二
楓が屋敷に通うようになって七日が過ぎた頃だろうか。
いつもは朝四つ半(午前十時三十分)頃に迎えに来る桐午が、この日に限って朝四つ(午前九時頃)に澤野やにやって来た。
小間物屋である澤野やは、こぢんまりとした店である。中に入って首をめぐらせば、広くはない店内をすべて見渡すことができる。
店には、楓の姿がなかった。
「楓はいないのか?」
桐午は店座敷にいた辰吉に訊く。
「今日は、長静寺に行ってるよ」
「長静寺?」
澤野やの近所にあるのは忠相寺だ。あからさまな怪訝な顔を読まれたのだろう、辰吉は続ける。
「ウチの菩提寺。墓参りさ」
「墓参り?」
「おうよ。月命日だからな。まったく、いいかげんあいつのことなんざすっぱり諦めればいいものを」
どうすることもできないように、辰吉はしみじみと言葉を落とす。
桐午の眼に、妖しく力がこもった。
「あいつって―――誰」
楓が澤野やに戻ると店の前に桐午がいて、一瞬、足が止まりそうになった。
「どこに行ってた」
こちらに気付いた桐午の機嫌のよろしくなさそうな声。待たせたのだろうか。
「いつもより、時間、早くないですか?」
さりげなさを装って、桐午の質問を避ける。
「何時に来ようがおれの勝手だ」
「そりゃそうでしょうけど。―――ちょっと待っててください、すぐに用意しますから」
桐午のもの言いたげな視線に気付かないふりをして、店へと逃げ込んだ。
「お父っつぁん、ありがとう。ただいま戻りました!」
月命日の墓参りのあとは、どうしても気持ちはしんみりとしてしまう。けれどそれを辰吉たちに悟られたくはなかった。いつものように敢えて元気な声を努め、楓は店番をしてくれている養父に声をかける。
客がいないからか、厠にでも行っているのか辰吉の姿はなかった。
桐午が無人の店の前で待っていたのは、先日、盗人呼ばわりされたせいか。ここしばらく接してみて、桐午のひととなりがぼんやりとだけれど見えてきている。言葉遣いが直接で乱暴に思えるときもあるけれど、自分が好き放題できる立場にいたとしても、悪いことは悪いと、きっちり分別つけて行動するひとだ、と思う。店番を頼まれたとしても、きっと真面目に番もするだろう。
あんなひどいことを言うのではなかった。
そう思いながら、いつも屋敷に持っていく包みを自室から取ってきたのだった。
桐午が知り合いの宮司から頼まれたものとは、神社の縁起絵だった。神社の謂れが記された書物と別の紙に描いた構図とを見比べ、うんうん唸っては銀の髪をがしがし掻きむしり、料紙に向かい合う。桐午があっちやこっちに動くたび、筆をぐっと動かすたび、右手を摑まれたままの楓は振りまわされる。
絵を描く絵師は、こんなにも忙しないのか。
ちらりと手元を覗いてみると、鬼や妖怪が竹林の中で、痩せ細った人間を煮えたぎる大鍋に放り込んでいる場面があった。熱湯に苦悶する人間の表情と楽しげな妖怪たちの表情の違いが際立っていて、いまにも料紙から湧き出てきそうだ。
(桐午さんって、綺麗な顔してるのに描く絵は結構容赦ないのね。それに)
息を呑んでしまうほど、桐午は達筆だった。能筆家としてやっていけるのではないだろうか。
描かれていく絵の傍らに記される数行の文。その文の配置も墨の含ませ方も絶妙で、絵をいっそう惹きたてている―――気がする。
「なんだ」
知らず、じっと見つめていたのだろう。怪訝な声に楓は我に返る。筆に若草色の顔料を含ませながら、桐午はこちらを検分するように見つめている。
その顔が、にやりとなる。
「おれの絵に惚れぼれしてンのか」
「! ちがッ、まさかッ」
図星だった。
「書物から絵を起こしているようなものなのかなって。だったら、こういうのも依頼があったら受けるのかなって」
読んでいた黄表紙を桐午に示す。
本当はそこまで思ってなかったけれど、気がつけば口が勝手にそう喋っていた。
黄表紙を示した途端、桐午はハン! と鼻で嗤う。
「そんな幼稚なのを誰が依頼するってンだ」
「幼稚って」
