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クララの夢

 賑やかな晩餐の余韻が残る屋敷の中で、そこだけが切り取られたように静まりかえっていた。

 伯爵の執務室。琥珀色のランプが、壁に並ぶ古い蔵書の背をぼんやりと照らしている。


「イルムガルト殿。失礼を承知で伺うが――その腕の火傷の痕、同心円状になってはいまいか」


 机を挟んで向き合った伯爵の問いに、イルムガルトは息を呑んだ。まだ誰にも見せていない、包帯の下の傷。


「……伯爵様、どうしてそれを。まだ、誰にもお見せしてはおりませんが」


「やはりか」


 伯爵は椅子の背に深く体を預け、天井の闇を見上げた。その瞳には、領主としての重責と、代々の血筋が抱えてきた「澱」のようなものが滲んでいる。


「実は、あの森の祠には古い伝承があってね。元々は精霊『ニックス』を祀っていたというのだ。ご存じの通り、ニックスは水にまつわる精霊だ。草木生い茂る森とは、本来関わりを持たぬはずの存在なのだがね」


「ニックス……。では、あの同心円は」


「そうだ。静かな水面に一滴の雫が落ちたときに広がる、水紋すいもんだよ。あの傷は、火傷でありながら、水のことわりを持っているのではないか」


 イルムガルトは言葉を失い、自らの右腕をさすった。熱い痛みの中に感じていた、あの捉えどころのない冷たさ。

 森の深淵に、なぜ水の精霊が閉じ込められているのか。あるいは、何かが「水」の姿を借りてそこに在るのか。

 彼女の胸の奥で、世界の裏側に隠された理を覗き込みたいという、危うい誘惑が静かに首をもたげていた。


 その頃、主寝室へ続く廊下では、幼い足音がトテトテと響いていた。

 久々に両親が揃った晩餐。はしゃぎすぎて母親に「淑女は騒いではいけません」とたしなめられたことも、今となっては誇らしい思い出のように反芻される。

 本当はもっと夜更かしをして、父の膝で王都の話を聞きたかった。けれど、大人たちの「早くおやすみなさい」という優しい促しには逆らえず、クララは小間使いのリーゼとともに寝室に入った。


「旦那様と奥様がお戻りになって、本当によろしゅうございましたね、クララ様」


 リーゼが寝支度を手伝いながら、弾んだ声で語りかける。


「ええ。二人ともお忙しいから、仕方がないけれど……寂しかったもの」


「これからは毎日、賑やかな食卓になりますね」


「でも、あんなにご馳走が出るのは、きっと今夜限りでしょ? お父様、贅沢は敵だっていつも仰るもの」


「ふふ、それは旦那様の方針ですから。でも、私がおいしいおやつをこっそりお持ちしますから、元気を出してくださいな」


 リーゼのとりとめのない会話に、クララは少しだけ笑った。けれど、柔らかい寝着に着替え、天蓋付きのベッドに腰を下ろしたとき、その小さな肩が微かに震えた。


「……ねえ、リーゼ。私、夜に眠るのが、少し怖いの」


「えっ……」


 リーゼの手が止まる。お守りを持ってからは、ぐっすり眠れているはずではなかったか。


「最近、同じ夢ばかり見るのよ。ずっとずっと、同じ夢」


「どのような夢でございますか。よろしければ、私にお話しください」


 クララは膝を抱え、窓の外の暗い森へ視線を投げた。


「若い……と言っても、私よりもずっと年上の。そう、王都にいるお兄様と同じくらいかしら。青い髪をした、とても綺麗な人が、水辺にぽつんと立っているの。それでね、『クララ、おいで』って呼ぶのよ」


「それだけでございますか?」


「覚えているのは、それだけ。でも……その人の目が、すごく寂しそうなの。一人でずっと、冷たい水の中にいるみたいに」


 その言葉が漏れた瞬間、部屋の空気がわずかに冷えたような気がして、リーゼは慌ててクララの肩を抱き寄せた。

 森の祠に祀られた水の精。その「寂しさ」に呼び寄せられたのがクララだとしたら、あのお守りはいつまで彼女を繋ぎ止めておけるのだろうか。


 外では、風が木々を揺らし、葦笛のような寂しい音がひとすじ流れていった。


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