三
楓の殊勝な決意も虚しく、怨妖に対峙する桐午の手を摑み続けるのは、容易なことではなかった。怨妖の動きを追う桐午についてゆくのに精一杯で、手は何度も外れそうになる。
背びれの内側にある拘束紋は、どれだけ紋を描いて消していっても次々と現れてくる。紋自体が小さいためか拘束する力は弱いらしく、なかなか怨妖を抑えることができない。
それだけではなかった。
(どうしよう)
桐午が、苦戦している。
動き続ける怨妖の色を識別するというのは、絵を描くときとはまったく勝手が違うのだろう。
複数の濃い色が組み合わさってできている拘束紋。紋の模様は見えても、楓には紋本体がどの部分で何色が地なのかが理解できない。それを読み取り紋を描く桐午だったが、どうも解読に苦労しているらしい。何度も目を眇め、紋を描いても違っていたのか怨妖へと吸い込まれていかない。無意識にしているのだろう舌打ちも、何度も続けばさすがの楓にも判る。
(手を繋ぐよりも唇を触れ合わすほうがはっきり〈色〉が見れるとか……?)
口を吸った直後の桐午は、もっと素早く、ためらいもせずに指を動かしていた。
けれど、いまの桐午の動きには、あきらかに迷いがある。
「亨のことはどうでもいいのかあ」
「!」
吠える怨妖に、心の臓が冷える。耳を傾ける価値はないと判ってはいても、亨の名を吠えられるたびに慄然となってしまう。
「我を逃がせ。逃がせば亨の怨み、晴らそうぞ晴らそうぞぉ」
拘束紋をその身に受けているせいか、怨妖は逃げ去ることなく庭をめぐるばかり。自分を揺さぶって逃げ道を作ろうとしているのだと頭では判るのだが、怨妖の言葉は、―――とても甘美だ。
「我を逃がせ。我がおかよを殺してやろう。竹蔵も喜助も殺してやろう。お前の望む一番残酷な目に遭わせてやろうぞぉ」
(だめよ。聞いちゃダメ……!)
怨妖の言葉にいちいち翻弄されてしまうのは、自分が同じ怨妖で昏い怨念を抱いているせいなのか。
『怨妖の言い分なんざ聞いてんじゃねェ』という桐午の言葉を懸命に胸の内で繰り返す。
「我を逃がせ。殺してやるからこやつらを止めておくれよォ」
この怨妖は自分を惑わそうとしているだけ。逃げるために利用しようとしているだけ。
「さあ楓よ。早く我を解放しておくれぇ」
怨妖の言葉を聞いていては、今度こそ桐午に怪我をさせるかもしれない。
(怪我させちゃ……)
怪我をさせるわけにはいかない。けれどそんな意思に反して、儚い骸となった亨の姿が唐突に脳裏によみがえる。
「早うこやつらを止めよ。我を逃がせ。さすれば、お前の目の前でおかよの骸を切り刻んでみせようぞぉ」
脳裏によみがえった骸に重なる、怨妖の叫び。
揺さぶられた感情が、ふらりと傾きそうになる。
「―――ちッ」
また、桐午が舌打ちをした。
楓の目に、庭を泳ぐ巨大な魚が戻ってくる。
桐午の舌打ちの音がするりと楓の頭に入り込んだおかげで、危ういところで思いを踏みとどまらせることができた。
目の前では、喘ぐ怨妖に桐午が何度目かの拘束紋を宙に描いている。
「楓よおぉ。我を逃がすのだぁ」
桐午から〈色〉を奪い、幾度も逃げおおせているという怨妖。
逃げたいがため、亨が怨めしいと一瞬でも混乱させた怨妖。
こんな身勝手な怨妖に、自分の大切な気持ちを託してもいいのか。代わりに怨みを晴らすと言うが、嘘をつかれているだけではないのか。
信用に値するのか。怨妖に秩序などないと以前桐午は言っていた。信用した途端、あっさり裏切られるかもしれない。
まったくの他者であるこの怨妖に、本当におかよたちを苦しめてもらいたいのか。
怨妖の力を借りて怨みを晴らして、―――それで本当に気持ちは軽くなるのだろうか?
