遠ざかる残響
クララが今もなお夢路で精霊と語らっていると知り、伯爵の顔からは色が消えた。それはもはや、ただの悪夢ではない。幼い娘の魂が、一歩ずつ、現世の岸辺を離れようとしている証左だった。
「クララを王都のタウンハウスへ移す。明日にも、だ」
重厚な執務机を叩き、伯爵は断腸の思いで命を下した。
「精霊の力が祠に縛られているのであれば、物理的に距離を置く。今の我らにできるのは、その『断絶』以外にない」
それを聞いたクララは、火がついたように泣き叫んだ。これほどまでに感情を剥き出しにした彼女を、家族も使用人も見たことがなかった。
「嫌、行きたくない! お父様、お願い、私をここにいさせて!」
「クララ、聞きなさい。お前の身を精霊から守るためなのだ」
「違うの、そうじゃないのよ! ニックスから……精霊様から離れてはいけないの。あの方は、独りぼっちで私を待っているのに!」
その言葉に、伯爵は戦慄した。娘の口から出たのは「行きたくない」という子供らしい我儘ではなく、異界の存在に対する、抜き差しならない使命感だった。これほどまでに深く根を張っているのか――伯爵の決意は、もはや揺るぎない鉄の意志へと変わった。
半ば強引に馬車へ押し込まれ、住み慣れた領地を離れる道中、クララは窓の外に広がる森に向かって、声を枯らして呼びかけ続けた。だが、馬車が領地の境界を越え、森の気配が遠のくにつれ、彼女の瞳からは次第に力が失われていった。
王都のタウンハウスに着いてからの数ヶ月、クララは自室に籠もり、抜け殻のように泣いて暮らした。けれど、王都の喧騒と、精霊の介在しない乾いた空気が、少しずつ彼女の魂を現世へと引き戻していった。
一年が過ぎ、二年が過ぎる頃には、かつての熱に浮かされたような執着は、憑き物が落ちたように消えていた。
クララは王都の王立学校に通い始め、そこで同じ年頃の友人たちと笑い、学び、ごく普通の少女として花開いていった。かつて森の奥底で聞いた水の音も、青い髪の青年の寂しげな眼差しも、今では「幼い日の不思議な体験」という、色あせた絵画のような記憶へと姿を変えていた。
ただ、時折クララの心の中で葦笛のヒューという音が忘れることを許さぬように響くことがあった。
『精霊に呼ばれた娘』
その不吉な呼び名すら忘れ去られようとしていた、ある春の日のことである。
「クララ、久しぶりに領地の館へ行ってみないか。収穫祭も近いし、お前の友人たちも誘って構わないよ」
朝食の席で、伯爵がふと、穏やかな声でそう持ちかけた。
クララは一瞬、胸の奥で小さな雫が跳ねたような錯覚を覚えたが、すぐに華やかな笑顔で応えた。
「ええ、お父様。久しぶりですもの、森の空気も吸ってみたいわ」
五年という月日は、止まっていた時間を動かすには十分すぎるほど長かった。
だが、山々が、そしてあの静まり返った祠が、同じ月日をどのように過ごしていたか。それを慮る者は、その時の館には一人もいなかった。




