【第四章】 一
桐午の縁起絵制作も順調に進み、もうすぐ完成しようかという頃。
変化を感じたのは、いつものように桐午の迎えで屋敷に到着し、書斎に続く廊下を歩いていたときだった。
吸い込んだ空気の感触が突然ざらついた。ねっとりと息の通り道を焼くようにみぞおちへ落ちる感じだった。
(なに……?)
鳥肌が立った。
なにかに―――庭のほうからなにかに呼ばれている気がした。
強烈に惹きつけられるモノが庭にある。直感が、そう告げている。
ここは怨妖が流れ込む場所。自分の中にある怨妖の部分が成長をしているのか?
目でそっと桐午を窺うと、彼はこちらではなく、庭のほうを厳しい顔つきで睨んでいた。
(あたしのことじゃ、ない……よね……?)
少しだけ緊張を緩めたとき、背後の廊下からどたどたと荒々しい音が迫ってきた。
「桐午! ほつれがある!」
慌てた様子の紗一だった。
(ほつれ? なんのこと?)
紗一の発言がさっぱり判らない楓の横で、桐午は厳しい眼差しを僅かも動かさず頷いた。
「あいつだ」
「また無理やり忍び込んできたのかよ」
(あいつ? 忍び込む……?)
会話が理解できない。
「―――楓」
いきなり桐午がこちらを振り返った。
「は! はいッ!」
「なにか感じるか」
「え? な……なにか、ですか……?」
自分が祓われるのではないかと会話の成り行きを探っていただけに、突然振られて楓は混乱した。が、桐午と紗一、ふたりの研ぎ澄まされた強い視線を受け、強引に気持ちを切り替える。
目を閉じて、絡み合った不穏な空気に意識を合わせる。
呼吸するごと濃厚になってゆく緊迫感と不快感。
そこに紛れ込んでいるものが、あるような気がした。
書斎の更に奥に、以前邸内で迷ったときに行き着いた大きな池を抱えた庭が広がっている。そちらのほうから、強い波のようなものが押し寄せてきている。
その深奥にある、不快なモノ。
「―――奥の、池のある庭のほうに、誰かがいるような気が……します」
その不穏な気配の源が自分自身だとは思えなかった。願望でも言い訳でもなく、はっきりと感じる異質ななにかが、そこにある。
この感覚が間違っていませんように。もしも違っていたら。
(お願い、まだ祓われたくない……!)
伏せたままのまぶたが、気持ちを誤魔化しきれずに震えた。
楓の頭上で、桐午の厳しさをはらんだ声が発せられる。
「こいつはおれが」
「ああ。そのほうがいい」
「……」
お前が原因なんだろう?
そんな詰問が返ってくると覚悟していたから、桐午の声に肩から力が抜けた。―――知らない間に、力んでいたらしい。
恐るおそる目を開けると、奥へと廊下を駆けてゆく紗一の背中があった。
「行くぞ」
「え」
「正解だ」
なにがという楓の返事も待たず、桐午は紗一のあとを追って大きく足を踏み出した。楓の手が、ぐいと引かれる。
祓われずに済んだ。
そんな安堵とともに、楓は手を引かれるまま、廊下を奥へと走った。
廊下からぐるりとめぐらされている広縁に辿り着くと、昼もまだ迎えていないはずのそこは、すっぽりと夜の闇に沈んでいた。青白い光が淡く庭を浮かび上がらせてはいるが、空を見上げても月もなければ星もない。
その闇の奥から、なにかの気配が強い存在感を放っていた。その〝なにか〟はすぐに闇を割り、ほの暗く青白い縁取りを帯びて、ゆったりと姿を現した。
それは、これまで見たことのない形をした、巨大で―――異様に身体の長い魚だった。
楓が両腕を広げても、尾の部分だけでその何倍もの長さがある。岩をも軽く砕きそうな大きな顎と、感情を窺わせない大きな目。空虚なその目はなにも映してはおらず、だからだろうか、どこか超然としても見えた。そんな巨大な頭が、えらのところからもうひとつ横に生えているから、余計に度肝を抜かれた。
目の前に現れた存在の圧倒的な強烈さに、腰が、膝がわなないている。
(これ……)
いつだったか桐午が言っていた、彼の〈色〉を奪った例の怨妖に違いない。身体は瑞々しくしなやかなのに、ふたつの顔は両方とも不気味なほど干からびている。
この怨妖は、生きているのか死んでいるのか。
「来やがったな。―――大丈夫か」
動けない楓に桐午が声をかける。
瞬きもできなくて、返事をすることすら忘れた。
背筋が凍るとはこういうことを言うのか、と頭の中で妙に納得する自分がいる。
目の前を泳いでいるのは、かつて桐午を襲った怨妖。そうして、
(あたしの仲間かもしれない、怨妖)
いつか自分もああなってしまうだろう成れの果て。
あの怨妖は、桐午を襲いに来たのではないのかもしれない。
同族である、
(あたしを、迎えに来たのかも、しれない)
悠々と長い尾びれを空にたゆたわせる怨妖。
―――いやだ。
怨妖の姿に触発された冷たい凍えが意識を鷲摑み、昏い怨念の深みへ引きずり込もうとしている。
それに抵抗をする自分がいる。
(いやだ)
虚無しか窺わせない怨妖。
あんなふうになってしまうだなんて、イヤだ。
怨念の成れの果ては、あんなにもおどろおどろしく、嫌悪を催すものなのか。
(亨さん……!)
怨念を捨て去ることなんて、できない。できないのに。
―――ぽん、と頭に優しい感触があった。
誰かの手だ。つられるように見上げると、自信に満ちた桐午の顔がこちらを見ていた。
「おれのそばにいればいい。大丈夫だ。お前が怖がることなんざちっともねェから」
「……」
その言葉は、不思議とすっと胸の深いところにまで沁み込んでいった。
粟立っていた肌から、解けるように緊張が抜けてゆく。
瞬きを、する。
あれは、魚の形をした怨妖。ただ、それだけ。
それだけでしかない。
(大丈夫って、襲われて逃げられてばっかの怨妖なんでしょ?)
声には出せなくても、そんな反論が出てくる程度には気持ちに余裕が戻ってきた。
こくりと頷いて見せると、桐午は楓を背中に庇い、ふたつ頭の怨妖に向かい合った。




