三
次の日の朝四つ半(午前十時三十分頃)。
いつものように桐午は澤野やまで迎えに来た。しぶしぶそれに応じて屋敷に向かうものの、楓はいままでのように接することができない。
「なんで、あんなことしたんですか」
屋敷への道すがら、無言の時間に堪えられずつい訊いてしまった。
言ってから、『あんなこと』とぼやけた言い方だったが、なんだってどんぴしゃな質問をしちゃうんだと胸の内で激しく後悔をする。もっとこう、天気の話だったり今朝食べた納豆の糸の伸びが甘かった話だとか、全然違う話題を振ればいいものを。
「なんでって、お前、断らなかっただろうが」
「断りましたよッ」
「そのわりには、好きに口を吸われてたじゃねェか」
「あ、あれは……、雰囲気に流されてというか……なんというか、不可抗力で……」
「お前『不可抗力』なんて言葉、知ってたのかよ」
ぷっと吹き出す桐午。いつもの桐午だ。
「莫迦にしないでください」
桐午の表情が、僅かにまろやかになる。
「まあな。十九だかの小娘が死んだ許婚の月命日をかかさずにいるだなんて、辛気臭ェじゃねェか。もう二年、経つんだろ?」
「〝まだ〟二年です。それに、桐午さんには関係ないです」
「おれの〈色〉がお前の辛気臭さに毒されちゃァ困るんだよ」
どこかおどけるように桐午。
「ふぅぅぅん、毒される程度の貧相な〈色〉なんだ」
「莫迦者。繊細と言え、繊細と」
「『繊細』だなんて、桐午さんには一番縁のない言葉じゃないですか」
「お前ね」
「亨さんはあたしのすべてよ。忘れろとか前を見ろとか、軽々しく言われたくない」
それまでの軽い掛け合いの雰囲気ではなく、まっすぐに桐午を見上げて楓は言い切る。
その、ひたむきで強い眼差し。
桐午は一瞬、言葉を失う。
「―――そんなこと言わねェよ。忘れる必要なんてねェし。亨との記憶はお前の一部なんだし、おれには手の出せない領域だ。たださ、辰吉っつぁんとか心配してるヤツもいるってェことは、覚えておくんだ」
「……」
二年も経ってるんだからああだこうだ言わずに忘れろ、と桐午も言うのかと思っていた。
足が止まり、楓は桐午を見上げる。
桐午は、額にずいと指を突きつけた。
「ほら、それ。そういう無防備な顔を男の前でさらすんじゃねェっての。口吸ってくださいって言ってるようなもんじゃねェか」
ばっと楓は真っ赤になって自分の口を両手で隠す。
「なななんですかそれ。襲った張本人が開き直る発言ですか?」
「違ァう」
「違う? どこがですか」
まるきりそのままそのとおりではないか。
「お前隙だらけなんだっての」
「失礼ね。そんなことないわよ。襲ってきたのはそっちじゃないですか」
「襲ってやったんだ。死んだ男に操を捧げる小娘、誰も嫁にゃしたくないだろうよ。口吸ってもらえただけありがたい話だろうが」
「ひっどい! 完全に開き直り!」
ぷぅと頬を膨らませる楓。だからそれが男を誘ってるんだと桐午は内心嘆く。
そうして、気付く。
(そうか。嫁に行くとか、こいつ三人目だとしたら、そんなこと、もう望めないかもしれんのか)
こちらにじっと視線を留めながら黙り込んでしまった桐午。なにか辛辣な文句が返ってくると覚悟していただけに楓は肩透かしを喰らうも、先程の気まずさがなくなったことには、ほっとしたのだった。
緋色の太い線が、ざっと音を立てて料紙を走る。
桐午の筆遣いは大胆だ。料紙に向かうまでは、構図や色の確認や修正、底本としての書物を何度も読み返したりと忙しないが、いざ気持ちが決まると、一気に描きあげてゆく。
ためらいのない緋色の一本線は、炎にまみれた牛車の轍の跡。その牛車は、地面に口を開けた地獄の底からやって来ている。地獄で燃え盛る炎の赤と、轍の赤色は僅かに違う。そういった微妙な色の違いが、絵に物語を語らせている。
神社の縁起絵だけあって描かれているのは恐ろしい場面が多いのだけれど、怖いからと目をそらすことができない。
躍動感があって力強く、惹きつけられずにはいられない命そのもののような桐午の絵。墨で描かれた下絵に色が置かれるごと、生きいきとした生命感が宿ってゆく。
桐午は細かな色遣いが好きなのだろう。毛氈の上の絵皿の数は両手の指の数ではまったく足りない。桐午が絵皿に手を伸ばすたび、繋がれた右手に力がこもる。
昨日の今日だったから、楓は右手を握られる際、思いきり宣言したのだった。
「また襲ったりしたら、もう絶っっ対に協力しませんからねッ」
「だから、イヤならちゃんと断れっつーの」
