10 鶴の紋章
帝国を出立してから、ちょうど三週間ほどが経過していた。
すれ違う荷馬車の数が、少しずつ増えてきている。どうやら貿易都市ラパンが近いようだ。
トラヴィスは今日も、すれ違う荷馬車に挨拶をし、少しばかり世間話を交わしていた。
気の良さそうな年配夫婦が、小さな荷馬車に腰かけていた。
後方には護衛と思しき男の姿も見える。ある程度の富を築いた人物なのかもしれない。
年配の女性が声をかけてくる。
「そちらはラパンに向かうのかい?」
「ええ、そうなんです。荷物と一緒に、ラパンで商売を始めようと思いまして」
「あら、そうなの。ラパンまでは、あと三日もかからない距離よ。ごゆるりと楽しんでね」
「ありがとうございます」
軽く挨拶を交わし、荷馬車を再び走らせようとしたその時――
車輪の回り始める音に混じって、年配夫婦が小声で話す声が耳に届いた。
「ラパンは、最近なにやら変な輩が蔓延っておるからなぁ……」
「あの暗い茶色のローブを着た人たちね。一昨日出発するときも、いたわね……」
(暗い茶色のローブ……?)
ラパンで何か怪しい団体が活動しているのかもしれない。
そう思いかけたが、トラヴィスはそれ以上考えるのをやめた。
(あと三日で、夢にまで見た――貿易都市ラパンだ)
商業と貿易の都市。
この世界に存在する七支樹のうちの一本、風の七支樹がある都市でもある。
歴史を紐解けば、七支樹を持つ国は、常に戦争に巻き込まれてきた。
しかし、七支樹の多くが大陸の西側に偏っていることが、ラパンに長い平和をもたらした。
さらに、帝国が中央に位置していることで、帝国と和平を結んでさえいれば、地理的にも侵略を受けにくいという利点もある。
だがそれだけではない。この都市が栄えた最大の理由は、物流だ。
数多の品がラパンに集まり、長きにわたる平和が輸送リスクを低減させ、安全の担保となっていた。
近隣諸国とも揉めることなく、永世中立を謳うことで、他国から戦争の口実を与えないようにしていたのも功を奏したのだろう。
だが、決して軍備が劣っているわけではない。
北方にある魔導国家イレインとの交流により、古代の魔道具を数多く扱える都市へと発展させた。
都市内であれば、強力な魔装兵がどんな勢力も鎮圧できる――そんな噂もある。
また、風の魔法は単体では扱いづらいとされるが、他の魔法との相性が良いとされている。
帝国にある火の魔法と組み合わせることで、強力な炉が完成したのも、風魔法による送風の技術があってこそだ。
貴族や王族向けに作られた冷風装置も、魔導国家イレインとの共同開発によるものだという。
そして、この都市で最も活気づいているのは、なんといっても商人たちだ。
多くの品が行き交うからこそ、商人の活気が都市の活力となる。
だからこそ、商人にとっては憧れの地。
『商人は、食うに困らないのが三流。儲けて二流、ラパンで商売して初めて一流』
そんな言葉があるほどに――。
ラパンまであと三日と聞き、荷馬車の揺れもどこか軽やかに感じられるようになっていた。
トラヴィスはふと、荷馬車を止めるよう合図を出す。
「少し休憩しよう。荷物の確認もしておきたいしな」
目的地まであとわずかとはいえ、休息は重要だ。
ましてや、いつ襲われるとも知れぬ状況であれば、なおさらである。
荷馬車が止まり、皆が水を飲んだり荷物を点検したりしている中、トラヴィスは一枚の封筒を取り出した。
帝国の印章が押されたそれは、今回の依頼に関する報酬の証書だった。
「……ラパン到着後、指定の商館で受け取り。対象の身柄が無事であることが条件か」
小さく息を吐く。
「まったく、王族の護衛なんて柄じゃないんだがな……」
そんな考え事をしていると、前方に立派な鶴のマークがペイントされた幌をたなびかせた荷馬車が見えてきた。
荷馬車はかなり大きく、自分たちのものと比べると二倍ほどの大きさだ。
(鶴……? 見たことのないマークだ……)
トラヴィスは行商としてだけでなく、長年商人として生きてきた。
だからこそ、ほとんどの商会のマークには見覚えがある自信があった。
それも、ラパンから向かってくる荷馬車で、これほど大きなものとなれば、相当な有名商会のはずだ。
しかし、いくら昔の記憶を掘り起こしても、その鶴のマークには心当たりがなかった。
その荷馬車が近づいてくるのを見て、ヴァルクが動く。
「殿下、念のため荷馬車の中にお入りください」