楓が読んでいるのは、いま枝都の娘たちの間で大人気の恋愛ものだ。歌舞伎役者と町娘の切ない恋物語である。
「寛円山縁起と黄表紙を一緒にすんな」
「頭から莫迦にしなくても」
「莫迦を莫迦と言ってなにが悪い」
「!」
思わず桐午を睨みつけてしまう。
(そりゃ悪ぅございましたね)
確かに桐午が読んでいる書物は漢字ばかりで、かなで書かれて挿絵だらけの黄表紙と一緒にはされたくないのかもしれないけれど。
苦々しい思いの楓をよそに、身を屈めて妖怪に色を乗せだしてゆく桐午。
鬼や妖怪。この縁起絵に、怨妖は描かれているのだろうか。怨妖は、怨妖自身かいねとら組以外には認識されないと言っていたが、縁起絵ならばいてもおかしくない気もする。
「―――怨妖って、その……、放っておくと、どうなるんです?」
ずっと抱えていた不安が、訊いてみようかと思ったときには、ぽつりと唇からこぼれていた。
桐午が描いているモノのように、鬼となってひとを殺してゆくのだろうか。
「知らないね。放っておいたことなんてねェから」
「……でしょうけど」
自分がどうなってしまうのか、判ることならいまのうちに知っておきたい。
神妙な声で訊いた楓が気になったのか、桐午は筆を置いて、宙を見据えた。
「世の中、とんでもねェことになるんじゃねェかな。怨妖ってのは、人々の苦しみを欲するものだからな。憎しみ合い、怨み合い、いがみ合いを求める。そういう空気があいつらには一番心地いいんだ。人々の怨嗟が一番の喜びなんだ」
神妙になりすぎないよう気をつけながら、楓はじっと桐午の言葉を胸に取り込んでゆく。
「あいつら、ひとを怨み合うように仕向け、苦悶するよう罠を仕掛けてきやがる。そそのかされて怨念に翻弄されまくって、結果死んじまう奴もたくさんいた。そもそもな、おれたちなんざ無視して怨妖同士で勝手にやってくれるんなら、いねとら組なんて生まれなかったさ。でもそうじゃなかったから、おれたちはいまこうしているんだよ」
「祓わずに見逃す怨妖はいるんですか? その、ひとに迷惑をかけないから、ってことで」
「ないね。怨妖は秩序を乱す存在だ。見逃しでもしたら、こっちが足元すくわれてすべて手遅れになる。……『秩序』なんて言葉、そんなお子ちゃまな黄表紙読んでるお前には、理解できないだろうけど」
「し。失礼ね。秩序くらい判りますッ!」
むきになる楓に、桐午は軽く驚いたふりを見せる。それはそれでまたカチンとくる。
「そうやってすぐ上から目線で偉ぶるんだから」
「当然だろ。―――ただな。おれの〈色〉を奪ったあいつは、いまだに祓えてない。莫迦にしてるのか、あれから何度か現れては挑発してって、祓おうとするとふっと消えやがる」
祓えていない怨妖が、いる。
なんでもないことを聞いたふうを装いながら、逃げきれる怨妖もいるのかと、楓は心に留めておく。
「ま、〈色〉は奪われたけど、お前がいればなんとかなるからな」
「役に立っている、ってことですか。そりゃあそうですよね。だって、こんな目に遭わせられてるんだもの、お礼くらいあって当然ですよ」
「調子に乗ンな、ぼんくら」
「!」
目を眇めて桐午は冷めた声でそう言い、再び絵に向かいだした。
(ぼん、ぼんくらって! 誰のおかげで〈色〉が見えるようになったと思ってるのよッ)
―――と文句を言おうにも、絵に向かう桐午の集中した表情に気圧されて、結局なにも言えずに自分の胸の内で吠えまくるしかなかった。
もやもやした気持ちのまま黄表紙の続きを目で追いだしてしばらくしたときだった。
「―――亨、ってのは、そんなにいい男だったのか」
いきなり桐午が訊いてきた。
ぱらりと、指の隙をついて黄表紙が一枚めくれる。
心の臓と、頭の中で動いていたすべてのものが、止まる。
聞き間違いかとも思ったが、桐午の視線は、不自然な形で手元に落とされたままだ。
『亨ってのは―――』
(どういう、こと……)
『亨って―――』
どうして。
どうして彼が亨のことを知っている? 話したことなんてないのに。
(―――!)