「断ります! いまから断ッ然断りますからね! いいですか、ちゃんと断ってますからねッ」
「判った判ったってば。まったく、うるせぇガキ……」
「なにか言いました?」
「言ってません言っておりませんって。じゃあお嬢さま、右手をお借りしますぜ」
どういうわけか、桐午に右手を取られてしまうと、威嚇にも似た強い警戒心が、情けなくもすとんと収まってしまう。代わって胸の内側から全身にあふれてくるのは、悔しくも甘い感覚。
料紙に向かうひたむきな眼差し。なにものをも寄せつけないそのまっすぐな表情が、何故か心を揺さぶる。
こんなまっすぐな顔をするひとは、初めてだった。
(あたしが好きなのは亨さんなのよ)
なのに、桐午の真剣さは乱暴な強さでもって、楓の気持ちを絡め取ってしまう。
流されそうになる。
惹かれそうに。
あの唇が。
(あたしの)
あたたかで優しい感触が唇に―――。
「桐午さん」
桐午の筆が絵皿に戻ると同時、たまらず楓は言葉をほとばらせた。
「あの。―――その。昨日言ってた、桐午さんの〈色〉を奪った怨妖って、こういうふうな怖い姿をしてるんですか? それとも、この前の女のひとみたいな人間だったりするんですか?」
赤く色付けられたばかりの鬼の絵を指す楓。
気持ちを誤魔化すため、なかば口先で紡いだだけの咄嗟の質問だった。
(ちょっと、無理があったかしら)
ちらりとこちらを見、桐午は筆を置くと軽く肩を鳴らして伸びをした。そうして、大真面目な顔になる。
「度肝を抜かれるほどの美人だったよ」
「え」
自分でも意外なほど驚いた声が出てしまった。
もしかしていつだったか桐午が描いた、水茶屋の娘だったとか……?
「―――と言いたいところだけど、悔しいことに違うな」
「……」
思わず出てしまった声の真剣さに、気付かれただろうか。
「じゃあ、やっぱり鬼?」
「いや。魚だ」
「……サカナ? サカナって、あの海や川で泳いでいる、魚ですか?」
怨妖は人間以外の姿も持つのだろうか。それとも、いつかは自分も魚へと姿が変わってしまうのだろうか。
「ああ。イワシの干物みたいに骨ばってて、目と顎がいやにでかくてさ。しかも頭がふたつもありやがる。身体はとにかくでかくて一反(約十二メートル)はあったかな。とんでもねェ魚だ。あいつ、いきなりおれの頭にがぶッってかぶりつきやがって」
「!」
淡々とした口調だった桐午がいきなり大きな声を出したから、不意を突かれて楓は尻もちをついてしまった。
からかわれた。
小さく睨み上げると、桐午はにんまりと笑んだ。
「で、気がついたらおれから〈色〉がなくなってて、見える世界も白と黒だけの世界になってた」
「怪我とかは、なかったんですか?」
「おや。心配してくれンのか?」
「ち、違いますッ」
本当は、違わないけれど。
桐午は楓の本音を読み取ったのか、意味ありげな顔をしている。なんだか、シャクだ。
「三日三晩寝込んでたらしいけど、ありがたいことに怪我らしい怪我はなかったな」
「その怨妖……、まだ、どこかにいるんですよね? 次は命を狙われるもしれないし、遭遇しないで済むなら、このまま逃がしちゃおうとかないんですか?」
そこまでおかしな問い方ではなかったと思う。だが、真意がばれてしまったかとひやりとするほど、桐午は考え込んでいるのか長い沈黙を返した。
「―――この屋敷は怨妖が流れ込みやすいようになってはいるが、すべてが来るわけじゃねェんだ。おれや紗一のあずかり知らない怨妖が世の中にはうじゃうじゃいて、それに苦しめられてる奴はたくさんいるはずなんだ。でも、おれたちにできるのは、目に前に現れた怨妖を祓うことだけ。おれたちは非力な存在だよ。だから、せめて現れたヤツだけでも必ず祓う。自分の都合で遭遇しないことを期待するなんて、おれにはできねェ。魚野郎が次に狙うのは、命かもしれんが、おれから〈色〉を奪った落とし前は、きっちりつけてもらうさ」
「……」
現れた怨妖は、必ず祓う。
怨妖だと知られてしまえば、逃れることは無理だろう。
けれど、『あずかり知らない怨妖がいる』ということは、ふたりに怨妖だと気付かれなければ、祓われることなく逃げきることができるのだ。
限りなく細いけれど、光明が差し込んだ気がした。
ただ、こうやって桐午に〈色〉を与え続けていて、彼らに気付かれずに済むのか。もしかしたら、何ヵ月も何年も手を繋ぎ続けなければならないのに、その間ずっと、隠し通せるだろうか。
「どした。怨妖がうじゃうじゃいると聞いて、びびったか」
