五
屋敷から送ってもらうのはいつものことだけれど、桐午とふたり並んで歩くのは、なんだか気恥ずかしかった。怨妖を祓ったばかりの楓の体調を心配して、桐午が足の運びを緩めてくれているせいもあるかもしれない。
と、習い事に行く途中なのだろうか、楓と同じくらいの年ごろの娘たちとすれ違う。
(……、……?)
違和感があった。
いつもなら、誰かひとりは髷を結わない楓の髪型に気付いて視線を寄越してくるのだが、彼女たちはこちらに一切関心を示さなかった。
『おれたちは、ひとの記憶にも意識にも残らない存在だ』
以前桐午が言っていた言葉が脳裏によみがえる。
(まさか。―――そういう、こと……?)
辻をこちらへと曲がってきた別の女がいた。彼女は楓よりもずいぶん年上だったが、きっちり結わえられた髷に挿した簪や華やかな帯留めから、見た目をそれなりに気にするひとだと見た。
その女を、じっと楓は見つめる。
視線を感じたように彼女はふとこちらを見た。が、道端の小枝を認めただけのようなつれない視線があっただけで、楓の髪型に―――いや、楓本人に目を留めようともしない。
(なにこれ)
足が、ゆるゆると止まる。
(認識されないって言ってた……けど……)
これが。
もう?
身震いがした。
これがそうなのか。
誰にも認識されない、いねとら組の三人目となった自分。
(本当に?)
誰の目も、自分を素通りしてゆく。
(待って。あたしここにいるじゃない)
自分の持っていたすべての絆が千切れてゆく。
ここは、どこ。
自分は、どこにいる?
こんな、―――こんな突き放された世界でこれから生きていけと? 誰からも気付いてもらえず、時間からも切り離されて?
「どうした。冴えない顔して」
立ち尽くす楓に、数歩先の桐午が怪訝に訊いてきた。
自分へとかけられた声に、はからずもほっとなる。
こんなので、やっていけるのだろうか。
年も取らず、誰の目も素通りする自分。
「いねとら組になると誰にも気付いてもらえないって、前に、桐午さん言ってましたよね」
「ああ」
「もう、……そうなんですね」
通り過ぎて行った女の背中を見つめる楓に、桐午は悟ったようだ。
「だな。怨妖を祓ったときから、すべて始まる」
「あたし……、あたしのこと、お父っつぁんやおっ母さん、判ってくれるんでしょうか。澤野やに戻っても、いないように振る舞われたら? お客さんにも気付いてもらえなくて、お店に出られなくなっちゃったら」
見ず知らずの通りすがりのひとにさえこんなにも不安を覚えるのだ。養父母から他人行儀な態度を取られてしまったらどうなってしまうのか。
恐ろしさで、身動きができない。
拒絶を受け入れられる自信なんて、まったくない。
ゆっくりとした足取りで桐午はこちらに歩み寄り、じっと楓を見つめる。
その、揺るぎのないまっすぐな眼差し。
「心配しなくていい。辰吉っつぁんたちは家族だろう? 最初は確かに神経遣うかもしれんが、すぐに気にならなくなる。お前が家族を大切に思ってンなら、ちゃんと向こうも応えてくれる。大丈夫だ。店のことも、いままでどおりでいい。相手のことを胸のど真ん中で思ってれば、向こうもこっちを見てくれる。いままでどおり、そのままでいればいい」
励ますように、そっと頭に桐午の手が乗せられる。
前は『覚悟しろ』と誰にも気付いてもらえない孤独を脅されたが、さすがに今日は、優しい言葉をかけてくれるらしい。
いままでどおりでいい。相手のことを胸のど真ん中で思っていればいいという桐午の言葉は、不安と恐れで冷たく凝り固まってしまった心にすとんと落ちて、あたたかなものを生んだ。
不覚にも無防備に桐午を見つめてしまう楓。その眼差しにはっと我に返ったのか、桐午はくるりと背を向けた。
「気にしすぎなんだっての」
ぶっきらぼうな声だったけれど、彼のこの言葉は、もしかすると桐午自身がかつて感じたことなのかもしれない。
「いままでどおりで、いいんですね」
「おうよ。いつもどおり『ただいまー』って言えばいいだけだ。気負う必要なんてねェ。ほれ。行くぞ」
桐午はすたすたと歩きだした。広い背中だった。
いつかは自分も、桐午のようにさらりと『いままでどおりでいい』と思える日が来るのだろうか。
―――来て欲しい、と強く願う。
願えるようになっていた。
いままでは、先のことなんて考えられなかった。
ただ、怨みを抱えているばかりだった。
怨みを晴らし、その先まで長い時間は続くとしても、楓には関係のない時の流れでしかなかった。本懐を遂げて己の命を絶つことになっても構わないとすら思っていたのに。
いつかは、乗り越えられるといい。紗一や、桐午のように。
(……そうだ)
訊こう訊こうと思いつつも機会がなくて訊けなかったことを思い出し、楓は桐午の隣に並んだ。
「ねえ桐午さん。いねとら組って、どうして『いねとら』なんですか? 『怨妖駆除隊』とかのほうが判りやすいと思うんですけど」
一瞬おいて、ぶふっと桐午は噴きだした。
「『駆除隊』って、お前、害虫扱いかよ」
「例えばで言っただけですってば」
笑わなくてもいいのに。口を尖らせると、桐午は楓の顔に人差し指を向ける。
「お前、猪突猛進な亥年だろ?」
「……。はい」
(猪突猛進は余計なんですけど)
というムッとした後半部分は言わないでおく。
「そういうこった」
「……。はい?」
(そういうこった、って)
桐午はそれ以上の説明をする気はなさそうだった。仕方がないから、言われた言葉の意味を頭の中で考える。
(あたしが亥年なのが、なんなわけ?)