はっと眼裏にひとつの光景が浮かんだ。
今日、長静寺から帰ったとき、店の前に桐午がいた。
いつもなら店内の床几に座って楓の用意ができるのを待っているのに。
考えてみたら、いくら楓が言いがかりをつけたとはいえ、彼の傍若無人な性格からすると店の外にいるのは不自然ではないのか。
もしかして。
知られた。
「お父っつぁんから聞きだしたんですか、いねとら組の特権で」
「んなことするかよ」
「でも」
辰吉が赤の他人である桐午にほいほい亨のことを教えるとは思えない。
じぃっと睨み据えると、根負けしたように桐午は肩をひとつすくめた。
「最初はね。最初はそのつもりだったけど、やめたの。ちゃんと普通に教えてもらった」
「お父っつぁんが簡単に教えるわけないわ」
「人徳だよ、人徳」
胡乱な眼を緩めることなく睨み続けると、ややして桐午は頭を掻いて答えた。
「自分の養い子のことを、辰吉っつぁんも心配してるんだよ」
更に重ねる不審の眼。
互いに牽制しあうように視線を戦わせていると、盛大な溜息をついて、桐午は膝に手を置いてこちらに向き直った。
「―――言うべきじゃないとは思うんだけどさ。あのな、楓。お前の空元気は、痛々しいだけなンだよ」
思いもしない発言に息が止まった。ずっと目をそらし続けていた深くて底のない穴に、背後から突き落とされた気がした。
畳の上に座る足がなにもない虚空を踏んでいるようで、ひどく心許ない。
文句を返したくても、言葉が、見つからない。
「辰吉っつぁんも表には出さないけど、心配してンだよ」
「な……、そんなの、そんなの……桐午さんには関係ないし……」
こんな男に、胸の奥深くで自身を支えていたよすがを晒されてしまうだなんて。
情けないけれど、動揺を隠せない。懸命に足掻いて隠し続けていた素が暴かれてしまったのだ。
激しい動揺に、楓は知らず右手を引き抜いてしまう。
「あ。お前。いきなり手ェ離すんじゃねェ」
詰め寄る桐午に、いつもだったら『ごめん』だったり『仕方ないでしょ』と反論できるのに、小さく詰め寄られたただそれだけで過剰に混乱して、頭はいっぱいいっぱいになってなにも言えなかった。
だから、後ろにいざって逃げるしかなかった。
桐午もいつもなら文句を言ってそれで終わりなのに、今日に限って真面目な顔になって更に一歩ぶん、にじり寄ってきた。座っていた楓の姿勢が、後ろへと崩れる。
「手ェ離すンなら、口吸うぞ」
冗談のかけらもない声。
唇が触れ合えば、僅かな間だが手を離しても桐午に〈色〉が戻ってくる。
「や。ヤですよ」
手をついて、体勢がこれ以上崩れるのを堪える楓。その瞳に映り込む真剣な顔をした桐午。
桐午の耳に、澤野やでの辰吉の声がよみがえる。
『楓は死んだ従弟の娘でね。あっしの娘として引き取ったんですよ』
『どういうわけか倅の亨に心底ッから惚れてくれてね』
『許婚になれたことを本当に喜んでいて』
『なのに亨の奴ァ、楓の昔の幼馴染に手を出しやがって。しかも人妻ときてやがる』
『楓の幼馴染を悪く言いたかァねェが、あれはひとのクズだね』
『旦那とつるんで美人局しやがった。亨に借金こさえさせて金を搾り取ったら取ったで、ハイさようならとあの世に放り込んで、自分たちはドロンよ』
『色男だと持ち上げられてばかりで浮かれてた亨も亨だ』
『遊び人を気取っても結局は、心の弱ェ男だったのよ』
『楓も亨のことなんざ忘れて、あいつよりもいい婿を取ってくれりゃァいいんだ』
商品を整えたり客の相手を間に挟みながら、辰吉はそうしんみりと教えてくれたのだ。
「ねえ、絵、描かないと」
自分を捨てて人妻に走り騙されて死んでいった男のことを、楓は二年経ってもいまだに想い続けているのか。
「桐午さん。ねえ、こういう冗談、やめてくださいってば……」