軽い笑いが声に交じっていた。どうやら桐午は黙り込んだ楓を誤解してくれたらしい。怖がってなどないと装うため、楓はむきになって首を振るふりをする。
「盗られた桐午さんの〈色〉、どうして桜の花びらになってあたしが食べちゃったんでしょうか」
「さてなァ。魚だったし、クソでもしたのかもしれねェな」
「やめてくださいよ、あたしそれ食べちゃったんですから」
「失敬だなお前。一応おれの〈色〉なんだぜ?」
「判ってますけど」
不意に、桐午は寂しげな表情になり、
「あいつを祓えば〈色〉が戻ってくるって思ってたけど、そうもいかないのかもな」
ぽつりとそう漏らした。
その声ににじむ虚しさに、もしかしてと緊張が肌を走る。
怨妖だとばれたのか。
本当は桐午は楓が怨妖だと判っていて、それでも〈色〉のことがあるから敢えて目をつぶっているとか。
楓を祓ってしまうと〈色〉もどうにかなってしまうから、それを恐れて黙っているだけなのかもしれない。
「どうするんですか?」
戦々恐々の気持ちを隠し、訊く。
「そんなの。知ってたらとっくにやってるよ。なるようにしかならん。ほれ。続きするから黙ってな。―――手」
いつの間にか外れていた楓の手を取ると、桐午は筆を替えて絵に向き直る。
真相は判らないけれど、桐午の声音は隠し事をしているようではなかった。
(いますぐには……)
たとえ本当に怨妖とばれていたのだとしても、〈色〉を持っている以上、すぐに祓われることはきっとないだろう。
だから、大丈夫。
楓は自分に強く言い聞かせる。
一瞬にして絵に没頭してゆく桐午。
その横顔に、―――何故だか不意に亨の顔が重なる。
亨は、店の商品の並びにとてもこだわりを持っていた。隣にどの品物を置くか、手前の棚か奥の棚か。
『たったそれだけの違いで、売り上げが大きく変わってくるんだ』
そう話してくれた亨は、もういない。
浮かび上がった亨の横顔が、息絶えたあとの青白いものへと変化する。
はっと締めつけられた気持ちの揺れを気付かれたくなくて、楓は黄表紙を読むふりをした。
(あのとき……)
あのあとき。二年と九ヵ月前。
楓は亨とともに、得意先をまわっていた。
あのとき。
芳町に行くのを一番最後にしていれば。
そうすれば、運命は変わっていた。
あの店に寄らなければ。
そうすれば、ふたりは出会わずに済んだのに―――。
その日も空はからりと晴れ渡り、容赦ない太陽の光が枝都の町に降り注いでいた。
真夏の暑い日差しを避けるためもあって、得意先をまわっていた亨と楓は、逃げ込むように水茶屋に入った。本当は、あと一軒残っている得意先をまわったあとに寄る予定だったけれど、あまりの暑さに堪えかねた亨が途中で見つけた店に入ったのだった。
そこで働いていたのが、楓が幼少時、まだ実の父親と暮らしていた頃によく遊んだ幼馴染のおかよだった。
亨とおかよの目が合った瞬間、首筋をざわりと逆撫でされたような、悪い予感がした。
おかよに見せる亨の笑顔が、よそゆきのものではなかったから。
その予感は、当たってしまった。
見る間に悪いほうへ悪いほうへと事態は転がり落ちてゆく。
既に楓と亨は許婚同士だったにもかかわらず、亨はおかよにのめりこんでいった。そうしてすぐに、おかよの旦那、竹蔵に脅迫されてしまった。
ひとの女房を抱くたァどういうつもりだ。
とんでもない金額を要求され、困り果てた亨は澤野やの金に手をつけてしまう。それを知った辰吉は烈火のごとく怒り、お佐和や楓がとりなしても甲斐なく、亨は追い出されてしまった。
ちょうどその頃、亨は喜助という男と知り合ったらしい。喜助というのが本当の名なのかは、楓には判らない。ただ、その喜助に「借金は博打で返せばいい」とそそのかされたらしい。
楓がそのことを知ったのは、やっとのことで探し当てた亨の長屋で、酒に酔い潰れて転がる本人の口からだった。もうこのときの亨の借金は、まっとうな仕事では一生かかっても返せない額となっていた。
綺麗だった亨の顔には喧嘩の痕が残り、滑らかだった肌も、ひどく荒れ果ててしまっていた。
目の前で酒の臭いをぷんぷんさせていびきをかいている男は、楓の知る亨ではなかった。
元の亨に戻ってきて欲しかった。こんな亨は、見たくなかった。
絶望に打ちのめされて頬を濡らしながら長屋を出た楓は、ふと後ろを振り返った。
どうしてあのとき振り返ってしまったのか、虫が知らせたとしか思えない。
振り返ったと同時、向こうの辻から見知った顔が現れて、こちらに気付くことなく長屋へと入っていった。
おかよだった。
(どうして、おかよちゃんがここに……?)
