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        二




 ぱぁん! と大きな音を立てて桐午が、怨妖を挟んだ向こう側で紗一が同時に柏手を打った。

 鋭いその音はあまりにも清涼で、たったそれだけで禍々しさが薄らいだ気がする。

「かけまくもかしこき たかあまのはらに かむづまります かむろぎ かむろみの みこともちて すめみおや いさなきいさなみのおおかみ おがみたてまつりて かしこみかしこもまおさく」

 桐午の声とは思えないほど、太く透明で厚みのある声が響く。重なる紗一の声も、同じように静かだけれど強くて、普段の紗一と違ってとても雄々しい。

「もろもろのまがごとあらむをば はらへたまへ きよめたまへ まおすことのよしを あまつかみ くにつかみ やおよろづのかみたちともに あめのふちこまの みみふりたてて きこしめせと かしこみかしこもまおす」

 ぴんと伸びた背筋。怨妖に立ち向かうその姿は、これまでの桐午の姿とはまったく印象が違う。

「かけまくもかしこき おほかみたちのひろきあつきみめぐみを かたじけなみたてまつり はっけんのころも しん はやせのりんとういんごんのたいふじゅごいげたちばなのとうごあそん ふしてこいたてまつる かしこみかしこももうしあげる」

 早口で文言を言い終えた桐午たちの身体に、眩しい光が天からざっと落ちてきた。

 眩しさに思わずつぶったまぶたを上げると、桐午は緋色の、紗一は浅葱色の衣をまとっていた。神職が纏う衣のようなそれは、袖が地に着くほどに大きい。

(な……、に、これ……)

 どんな妖術なのか。

 一瞬にして衣をまとった彼らに、楓はただただ目を瞠るばかりだった。

 目がおかしくなっているのかと手を伸ばしてみると、厚い生地の感触が確かに指先に返ってくる。

 その場で動かずにいた桐午を隙ありと見たのか、怨妖の尾びれが、大きく弧を描いてこちらに振り下ろされた。

「!」

 楓は咄嗟に腕を引かれた。緋の大袖が頭上を覆う。

 叩きつけられると思ったが、衣が尾びれをいなしたらしく、緩い風が髪を揺らしただけだった。

「大丈夫か」

 袖の上から桐午は確認する。緋の衣をまとった桐午は、別人のような精悍な顔をしていた。

(この衣が、守ってくれた、の……?)

 なにがなんだかついていけなくて、呆然と頷くことしかできない。

「おれの背中に」

「は。はい……」

 言われるまま、楓は絡まりそうな足で桐午の背中にまわった。

(なんなの、なんなのこれ……)

 同じ怨妖でも、以前遭遇した女の怨妖のときと全然違う。

 こんな衣なんて出てこなかったし、桐午たちの気迫も、緊迫した周囲の空気も、あのときとはまったく異なっている。

(あたし、あたしもこんなふうに……)

 桐午たちから厳しい眼差しで対峙されるのだろうか。

 怨妖は、楓たちを襲ったその動きで紗一をも襲った。紗一も衣を翻し、攻撃をかわしている。

 左右に好き勝手に動くふたつの頭。嘲るように喉を鳴らして嗤う怨妖。

 いずれ自分もああなってしまうのか。

 きゅっと桐午の緋の衣を摑み、絶対に嫌だと、あんな化け物になんかなりたくないと―――怨妖なのだと覚悟していたのに、ただひたすらに怖いと、頭の中にはそれしかなかった。




 怨妖は悠然と漂っているだけだというのに、桐午たちは苦戦していた。

 怨妖の長い尾が、挑発をしているのかこちらへと流れてくる。ふたつの顎が、脅すように鋭い牙を剝き、嘲っているのか威嚇なのか歯を鳴らす。それを避けるばかりで、攻撃らしい攻撃をしようとしない桐午たち。

(なんで逃げてばっかなの? あの衣みたいに呪文唱えて武器とか出せないの? 石を投げるとか……蹴るとかでもすればいいのに)

 どうして得物(え もの)を使って攻撃しないのか。

 最初こそそう思っていた楓だったが、

(……?)

