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二つの世界のあわいで

 自らの内に、冷たく清らかな水が満ちていく。

 その感覚に、クララは最初こそ戸惑ったが、やがて呼吸をするのと同じように、ごく自然にそれを受け入れていた。


(ニックス、大丈夫? 私の中は、苦しくはない……?)


(……クララ。君の魂は、なんと深くて澄んでいるんだろう。そして……君もまた、こんなにも深い孤独を抱えていたんだね)


 直接、脳裏に響く声は、かつて夢の淵で聞いたものよりもずっと近く、親密だった。


(なにか……世界が、とても薄くなってしまった気がするわ。今まで見ていた景色が、薄い布の向こう側に透けているみたい)


(当然だよ。今の僕たちは、人の世と精霊の世の『あわい』に立っている。どちらの世界も等しく、僕らにとっては透き通った影のようなものだ)


 その時、外界の沈黙を破るように、扉が鋭くノックされた。


「クララ様、イルムガルトです」


「……どうぞ、お入りなさい」


「失礼いたします」


 音もなく入ってきたイルムガルトの姿を、クララは静かに見つめた。

 応じた声は、たしかにクララのものであった。けれど、そこには「温度」がなかった。一音一音に宿るはずの、喜びや不安、あるいは親愛といった情念のすべてが削ぎ落とされ、研ぎ澄まされた刃のような響きだけが部屋に満ちた。


「……クララ様」


 イルムガルトが、クララの顔を覗き込み、一歩踏み出した。


 その瞬間だった。

 固い石造りの床が、微かな音を立てて波打った。

 水などどこにもない。けれど、イルムガルトの足元からは、たしかに「水紋」が同心円状に広がり、壁際まで走っては消えた。


「……あなたは、どこへ行ってしまわれたのですか」


 イルムガルトの声が、微かに震える。目の前に座っているのは、馴染み深い少女の形をしている。けれど、その魂の在り処が、もはや手の届かぬ深淵へと沈んでしまったことを、彼女の魔法使いとしての勘が告げていた。


「私はここにいますよ、イルムガルトさん。以前とは、少し変わっただけ」


 クララが微笑んだ。

 だがその微笑みは、喜びを伝えるための表情ではなかった。穏やかな風が水面に触れ、さざ波が生まれた時のような、ただの「現象」としての揺らぎに過ぎない。


「……ニックスが、そこに居るのですね」


 絶望に近い問いかけに、クララはゆっくりと首を振った。


「名前には、もはや意味がありません。ここにあるのは、かつてクララと呼ばれたものと、かつてニックスと呼ばれたものが、一つの淵で混ざり合った……ただ、それだけのこと」


「クララ様とニックスを分けることはできないのですか」


「イルムガルトさん、あなたがミルクティーを紅茶とミルクに分けることが出来れば私たちを分けることはできるでしょう」


 窓から差し込む陽光が、クララの髪を透かしていく。

 それはもはや黄金色ではなく、深い泉の底から見上げた水面のような、青ざめた銀色に輝いていた。


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