ダリオンは頷き、荷馬車の中へと入っていった。
やがて荷馬車は、自分たちの目の前で止まる。
そしてその荷馬車から現れたのは、一風変わった鎧を身に着けた男だった。
騎士が着るような板金鎧ではなく、一見軽装に見えるその鎧は、そこらの兵士のものとも異なり、細部まで装飾が施されている。
帝国でも見たことのない様式だ。そして、腰には剣のようなものが鞘に収まり、ぶら下がっている。
トラヴィスの目から見ても、あまりにも長い剣だった。
それはこの世界の鍛冶師でも滅多にお目にかかれない「太刀」と呼ばれる武器である。
もちろん鍛冶師でもないトラヴィスはそれがかなり特異なモノであると見抜けなかった。
男は、気前の良さそうな声で話しかけてきた。
「おぅ、そこのあんた!ちょっと聞きたいことがあるんだけどよ。ベルナっていう小さな町のこと、知ってるか?」
ベルナとは、道中で立ち寄った交易町のことだろう。
トラヴィスが答える。
「ベルナなら、この道をまっすぐ西に進めば着きますよ」
「おぅおぅ、ありがとうなぁ!ところで、あんたらラパンに向かうのかい?」
男は何気ない口調で尋ねてくる。
「はい、ラパンで商売をしようと思いまして……」
この返答に、男の目が一瞬鋭く光る。
その視線は、ほんの一瞬だけ荷馬車の前に立つヴァルクへと向けられた。
だが、あまりにも短い一瞬だったため、トラヴィスは気づかなかった。
「そうかい、そうかい。ちなみにあんた、かなりのところの坊ちゃんかい?」
そんな成金のような見た目をしているつもりはない。
だからこそ質問の意図が分からず、トラヴィスは素直に答えてしまう。
「いいえ、ただの一介の商人ですよ?」
男はニヤリと口元を歪め、小さく呟くように言った。
「当たりだ」
そして、それは一瞬の出来事だった――。
その男が、剣をとてつもない速さで抜いた。
それはこの大陸では珍しい剣技――見る者が見れば、それが「抜刀」という技術だと分かるだろう。
刃はトラヴィスの首元へと迫る。だが、その死の刃は寸前で止まった。
次の瞬間、けたたましい金属音が響いた。
トラヴィスの前に、大きな剣が二つ重なり、視界いっぱいに広がる。
衝撃に腰を抜かし、トラヴィスはその場に倒れ込んだ。だが、そんなことを気にしている余裕はない。
剣の音に即座に反応したガルドが荷馬車から飛び出し、トラヴィスを抱えて荷馬車の中へと押し込む。
ミレイナとアドルフが駆け寄る。
「あんた!」
「トラヴィスさん!」
幸い、ヴァルクのおかげで怪我はなかった。だが、心配せずにはいられない。
切り結んでいた剣を弾き、距離を取ったヴァルクは短く後方に叫んだ。
「殿下を頼む!」
それだけで十分すぎる指示だった。
リナスはすでに手綱を握り、すぐに相方へ声をかける。
「ガルド!」
護衛である二人の動きは素早かった。
ガルドに至っては、覚悟においても早かった。
「リナス、先に行け! 俺は旦那を援護する!」
その言葉に、リナスも迷わない。
一刻の迷いが、取り返しのつかない結果を招くかもしれない。
「……分かった!!」
ガルドは、斬りかかってきた男とヴァルクを交互に見た。
(あいつ……ヴァルクの旦那と互角に剣を交えた。こいつはまずいかもな……)
遠ざかっていく荷馬車をちらりと見て、男はわざとらしく残念がったように言った。
「こいつは残念だなぁ。お前ら、殿の命令だからな。仕方ないが、足を持って行っていいぞ。俺は……こいつを殺る」
口元には獰猛な笑みが浮かんでいる。
そしてその男は名乗り始めた。
「俺の名はナガヨシ。お前の名は?」
指示された数人が馬を荷馬車から外し始める。
どうやら荷馬車を捨て、ダリオンたちを追うつもりのようだ。
ヴァルクは一気に動こうとしたが、目の前の男から目を離せなかった。
それはつまり――視界に留めておかなければならないほど、危険な相手ということだ。
ヴァルクも短く名乗った。
「ヴァルクだ……」
その名を聞いた瞬間、ナガヨシの顔が歓喜に染まった。
「ヴァルク……!? 帝国の英雄か……こいつぁ大物が釣れた! きっとお前の首を持っていけば、殿も喜んでくださるだろうな!」
そしてナガヨシと名乗った男は、武器を構えなおす。
「さて――英雄とやらの腕前、見せてもらおうか!」
【あとがき】
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