 桐午も紗一も、どうやら逃げながらもなにかを探している。

 怨妖の身体を、ふたりは懸命に目で探っていた。

「桐午ッ、見つかったかッ!?」

「ンんだよ腹立つ。どこにもねェッ! コウソクモンすらありゃしねェ!」

「こっちも気配すら見えない!」

(コウソクモン? ―――(もん)?)

 すぐにかっとなるたちの桐午だけでなく、いつも飄々とした観のある紗一も、焦りがつのってきているのか、眉間にしわを寄せて苛々している。

 探しているコウソク紋とやらが見えないようなのだが、

(紋、っていうと、あそこの模様のこと……?)

 桐午たちが探しているものかどうかは判らないが、ふたつ頭の怨妖の背、その幾重にも重なっている背びれの内側に、細かな模様が不自然に幾つか浮かび上がっている。

(あれが、コウソク紋、とか?)

 桐午たちに教えなければと口を開こうとしたとき、頭の底に、ひやりとした思いが生まれた。

 ―――自分が怨妖だから見えるのでは?

 いねとら組の三人目だからではなく、同じ怨妖だからこそ仲間の紋が見えるのでは。

 一瞬のそのためらいに、足がもつれた。

 転びそうになった身体を、桐午が受け止める。

「大丈夫か」

 庭に降りてからずっとこの言葉がかけられている。普段の横柄っぷりなんてどこにも見当たらない。

 桐午に、教えなければ。

(でも)

 コウソク紋だと伝えて、そのことで自分が怨妖だと知れたら? あのふたつ頭の怨妖が、裏切り者だと襲いかかってきたら?

 桐午たちですら逃げまわっているのだ。三人目かもしれないと言われてはいるけれど、ただそれだけの自分に、身を守るすべなんてない。

(どうしよう)

「―――とおる」

 迷いに迷って次の行動に移れない楓の耳が、低く(しゃが)れた声を拾った。

〝亨〟という音に、ぞっとして顔を上げると、こちらを心配そうに窺う桐午の背後で、怨妖の頭のひとつが楓ににんまりと笑んで―――魚なのに笑んでいるのが目に入った。

「苦しみ(あえ)げばいい亨。わたしを裏切って罰が当たったんだ。すべてお前のせいだ。身を裂き灼熱の炎で焼き尽くされるがいい。助けを請い血を吐き死んでざまあみろだ。虚無の地獄に堕ち苦しんでしまえ。お前を絶対に許さない。亨。亨。とおぉる」

 怨妖の吐く恐ろしい言葉に、冷水を浴びせられたように、全身が冷えてゆく。

「……や、めて……」

 怨妖の丸い眼は、自分ですら知ることのなかった感情の奥底までをも絡め捕る。

「亨が裏切らなければあんなことにはならなかったんだ。すべては亨が悪いのだ。許せぬ。許せぬぞ、亨」

 暴かれたくない心の奥が、その眼差しと言葉によって無理やりに引きずり出されてゆく。

(やめて)

 違う。

 自分が怨んでいるのはおかよたちであって、亨じゃない。亨じゃないのに。

「とおる」

(いやだ。やめて聞きたくない)

 桐午は楓と怨妖との間にすっくと割って立ち、厳しい眼差しで魚を睨み上げた。

 けたけたと嗤っていたもうひとつの頭が、片割れの言葉を引き継ぐ。

「いい気になってるからだ。おかよの罠におめおめと嵌まった愚かな男よ。ああ怨めしい。当然の報いだ。地獄の業火で焼かれるがいいさ」

(やめて……!)

 亨は、自分を裏切った。

 ―――そう。そうではないか。

 亨が楓を裏切ったのは、紛れもない事実だ。

 腹の底で、なにかがうごめきだす。

 怨妖の言葉に誘われて、どす黒い感情がそこから噴出しようとしている。

 亨を、怨んでいる……?

 自分を裏切った亨。

 あの笑顔。

 楓ではなく別の女に向けられた屈託のない笑顔。

 裏切り。

(違う。違う、怨んでなんかない。怨んでなんかない……)

 怨んで……ない……? 本当に?