桐午が発した『猪突猛進』という言葉から、ふと、三人目疑惑が持ち上がった際、何故か桐午から干支を訊かれたことを思い出した。
はっとした。
「もしかして干支? 干支なんですか? 亥年と、子年と、寅年で、亥子寅……!?」
「そ。どういうわけかその三つの干支の奴ばかり選ばれるんだ」
納得とも拍子抜けとも言えない吐息が出た。
「昔は違う名前だったらしいけど、本来の名前は、おれも知らん」
なんという短絡的な。とはいえ、長く続いていると、あだ名がついたり呼びやすい名前が定着したりと、そうなってしまうのかもしれない。
「確かに桐午さん、寅って感じしますもんね。態度は大きいし、お酒呑んだら暴れそうだし……、? て。―――え?」
桐午はそれとなく明後日のほうに視線をそらし、楓の話に腹を立てるどころか相槌を打とうともしない。
もしかして。
「桐午さん、ネズミだとか……?」
「……。……それがどうした」
不機嫌そうな声。
「ええええーッ! 意外ッ、ネズミだなんて桐午さんが!?」
「黙れっての」
「ネズミ年! そーなんですか? ホントに? そんな大きな身体してるのに、イノシシよりも小っちゃいネズミ! へぇぇ!」
「……。―――やっと笑ったな」
いきなり、そんな声がかけられた。
「作りもんじゃないお前の笑顔、初めて見た」
そう、桐午が破壊力満載な微笑みを見せるものだから。
胸の底がざわついて、かくりと膝から力が抜けた。
咄嗟に手首を摑まれる。
「ほらみろ。だから身体は本調子じゃないんだって言ったろが」
「……」
桐午の浮かべた柔らかな表情に、気持ちが振りきれるほどに揺さぶられている。
男のひとの顔に、見えただなんて。
(どうしよう、やだ)
どきどきしてる。
(なんで。なんで)
桐午の存在は、亨とは違う甘やかなものを楓の胸に燈らせていた。
愛しい亨。
亨の存在はいつだって胸の内にある。彼から生まれた怨めしい思いも、変わらずある。
いままで楓を支え、そうしてこれからも支えてくれるだろう確固とした信念のようなものだ。
ただ、桐午が楓の胸に植えつけた柔らかなものが、怨めしい思いも含めて亨のことすべてを、穏やかにそっと守るように包み込んでいるのも確かで。
(あたし……?)
一歩引いた場所で亨のことを思えるようになっていることに、楓は気付いてしまう。
「……と、桐午さんと初めて会ったときも、こんな感じでしたよね」
気持ちの変化を悟られたくなかったから、急いで別の話題を探した。
「そうだな。お前、まわり見てねェからぶつかって来やがったよな」
「イノシシがネズミに」
「はいはい。そうでございますよ」
「あのとき、あたしだけが桐午さんに抵抗してた。お父っつぁんたちはなんの疑問もなく桐午さんに接してたのに、あたしだけ、……本当のこと言うと、身売りされたんじゃないかって、すごく不安だった。でもそれって」
「もうそのとき既に、お前は三人目だった、ってことなのかもしれんな」
不思議だった。
あのときはまだ、怨妖を見たこともなければもちろん紋も解いてなかったのに。
楓だけが、桐午たちを―――桐午を認識していた。
いつから、縁が繋がっていたのだろう。
「桐午さんに会えなかったらあたし、……あたしきっといまもひとりで根暗に怨念を抱えながら、『いらっしゃいませ』って言ってたんでしょうね」
「根暗な怨念抱えてンのは、いまも全然変わっちゃねェだろが」
歩き出しながら桐午。
「澤野やで『いらっしゃいませー』って言うのだって、これからもそうなんだし。なんも変わらねェと思うけど、―――その言いっぷりからすると、なーんか思うことはあったってことか」
「ん。根暗な怨念持ちから、普通の怨念持ちになった、みたいな」
「なんだそりゃ。ってェことは、おれの〈色〉が根暗に毒されて腐っちまうところだったってか」
「かも、しれないですね」
怨念が〈色〉にどう影響するのかなんて判らない。判らないけれど、もしも本当に怨念に侵されて、桐午が見られる〈色〉のある世界がくすんだものになってしまったのなら、申し訳ないと思わないでもない。
「間に合った、ってことですよね。〈色〉もあたしも、腐らずに済んで。出会えて、よかったって、ことなんですよね」
桐午は小憎たらしい男だけれど、彼との出会いには、意味があったのかもしれない。もしかすると、亨が空の向こうで仕組んだことだったのかもとすら思える。
無理やりに意味を持たせたがっているだけなのかもしれないけれど。
沈黙のあと、桐午は口を開いた。
「怨みを捨てろとは言わねェけどさ、亨もよ、お前の笑顔が曇るのはイヤなんじゃないの?」
ためらいを見せながらの言葉は、亨への思いやりを窺わせる。
「惚れた女には、やっぱずっと笑っててもらいてェじゃねェか」
「笑顔にこにこで昏い怨念晴らすのって、それはそれでちょっと怖い気がしません?」
「お前知らねェだろうが、それを普通ゥにやっちまうのが紗一だったりするんだぜ」
「―――え」
素で驚いてしまった。
朗らかで陽気な紗一が?