おかよが働く水茶屋のある芳町は離れた場所にある。店の空いている時間にふらりと足を向けるには、距離がありすぎる。
悪い予感しかない。
そっと、楓は長屋の木戸口を窺う。しばらくすると、おかよに連れられて、足元の定まらない亨が現れた。
(あのふたり、まだ続いてたの……!?)
楓はふたりのあとを追う。追うが、すぐにひと込みに見失ってしまった。
男女の仲には見えなかった。願望かもしれないけれど、そんな雰囲気ではなかった。男女の仲というよりもむしろ、
(番屋に引っ立てられてく咎人だわ)
そう思わせるほど落ちぶれた後ろ姿だった。もちろん、引っ立てられているのは亨のほうである。
おかよは楓の知るおかよとは違い、濃厚なあくどさを漂わせていた。一緒に泥だらけになって遊んだ幼い頃とは、まったくの別人になっていた。水茶屋で再会したときの涼やかさも見当たらない。おかよの顔をした別人にすら見えた。
それでも、あれは間違いなくおかよだった。
どうして。
何故。
なにがあったの。
ふたりを見失い、混乱のまま澤野やに戻った楓のもとに翌朝飛び込んできたのは、亨が死んだという報せだった。
どうして、あのとき見失ったりしたのか。
あのあとなにが起きたのかは判らない。
ただ、ならず者との喧嘩に巻き込まれ、橋から投げ落とされて死んだのだと聞かされた。
水茶屋に行っても、長屋に行っても、おかよの姿は竹蔵とともに、その日を境に消えてしまった。
姿を消したおかよたち。死んでしまった亨を直前に連れ出したおかよ。
あとになって、亨はおかよたちに嵌められ、金づるとして搾り取られ、利用されるだけ利用をされ捨てられたのだと知った。
亨を博打へと誘ったあの喜助という男も、おかよたちの一味だったらしい。もちろんその喜助とやらの行方も判らずじまいだ。
仕組まれていたのだ、最初から。
小間物屋の跡取りとしての粋な様子から、金があると思われたに違いない。
許せなかった。
あのとき水茶屋に立ち寄らなければ。
あのときおかよと出会わなければこんなことにはならなかった。
亨と結婚をし、幸せな日々を送っていたはずなのに。
おかよにさえ出会わなければ。
亨から幸せを奪い、未来を、人生を奪ってどこぞへと逃げたおかよたちが許せなかった。
どこかでのうのうと暮らしていると思うとはらわたが煮えくり返って、牙が生えて目から炎がほとばしり、鬼になってしまうほどに怨めしかった。
怨めしくて怨めしくて、
(だからあたし、怨妖になっちゃったんだ)
亨の怨みが晴らせるのなら、怨妖として祓われるのも構わなかった。
おかよたちの行方が摑めて、この怨みを晴らすことができるまで。
それまででいいから。
それまでは、どうしても怨妖と知られて祓われるわけにはいかないのだ。
楓の右手を握ったまま、さらさらと音を立てて筆を走らせる桐午。その音を聞きながら、楓は黄表紙の文字の形を目で辿っていた。
怨妖はこの屋敷に流れて来ると言う桐午。
桐午の〈色〉への協力を拒むこともできただろうにそれができなかったのはきっと、自分が怨妖だからだろう。怨妖だから、この屋敷を拒めないのだ。
現れた怨妖は必ず祓うと桐午は言い切っていた。
祓われてもいい。ただ、時間が欲しかった。時間をくれるだろうか。おかよたちに復讐する時間を、桐午たちはくれるだろうか。
いいや。
たとえ与えてくれなくとも、こればかりはなにがなんでも成し遂げる。
(あたしを、軽蔑するかな)
怨みにまみれて怨妖に成り下がった自分を、桐午は軽蔑するだろうか。彼の藤色の瞳が蔑んだ色になってこちらを見る姿が、脳裏に浮かんだ。
胸の奥が、潰れるような気がした。
―――そうして。
そんな楓をそっと横目で窺う桐午に、彼女は気付くことはなかった。




