49 アドルフの友人
翌朝、今日もモラディアには雨が降っている。だが昨日とは違う。誰に配慮をしているのか、確実に地面に打ちつけるその足音は静かなものになっていた。
街の外れに続く獣道を、二人の人影が進んでいく。
赤い髪の青年と、碧い髪の青年。彼らは生い茂る葉から滴る水滴を払いながら、一歩一歩、確かな足取りで前進していた。
「ダリオン、もうすぐ着くから!」
「さすがに遠いね」
もしこの光景を王都に仕える重臣が見たならば、泡を吹いて倒れるに違いない。国を背負う王子が、泥にまみれながら、道なき道を進んでいるのだから。
アドルフが先導しているのは、昨日カイナに教わったという近道だった。最初に向かったルートよりはマシなのだろうが、それでも歩きやすい街道とは程遠く、山道と呼ぶのさえ躊躇われる難所だ。
「アドは、よくこんな道を抜けられたな……」
降り注ぐ雨以上に、自分の汗で衣服が重くなりそうだった。 ダリオンとて、外遊で荷馬車に揺られる日々を耐え抜く体力はある。だが、自らの足でこれほどの距離を、それも悪路を踏破する経験は皆無に等しかった。
(これなら、ヴァルクにもう少し鍛えてもらっておくんだったな……)
息を切らすダリオンの視線の先では、護衛であるアドルフが、行く手を阻む枝葉を丁寧に折りながら進んでいる。
「昨日カイナに教えてもらったからね! 最初に行った道より、ずっと歩きやすいよ!」
振り返るアドルフの笑顔に、疲れの色は微塵もない。悪意がないからこそ、その底知れぬタフさが恐ろしかった。 ダリオンは苦笑いを浮かべつつ、改めて覚悟を決めた。
(……これしきで、へこたれてはいられない。兄上たちに顔向けができなくなる!)
着ている衣服が汗で重たくなる頃、ようやくその村が姿を現した。
「ここが、モノクロスか……」
アドルフから「放棄された村」とは聞いていたが、実際に目にすると胸に迫るものがあった。
崩れかけた屋根、荒れ果てた通り。
こんな場所で、目の見えない少女と兄の二人だけで生きてきたのだ。自分なら到底耐えられないであろう過酷な環境に、ダリオンは二人の並々ならぬ強さを痛感した。
一度訪れているアドルフは、迷うことなく村の奥へと歩を進めていき、ダリオンはその背中をただ追った。そしてある小さな家に着く。その家は、周囲の空き家とは明らかに異なる異彩を放っていた。
「ダリオン、ここがカイナの家だよ」
すべての窓に、隙間なく黒く分厚いカーテンが取り付けられているのだ。
一見すれば異様で、気味悪ささえ感じる光景。だが、ダリオンは直感した。
それは光を拒むための拒絶ではなく、光を恐れる妹を何としても守ろうとする、兄の痛切なまでの優しさなのだと。
「……アド、まずは君から声をかけてくれ。知らない者が突然現れては、彼女を怖がらせてしまうかもしれないからね」
「うん」
アドルフが家の前で声を張り上げる。
「カイナ! いるかい!?」
その声は静まり返った村に吸い込まれていくかと思われたが、程なくして奥からかすかな反響があった。
「……ルフさん! ……って……ください!」
何重もの扉を通り抜けて届いた微かな少女の声を、ダリオンの耳もようやく捉えた。
「ダリオン、入っていいみたいだ。先に友達を連れてきたことを話してくるよ」
アドルフには、彼女の声がはっきりと聞き取れているようだった。
その超人的な感覚に驚きつつ、ダリオンは「ああ、頼むよ」と短く応じた。
アドルフがゆっくりと玄関を開け、中へと入る。
昨日の記憶を頼りに、分厚いカーテンの隙間から漏れるわずかな光を拾って廊下を進む。部屋の奥では、昨日と同じように少女が待っていた。
「カイナ、教えてもらった道、助かったよ! おかげで早く着けた」
アドルフの役に立てたことが嬉しく、カイナは少し照れくさそうだった。
「アドルフさんも、また来てくださって嬉しいです。……ところで、今日はもう一人いらしているんですか?」
視力を持たぬ彼女の感覚は、外に控えるダリオンの気配を敏感に察知していた。
「昨日話した旅を一緒にしている友達を連れてきたんだ。でも、知らない人が急に入っては怖いかと思って、まずは君に伝えようと思ってね」
その言葉に、カイナは安堵の吐息を漏らした。
アドルフの友人ならば、きっと彼と同じように優しい人なのだろうとカイナは思う。
一度言葉を交わしただけのアドルフに対し、カイナはいつの間にか、兄に似た絶対的な安心感を抱き始めていた。
「アドルフさんのご友人なら、問題ありません。こんな家ですが、どうぞ上がっていただいて」
「ありがとう、カイナ。今、呼んでくるね!」
すぐに、アドルフの軽やかな足音とは異なる、重みとしなやかさを感じさせる別の足音が廊下に響いた。やがて、その気配は自分の正面へと静かに落ち着く。
「カイナさん、はじめまして。ダリオンといいます。今は、ここにいるアドルフと共に旅をしています」
その声はただ優しいだけでなく、相手を深く尊重するような、凛とした響きを持っていた。
視覚を持たぬカイナにとって、それはまるで深く静かな湖のほとりにいるような、不思議な安らぎを感じさせる「音」だった。
ダリオンが王族であることをカイナは知らない。しかし、その声から漂う類まれなる品格に触れ、彼女もまた自然と背筋を伸ばし、精一杯の礼節をもって応じた。
「はじめまして、ダリオンさん。私はカイナ・アイアンパースと申します。……見ての通り、私は目が見えません。至らぬ点や、お見苦しい姿をお見せしてしまうかもしれませんが、どうかご容赦ください」
だんだんと目が慣れていき、少女の顔が見えてきた。そしてその丁寧な名乗りに、ダリオンはゆっくりと頷いた。
本来、オルヴィン・ナクトルの追っ手がどこに潜んでいるか分からない現状、素性を明かすのは致命的なリスクを伴う。追われる身であれば、沈黙こそが最大の盾だ。しかし、目の前の少女が纏う空気と、その真っ直ぐな言葉に触れたとき、ダリオンの直感は別の道を示した。
――この少女とは、絶対的な信頼関係を築くべきだ。
「アド……。カイナさんには、我々の事情をすべて話した上で、協力を仰ごうと思う」
その言葉に、アドルフは一瞬驚きの表情を見せた。だが、すぐにあの帝都を脱出した日のことを思い出す。
旅の初日、ダリオンとヴァルクは自分たちにその正体を明かした。あの時、ダリオンは「信用は戦力になる」
と言い切った。
もしあの時、お互いが素性を隠し、疑念を抱えたままラパンを目指していたら、きっと今自分たちはここには立っていなかっただろう。誰かが欠け、あるいは道半ばで倒れていたに違いない。
信頼が奇跡を呼び寄せることを、アドルフは誰よりも知っている。だからこそ、彼はダリオンの決断を静かに受け入れ、力強く頷いた。
【あとがき】
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