22 魔物
少年が思っていたよりも遥かに剣の稽古は過酷だった。
いつも汗だくになりながら、風呂に入る余裕すらなく、家の玄関で力尽きるのが日課になった。
ドロミンの口調はいつも優しかったが、稽古の内容はまるで別物だった。
まず先生の剣が見えない。いや実際には見えないくらい速いのだ。
そして威力が尋常じゃない。いったいどれだけの研鑽を積めば、
こんなにも速く重たい剣を振れるのか理解できなかった。
だが、現実として成り立ってしまっている。
「いつか私くらいになれるよ。私の教え子の中では素質があるからね」
そう言われて嬉しかったが、その日も見えない剣撃が少年の頭をポンと気持ちのいい音と共に叩かれ、少年は気を失った。
そんな日が何日も続く。
普通なら嫌になるだろう。普通なら逃げだすだろう。
けれど少年が逃げ出さなかったのには、それでも続けたのは理由がある。
訓練が始まってから数日後に見たあの光景を忘れられないからだ。
稽古を始めてからすぐのことだった。
村の付近に魔物が出たという報告から、ドロミンが魔物を目撃した場所に向かおうとしていた。
「ようやくお礼ができる」
そう言いながら、準備しているドロミンのことを少年は心配そうに見ていた。
そんな教え子でもある少年に、ドロミンは提案する。
「一緒に来る?」
魔物は怖いと教わっていたが、ドロミンが一緒なら何故か安心だという子供ながらの確証があったのかもしれない。
あとで、両親にこっぴどく怒られることすら想像も出来なかったのかもしれない。だから少年は二つ返事でついていくことにした。
外へ行くと、ほんの少しだけ雪が降り始めていた。
二つの人影が、冬の冷たい森を抜けていく。
既に夜ではあったが、雪が降っているのに、月はしっかり顔を覗かせており、
積もった雪に月明かりが反射して夜道を明るく照らしていた。
しばらく歩いているとドロミンがこちらに静止するよう手を上げた。
そしてひょいひょいと手招きをしてくる。
森の茂みに身を伏せながら、小さい声で確認してくる。
「あれ、見える?」
ドロミンが指差す方を見ると、丘の上で遠くを見ている一匹の獣を見つけた。
とても大きい。結構な距離があるのにもかかわらずそれは巨大に感じた。
少年のまだ伸び切っていない身長も相まって余計にそう感じたのかもしれない。
そして何よりその姿は、息を呑むほど――美しかった。
「きれい……」
思わず、小さく呟くほどにそれは美しかった。
そしてドロミンはその魔物の名前を教えてくれる。
「あれは、“ルナプス”。氷の魔法を使ってくる魔物よ」
「魔物も魔法を使えるの?」
「えぇ、そうよ」
(魔物でさえ魔法が使えるのに……)
”魔物でさえ”という言葉は正しくないだろうが、
少年としては、そう感じずにはいられなかった。
だが、そんな感想はすぐに消え去り、もう一度その魔物を見る。
その容姿は、純白の毛を纏った大きな狼だ。
そして改めて美しいと思ったと同時に、あんなのに人間が勝てるはずないとも思えた。
だからこそ少年はドロミンの裾をギュッと握る。
「先生、やっぱりあぶないよ……。まだ見つかってないし、帰ろ……?」
それは素直な感想だ。
遠目にみても、大人の身長くらいの大きさだと思えた。もしかしたらそれよりも大きいかもしれない。
だが、ドロミンは優しく少年の手を握り、優しく離した。
「ここで少し待ってて」
そして背中から剣を抜いた。
ドロミンの剣はそんな特別なものとは思えなかった。
女性が使いやすいように、少しだけ剣が細いように見える。
しかし男性が握ったとしても、剣に振られることもありそうな重量感はあった。
少年が使えば、間違いなく剣に振られて怪我をするだろう。
ドロミンはゆっくりと前へと歩き始める。そして少し開けた場所にその姿を晒した。
それは命知らずが取るような行動だ。だが、その立ち居振る舞いは相手への敬意も感じられる。
ルナプスと名付けられたその狼が、ドロミンの姿を捉え、丘から降りてくる。
雪とともに、大きな白い塊が降ってきた。
そして、互いに視線を交わす。
ドロミンが剣を構えたその瞬間―――“人”と“魔物”の戦いが静かに始まった。
少年は長く息を呑むような戦いが起きると思っていた。
しかし命のやり取りというのは一瞬だった。
魔物が吠えたと思ったら、魔物の周囲に幾重もの氷柱が、宙に形成されていく。
先端が鋭く尖った氷柱は、完璧な円錐ではなく、歪みや欠けが混じっていた。
それがかえって、自然の脅威を感じさせた。
そしてもう一度吠えると、一斉にドロミンのもとへ飛んでいった。
あんな魔法をくらえば、文字通り即死だ。
「先生!」
少年は思わず叫んでしまう。
だが、既にドロミンは“そこ”にいない。
少年には、何も見えなかった。
ただドロミンが、魔物の前から後ろに一瞬で移動した事実しか分からなかった。
その幾重もの形成された氷柱はドロミンが居たであろう場所を空虚に串刺しにしているのみ。
次の瞬間、白銀の狼は静かに、雪の上へと崩れ落ちた。
瞬きですらしてはいけなかったのだと、その時に気づく。
頭の中で整理が追い付かない中、少年はなんとかドロミンに駆け寄った。
「先生! だいじょうぶ?」
何が起きたのかよく分からなかった少年は、そう聞くしかなかったのかもしれない。
ドロミンは微笑みながら、少年の頭を撫でる。
「これくらいなんともないわ。それよりどこか怪我とかしてないわね?」
「うん!」
少年は自分の身体を広げて、無事であることを精一杯示した。
「よし! それじゃあ今日は、もう寒いし帰りましょうか。……とその前に」
ドロミンはおもむろに魔物の方へ近づき、膝をついた。そして小さな短剣を取り出し、魔物の肉を剥ぐ。
そして中からある物を取り出した。少し透明な黒い石が出てくる。
それが“魔石”であると少年も気づく。
「先生! それが魔石…?」
ドロミンは頷き、ナイフを腰袋へとしまい、少し血のついた魔石を袖でふき取り、少年へと渡す。
「そう、これが“魔石”。いつか君も、自分の力で手に入れられるようになるわ」
魔石を受け取った少年は、魔石と魔物を交互に見ながら言う。
「僕もなれるのかな?」
「大丈夫。私が教えるんだから!」
そう言って、ドロミンは再度少年の頭にそっと手を置き、撫でる。
「さぁ! 帰りましょうか。みんな心配してるかもしれないしね」
「うん!」
少年は、ドロミンの手に引かれながらその場を後にした。
手を引かれながら、少年はふと後ろを振り返る。それはあまりにも大きな獣だった。
村の人が束になって掛かっても、きっと勝てない強大な獣。
(もしかしたら帝国にいる軍人さんでも勝てないかもしれない……)
だけど、隣で手を握っているドロミンがいとも容易く倒したのである。
その事実が少年を高揚させる。
そしてその手は自分の母親と同じく優しくて、大人にしては小さいと感じる手だった。
(ぼくにもなれるのかな……)
少年は手をぎゅっと握り返した。
積もりはじめた雪道を二つの小さな足跡が村の方へと続いていった。
【あとがき】
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