「紗一さんも、怨念を抱いていた、ってことですか……?」
怨念を抱いていて、そうしてそれを晴らした、と?
いねとら組の人間には、怨念があったほうがいいと言ってはいたけれど。
信じられない。まさか、あの紗一が。
頷く桐午。
「ああ。穏やか~な顔してるだろ。けど、怒らせたらあいつが一ッ番恐ろしいんだ。よく覚えとけよ。もういねとら組の一員なンだからな」
「……」
じん、と胸が熱くなった。
『いねとら組の一員なンだからな』
言った本人はそれほど深い意味もなく発言したのだろう。
『いねとら組の一員なンだ』
けれど楓にとっては、新しい居場所を与えられて、それを確かなものにする、道を拓く言葉でもあった。
両親を失い、養女として澤野やにやって来た。許婚の亨を亡くし、ひとり怨念を抱えて生きてきた。澤野やの看板娘と言われてはいるけれど、本当はどこか、根無し草のような覚束なさを心の底で感じていた。そんな中、出会った桐午と紗一。いねとら組のふたり。
道はまだ、先へと続いている。
ここにいていいのだ、と。
必要とされているのだ、と。
「あたし。怨念にまみれてるから、あとはもう地獄で鬼に責め立てられるだけなんだって、思ってたの。まっとうに生きてても、地獄に堕ちるしかないんだって」
「それでも怨みを捨てるなんざできやしねェンだろ」
「ん」
がしがしと、桐午の手が楓の頭を掻きまわす。
「ちょッ、桐午さんやめてくださいよ」
睨み上げると、
「そうならないよう、ひとつでも多く怨妖を祓ってけばいい。それが怨念にまみれたおれたちへの、唯一の赦免状だ」
「赦免状……」
澄みきった藤色の瞳がそこにはあった。
桐午も、深い怨念を抱いていた―――もしくはいまも抱いているのだろうか。
誰に対して? なにがあって?
(あの水茶屋のひとが絡んでるとか……?)
桐午の表情は晴れやかで、まっすぐで、揺るぎがない。
「そうだ。いいか、楓。いねとら組の一員たる者が、怨念に呑まれたりしたら恥以外のなにもンでもねェからな。腐りすぎて、おれの〈色〉を曇らせンじゃねェぞ」
照れ隠しかもしれない。どこか芝居がかったもの言いだった。
「桐午さんが意地悪したら、判りませんけど」
「ンだそれ」
頬が甘く緩み、ふふふと自然に笑みがこぼれた。桐午も表情を和ませ、また楓の頭を掻きまわす。
「だから。崩れるからやめてくださいって言ったじゃないですか!」
「髷結ってるわけでもなし。ただ後ろで結んでるだけじゃねェかよ」
「なに言うんです、こう見えて手間かかってるんですからねッ」
「けッ」
「『けッ』って。ちょっと『けッ』って言いました、いま!?」
「おまッ、袖をそんな引っ張るなっての! ―――って、おい口吸うぞオラ!」
「ちょっ、やめてよ変態助平オヤジ!」
「ッ!? 聞き捨てならん発言しやがって」
「いやーッ」
駆けだす楓の足音が町に響く。直後に盛大に転んだ音も。桐午がなにかを言い、楓がぎゃあぎゃあとわめいている。
まわりの人々は彼らになんの関心も抱かず、何事もなく平穏に時を過ごしている。
楓たちが騒ぎながら通り過ぎた水茶屋の表の床几に、老人がのほほんと腰を下ろしている。その老人の吐き出す煙管の煙が、空に立ちのぼる。
空は眩しい青色だった。ところどころに浮かんでいる雲の影が、もうすぐ夏がやってくる気配を見せていた。
その空の向こうで亨が苦笑している。
そんな気が、楓にはしたのだった。
了