 自分に背を向けた亨を怨んでないだなんて、本当に、そうだろうか……?

「莫ッ迦野郎。耳なんか貸すんじゃねェよ」

 顔色をなくす楓に気付いたのか、桐午は振り返り、声を荒げる。

「ああやってこっちの不安を煽ってるだけだ。まともに聞くんじゃねェ」

 まっすぐな強い瞳が、楓を見ていた。その強い眼差しにはっとなる。

 ―――そうだ。

 自分を裏切っておかよを取った亨を怨めしいと思ったことは、確かにある。けれどそれは過去のものだ。亨の心を繋ぎ止めることができなかったのは、楓自身でもある。

(そうだった)

 おかよたちに(たぶら)かされて自分を捨てた亨は愚かだ。愚かだと思う。亨が命を手放したときに生まれた怨めしさは、おかよたちへのもの。亨へのではない。

 亨に感じたのは、悲しみと落胆。怨みではない。

 怨みなんてないのだ。

 間違えてはいけない。惑わされてはいけない。

(だって。あたしはいまでも、亨さんのことがこんなにも好きだもの)

 楓の気持ちの変化を感じ取ったのか、片割れが忌々しげに再び口を開く。

「あいつらは愛しい亨を殺して逃げやがった。見つけてやろうぞ。(われ)が見つけようぞ。そうして同じように殺してやろう。それ以上に苦しめて殺してやろう。我が手助けしようぞ。あいつらに、苦悶に満ちた死を与えてやろうぞ」

「黙れ干物が!」

 怒鳴った桐午に、怨妖は噛みつこうと大きく口を開けて襲いかかった。咄嗟に袖を翻して遮る桐午。怨妖はくるりと一回転をし、嗤い声すらあげてその余裕ぶりを見せつける。

「あ! あったッ! コウソク紋ッ! 桐午、背びれの内側ッ!」

 怨妖が身体を一回転させたせいかもしれない。紗一がコウソク紋を見つけたらしい。身を屈めていた桐午が弾けるように振り返る。

「あれか!? ―――くっそッ」

 桐午は舌打ちする。その意味を、すぐに楓は悟る。

 怨妖の背びれに見え隠れしている紋は、複数の色でできあがっている。黒と、葡萄色(え び いろ)と深い藍色。その三色が複雑に絡まりあって紋様を描いている。

〈色〉を失った桐午には、ぼんやりとした濃淡でしか紋様を認識できないはず。手を繋いでいれば〈色〉を見せてあげられるけれど、以前に紋を描いたとき、確か両手を使っていた。手を繋いでいては、紋を描けない。

(どこか、どこか触れられるとこは……)

 首筋は、くすぐったくて集中ができないはず。一番最初、〈色〉を見せるために試行錯誤したとき、そう文句を言われた。ならば、紋を描いているとき、確か左手は空間を摑んでいるだけだった。邪魔にならないように左の(ひじ)あたりをそっと摑んでみたらどうだろうか。

(なんとかなるかな。判んないけど、でもやってみ―――)

 楓なりに懸命に考えていたときだった。

 いきなり視界がぐるりと揺れた。

 気付くと両の肩を摑まれていた。

 え、と思う間もなく、間近に迫ってきた桐午の真剣な顔が。

(―――まさか!?)

 目を閉じることすらできなかった。もちろん、抵抗なんて間に合わない。

 唇は、既に桐午の唇にふさがれていた。

 目を瞠ったまま固まる楓の前で、〈色〉が戻ってきたのだろう、桐午の瞳に深みが増してゆく。羽化する蝶が、羽の色を鮮やかにしていくさまにも見えた。

 綺麗だ。

 口を吸われていることすら忘れてしまうほどに美しく、心を奪われてしまう。

 優しく、唇が離れる。

 茫然とする楓に、桐午の表情がほんの僅か柔らかくなった。直後、それは不敵な笑みへと変わる。

「紗一ッ!」

「お、おぅッ! 承知ッ!」

 桐午と楓に度肝を抜かれていた紗一も、すぐに我に返って怨妖に向き直る。

 怨妖を挟んで、桐午と紗一は宙に右手を差し出した。中指に人差し指を重ね、紋を描く。左手は紋を逃してなるものかと、紋と怨妖との間の空間をがっちりと摑んでいる。

 紗一の描く紋は水の、桐午の紋は炎の軌跡を残してゆく。がりがりと描かれる紋の軌跡が延びるごと、怨妖の動きが鈍くなる。

(コウソク紋……、拘束(こうそく)、紋?)

