一つの器に二つの魂
その瞬間に何が起きたのか、魔法の深淵に触れているはずのルーカスにもイルムガルトにも、正確に把握することはできなかった。
ただ、世界が一度大きく歪み、また元の形に揺り戻されたような、奇妙な感覚だけが残った。
クララだけは、はっきりとそれを分かっていた。
自らの胸の奥、鼓動のすぐ隣に、ひやりとした清らかな水の気配が滑り込んできたことを。それは五百年の孤独を抱えた精霊の嘆きであり、同時に、自分の内側の欠けた欠片がぴたりと埋まるような、不可思議な充足感でもあった。
(……誰にも、言わないわ)
クララはきつく唇を噛んだ。
もしこれを話してしまえば、目の前の兄もイルムガルトも、術を尽くしてニックスを自分の中から引き剥がそうとするだろう。そうなれば、彼はまたあの冷たく暗い、狭い石の箱の中へ戻されてしまう。あるいは、その瞬間に消えてしまうかもしれない。
それは、自分自身の孤独を再び抉り出されることと同じだった。
「クララ、大丈夫か。気分が悪くはないか」
ルーカスが駆け寄り、妹の肩を抱いた。
「ええ……大丈夫よ、お兄様。少し、驚いただけ。……私は、大丈夫」
クララが顔を上げ、微かに微笑む。その瞳の奥に、かつてはなかった深い静謐の影が差しているのを、イルムガルトは見逃さなかった。彼女は「ハッ」と息を呑んだが、その疑念を即座に言葉にすることはしなかった。
「……ニックスを逃がしてしまったことは痛恨だが。まずは、クララが無事で何よりだ」
ルーカスは悔しげに空の祠を見つめた。祠の扉は再び固く閉ざされているが、そこにはもう、何の気配も残っていない。
イルムガルトは沈黙したまま、念のためと称して祠の周囲に結界を施し直した。それがもはや、空っぽの籠を封じるだけの虚しい作業であることを知りながら。
館に戻ると、クララは「ひどく疲れましたわ」とだけ言い、避けるように自室へ下りていった。
一人残されたルーカスとイルムガルトの間に、重苦しい沈黙が降りる。
「……イルムガルト。先ほどの祠で、何を感じた」
「ルーカス様。……精霊ニックスは、外の世界へ逃げ出したのではありません」
イルムガルトの声は、冬の夜の風のように冷たく響いた。
「ニックスは、クララ様の中に逃げ込みました。……いえ、クララ様が、自らの中に精霊を招き入れたのです」
ルーカスの顔が、見る間に青ざめていった。
「僕も……不自然だとは思った。だが、そうか。精霊と人が、器を一つにしたというのか。……最悪の事態だ。すぐにでも分離させる術を探さねばならない」
「おそらく……無理かと思われます」
イルムガルトは静かに首を振った。
「クララ様ご自身が、その融合を望み、認めていらっしゃる。魂の根幹で結びついてしまったものを無理に引き剥がせば、クララ様の命さえ危ういでしょう」
「……あいつは。あいつは、なんてことを……!」
ルーカスは震える手で顔を覆った。妹を守るために帰ってきたはずが、彼女はすでに、自分の手の届かない「向こう側」の理に踏み込んでしまっていた。
「この件は……伯爵様には伏せておきましょう。これを知れば、伯爵様はクララ様を座敷牢にでも閉じ込めかねません」
「承知している。……我ら二人の、秘密に」
二人は誓い合うように、深く頷き合った。
屋敷の窓の外、夕闇に沈む森からは、もうあの悲しげな笛の音は聞こえてこない。ただ、クララの静かな寝息とともに、小さな水の波紋だけが、彼女の血の中で静かに広がり続けていた。