楓の弱い声に、桐午の眼差しが、いっそう真剣な色になる。
一歩、楓に詰め寄る桐午。楓が身をよじると、更にそちらへと膝を進める。
触れ合うほどに近付く顔と顔。
(だめ)
視線が、絡み合う。
(来ないでやめて)
―――一瞬のあと、桐午の唇が、攫うように楓のそれをふさいだ。
桐午の美しい容貌に酔ってしまったのか、妖しい雰囲気に呑まれたのか。
それとも素を晒されてしまったせいなのか。
抗うことも忘れて、楓は桐午の唇を受け入れてしまっていた。
甘く優しくいたわるような濃厚な接吻。
桐午のしなやかな指が、ひとつに結い上げた楓の髪の間に入り込んだ。
身体が密着しだし、倒れ込む体勢になる。肩の裏側が畳に当たったことで、ふと楓の頭に冴えたものがすっと差し込まれた。
自分の置かれた状況に、ようやく気持ちが戻ってくる。
桐午の胸を、力の入りきらない手で押し返した。
それが気持ちの切り替わる合図になったのか、ほんの僅かに身を震わせて桐午は、衣擦れの音を立ててすっと身体を離していった。
気まずくて、顔を見ることができない。
しばらくの沈黙のあと、無言でそのまま桐午は絵に向かう。
胸が、痛い。
桐午の身体が離れたことで、激しく胸を叩き続ける鼓動に気がついた。
いま、―――起きたことは。
(あたしいま……いま、いまあたしって)
目の前に迫る桐午の身体。どこか獰猛な色をはらんだ眼差し。
唇。
淡い朱色のそれの柔らかな感触。
頬に触れる自分以外の肌。
事故、なのか? それとも―――。
耳の奥が、鼓動の強さに引きずられて重たい痛みを訴える。
(いまのって。あ……。いまのって……!)
口を、吸われた。
頬の内側を、舌の奥を、貪るように舐めまわされた。
黄表紙の恋愛ものでも、こんなの、知らない。あっても唇が軽く触れる程度で、その先の展開なんて描かれないから。
口を吸われるということが、こういうものだとは思わなかった。
身体にのしかかってきた桐午の重み。
口の中に残る、舌にかきまわされた生々しい感触。
けれど―――気持ち悪かったとかそういう嫌悪感が、なかった。
甘く心地のよい痛みが胸に残っている。ずっとこの痛みに酔いしれていたいと、そう感じてしまうほどに。
信じられない。
彼の唇に、惹きこまれてしまった。
拒絶もせず彼の唇を受け入れてしまった自分に、呆然となる。
楓がひとり混乱と自己嫌悪に陥っていると、
「―――悪かった。亨のこと」
静かに、桐午は言った。
―――亨。
その名に、唐突に、冷たい現実に戻された。頭の奥が、きゅっと縮み上がる。
(あたし、は)
そうだ。自分は、亨の許婚だ。
たとえ彼がいまこの世にいないのだとしても、それでも、亨以外のひとに気を許してはいけないのに。
(あたし、なんてことを……!)
亨を、裏切ってしまった。
胸の底が、どろりと暗いうねりを返してきた。
「帰ります」
桐午を見ることができなかった。桐午からの返事もなかった。
髪を整え着物の乱れを直し、後ろを振り返らず逃げるように部屋を出た。不便すぎるからと数日前に守り袋を貰ったので、屋敷でひとりになっても迷うことはなくなっていた。
玄関に向かう途中、外から戻ってきたらしい紗一とすれ違う。
「あれ? もう帰るの? 今日は早いんだね」
なにも知らない紗一は、能天気な調子で声をかけてくる。唇を貪られて紅がはみ出しているかもしれない。そのまま小さく頭だけを下げ、楓は紗一の横をすり抜けた。
「? 楓ちゃん……?」
彼女の様子に首を傾げながらも紗一が書斎を覗くと、ひとり、萌黄色の筆を動かしている桐午の姿があった。
楓がいないのに顔料を使い絵を描いている桐午。
ははーんと、なにがあったのか紗一にはぴんときたのだった。