自分に問うと、答えはすぐ出た。
否、だ。
自分自身が手を下さなければ意味がない。
これは、自分が対峙をしなければならないことだ。
そうでなければ、一生気持ちが晴れることなんてない。むしろ、激しい悔いばかりが残ってしまう。
なんのために、自分は怨妖に成り下がったのか。
(―――あたしの怨みは、あたしがこの手で晴らす)
怨妖の言葉に惑わされてはだめ。
この怨みは、誰にも邪魔されたくない。
亨の無念を晴らすのは、自分しかいないのだ。
(そうよ。あんたさえ出てこなきゃ、桐午さんに唇を差し出さなくても済んだのに。亨さんを裏切るようなことさせてるのは、あんたなんだからねッ!)
きっとふたつ頭の怨妖を睨みつけ、覚悟を決めて桐午の腕を引き寄せたときだった。
突然、身体の内奥から強く沸き起こるものがあった。
痛いほどに熱く、強烈な衝動がこみ上げてくる。
(なに、これ)
制御できない。抑えられない。
引かれるように、怨妖にへと視線が流れる。
背びれの拘束紋に、強く呼ばれている。
呼ばれて―――。
喉の奥から、熱い衝動がかけ上がる。
その衝動は、声となってほとばしった。
「黒の路地 枯葉咲く紺の館 あまねく折り重なる 押し潰された水晶のかけら 時鐘の響き 長きにわたる 浮かぶ鳥を夢見て 選りたる笹の葉 闇の寝床 誰ぞ常ならんとや 満つる波の雪化粧 頬に枯れたる雀の群れ 秋刀魚が食べたい秋刀魚が食べたい」
自分の声とは思えないくらい、太くてまっすぐ透った声だった。
声を発した本人もなんなのかまったく理解のできない言葉の並びに、しかし怨妖の背に沿って並ぶたくさんの拘束紋は光を放ちだした。光を帯びていない紋はひとつもなく、怨妖は苦しそうに喘ぎながらも、ぴたりと動きを止めた。
その、大きく開いたそれぞれの口の中。赤黒い闇を湛えた喉の奥に、ぼんやりと新たな紋が現れた。
「分解紋……」
紗一の呟きを聞くまでもなく、楓には判っていた。直感―――本能のようなものか。この紋を解けば、怨妖は分解されてゆく。
分解紋はまだはっきりとは浮かび上がっていない。紗一や桐午は、だから紋を描くことができないのだけれど。
身体の芯からあふれだす熱い衝動はとどまることを知らない。怨妖の顔の前へと、足は動いていた。
「揚げる欄間 緑の蝶 そよぐ声を聞き 深い水と星の夜 道行き風降る たすき掛ける艶めかし 数え歌の走るそば 消えゆく影を追い 問い詰める石の黄昏 こぼれた岩礁 遊びにて 寄せば返する大銀杏 待ちびときたらず」
楓がほとばしらせた言葉は、怨妖のふたつの喉へと吸い込まれてゆく。
喉の奥にある分解紋が光を帯びだす。言葉が重ねられるごとその光は紋を辿り、闇に隠れていた部分をも暴き出してゆく。
「戸を開けよ 張り手なるか 霞に燃える蜩 吠える獣を転げ 千なるかな万なるかな 氷を歩み 輝ける檜扇 叩きつけ 祭りに火に降りきたる 三本目の山間 隠れならんとす 刈り取らんとす 狐火追いかけ さまよえる宙を割れ 空を行く鳥を追う 閉じたる木目込み 足音の揺らめき 岩陰の岸辺にかかる雲 秋刀魚が食べたい秋刀魚が食べたい」
楓の声によって怨妖のふたつの喉にある分解紋があぶりだされ、眩しく輝きだした。
「―――!」
強い風のうねりにも似た悲鳴をあげる怨妖の身体が、分解紋を起点にしてわなないた。
そうしてそのまま激しい光に呑まれ、光はきらきらとした細かなものとなって広い大きな池の中へと降り注ぎ―――そうして、すべてが消え去っていった。