「亨を忘れるのかぁぁッ!」

 苦しそうに怨妖は叫び、拘束紋を逃れようと激しく暴れた。のたうつ怨妖の巨体が、牙を剝いて楓の頭上に落ちてきた。

「おかよたちを殺して欲しくないのかああああ!」

「!?」

 拘束紋が鮮やかに描かれてゆく(さま)に、呆けてしまっていた。

 もがく怨妖の悲鳴を浴びせられて楓は意識が引きずられ、咄嗟に身動きが取れなかった。

 ただ見上げるばかりの眼前に迫る、禍々しい怨妖。

 桐午と紗一が描く紋は、怨妖を祓う手段なのだろう。

 怨妖の身体に紋は見える。

 それで?

 描くにはどうやって?

 見える模様を宙になぞればいいのか?

 どこから?

 桐午たちを真似て指を重ね、左手で宙を摑む仕草をすればいいのか?

 宙のどこを摑めばいい?

 判らない。全然、―――判らない。

 一瞬の間の途方もないためらい。容赦なく迫る、大きく口を開けた怨妖。顎に沿って並ぶ鋭い歯列は不気味に光り、真っ赤な口の奥は呑まれるような昏い虚無の色だった。

(食べられる!)

 ぎゅっと目を閉じて身構えたときだった。

 横から強い衝撃があった。

 突き飛ばされる勢いになすすべもなくそのまま倒れると、目の前には桐午の顔。そのすぐ頭上でもんどりをうち、地面にぶつかる怨妖の姿があった。紗一の描いた拘束紋が怨妖の身体へと吸い込まれてゆく。悲鳴をあげて宙へと舞い戻る怨妖の動きが鈍くなった。

「大丈夫か。怨妖の言い分なんざ聞いてんじゃねェって言ったろが」

「は。ご、ごめんなさい、大丈夫、たぶん大丈夫です。桐午さんは」

「大丈夫に決まってンだろ。いちいち訊いてンじゃねェ」

 いつもの口調だった。

「桐午!」

 紗一の声に桐午は立ち上がり、大丈夫だと片手を軽く上げた。

「悪い。途中だったのに、―――あ」

「どうしたんですか!?」

(怪我しちゃったとか!?)

 背中を向けていた桐午は、上げていた手を目元に遣っていた。

「―――〈色〉が」

「!」

 楓との接吻で戻っていた〈色〉が、時間が経って消えてしまったのだ。

 こちらを振り返る桐午。

 また、口を吸われる。

(怨妖を、祓うためだし……!)

 じっと見つめてくる桐午に覚悟した楓だったが、意外にも桐午は左手を差し出した。

「おれがしてたみたいに摑んでろ」

「え」

「早く」

「あ。は、はい……」

 慌てて摑んだ桐午の左手は、いつも以上に力強い。

「火傷させたら済まん」

「え」

「いちいち口吸って隙を見せるわけにゃいかねェから」

 肩透かしを喰らった思いもあったけれど、言われるとおり、口を吸う間は紋を描けるわけでもなく、怨妖の攻撃を避けることができないのは確かだった。

「ったく、七面倒くせェ拘束紋持ちやがってあの野郎。―――走るぞ。ついてこい」

「え? あ、……はい」

 紗一の描いた拘束紋に苦悶する怨妖は、歯を打ち鳴らしながら庭を泳いでいる。紗一はまだ背びれに隠れている拘束紋を再び宙に描き始めていた。

 桐午の手。

 足手まといにならないようにしなくちゃ。

 ただそれだけを胸に刻んで、桐午についてゆくしかない楓だった。




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