞き流すところだった。

「三十年って、だって紗一さんも桐午さんもそんな年には―――ああ、そっか年を取らないって言ってましたっけ」

 ふたりとも、どう頑張って見ても三十代前半だ。色素がないぶん、桐午は年齢不詳にも見えるけれど。

「ははは。一応、永遠の二十五歳のつもりなんで、あんまり突っ込まないでね」

「あ……、はい……」

 と返事をしてみたものの、やはり頭がついてこないのが正直なところだった。

 紗一は乾いた笑いで返していたけれど、きっとそう言えるまでに乗り越えるものがあったのだろう。

 本当に、年を取らないのだ。

(あたしに、できるんだろうか)

 目の前に開かれた永遠の時間は、桐午たちが言うように、抱き続けていた怨みを晴らすには必要なものだ。何十年かかろうと仇を討つ覚悟だったから、こうなったことはある意味、渡りに舟。悪いことばかりではない、はず。

(永遠の時間、か……)

 桐午は前に、八十までは年齢を数えていたと言っていたけれど、冗談ではなかったのかもしれない。

(……)

 紗一は永遠の二十五歳に三十年ほどを足した年だとしても、桐午はいったい幾つなのか。

(なんか、考えたくないんだけど)

 百年二百年も生きていたのだとしたら、それはそれでほとんど妖怪だ。

(あ、でも、妖怪みたいに鬱陶しいときはあるか)

 書斎に戻る途中の、足で池のほとりの石を(なら)している桐午をちらりと視界に入れる。

 いったいどれくらいの時間を彼は過ごしてきたのだろう。

 楓の知らない時間を生きていた桐午。彼の上を流れていった時間の途方もなさは、全然、想像もつかない。

「祓った怨妖を描くって、供養とかそういう意味なんでしょうか」

「おれも最初はそうなのかなって思ってたけど、違うみたい。描かずにはいられないんだって。ずっと昔言ってた。ネタになるんだって」

「ネタ、ですか」

(どんなすごい理由があるかと思ったら、なんて現実的な)

 けれど、桐午らしいと言えば桐午らしい。依頼されていた縁起絵に描かれていた妖怪の姿は、もしかするとそうやって描きためた怨妖の姿なのかもしれない。

「一応あれでも絵師だからね。一時はそれなりに名前も売れてたらしいし」

「やっぱり、そうなんですか」

「やっぱり?」

「桐午さんの絵、すごく魅力があって素敵なんですもん。―――あ。本人には言わないでくださいね」

 もちろんだとも、と紗一は請け合い、彼もまた桐午に目を遣る。

「描くことは、あいつの根幹なんだろう」

 頷く楓。

 そばで見ていたから、判る。

 桐午は絵を描くのが好きで、きっと息をするのと同じくらい、描くことは彼自身の一部なのだろう。

 そんな桐午の〈色〉を宿している自分。

 誰もが当たり前に持っているのに、他人と触れ合わなければ見られない〈色〉。

 色が見えないのは、絵師にとっては致命的だ。(かつ)えるほどに求める気持ちも判らないでもない。

 肌と肌が触れている間だけ見られる桐午の〈色〉。

 唇を合わせることで、はっきりと識別できる〈色〉。

 彼の、唇。

 滑らかであたたかく、強引だけれど優しい。

 唇が離れたときの、桐午の愛しげな表情―――。

(! ちょ、やだって!)

 いきなり脳裏によみがえった桐午との接吻に、顔に血が上ってしまった。

 それに気付いたのかどうか。

「楓ちゃんの怨みが晴らせたらさ」

 紗一はさりげなく言う。

「桐午のこと、ちょっとだけでも考えてやってよ」

「―――えと、……え!?」

「亨さん、ってひとの次くらいでいいからさ。なんたって桐午は」

「さァーいちぃぃー!」

 いまだ池のほとりにいた桐午が、怖い顔をしてこちらを()めつけている。

「ぐだぐだなに喋ってンだァ!? 楓も! ぼやぼやしてないでさっさと澤野やに帰れっての!」

「うひゃー。地獄耳……」

「なんか言ったか、オラ」

「いや。きっと気のせい」

 へらりと笑みを顔に貼り付ける紗一。そんなふたりのもとに、大股で桐午が戻って来る。

「? どうしたんですか?」

 桐午は不機嫌そうな顔で、楓をじっと見た。

「ふたりでひそひそしてンな。オラ、行くぞ」

「行く?」

「澤野やまで送ってってやる」

 楓は目を(しばたた)かせた。

「送ってって、絵はいいんですか?」

「お前が途中で倒れでもしたら、こっちが困る。澤野やから帰ったら描けばいい」

「あの。だったら、紗一さんに送ってもらいます。紗一さんさえよければですけど……」

 楓の言葉の途中、ぎろりと下から紗一を睨む桐午。その視線を受け、

「うん、おれ全然用事ないし、送ってくよ?」

 笑顔で答える紗一。もちろんわざとだと桐午には判っている。楓に気付かれないよう更に睨みに凄みを利かせると、

「―――と言いたいんだけど、これからひとと会うことになってるんだ。ごめんね、楓ちゃん」

 全然(こた)えた様子もない声で返す。

「そうだったんですか。……じゃあ、桐午さんにお願いしようか、な」

『じゃあ』とはなんだと息巻く桐午をよそに、なんとなく釈然としない楓だった。




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