表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/23

遠ざかる残響

 クララが今もなお夢路で精霊と語らっていると知り、伯爵の顔からは色が消えた。それはもはや、ただの悪夢ではない。幼い娘の魂が、一歩ずつ、現世うつしよの岸辺を離れようとしている証左だった。


「クララを王都のタウンハウスへ移す。明日にも、だ」


 重厚な執務机を叩き、伯爵は断腸の思いで命を下した。


「精霊の力が祠に縛られているのであれば、物理的に距離を置く。今の我らにできるのは、その『断絶』以外にない」


 それを聞いたクララは、火がついたように泣き叫んだ。これほどまでに感情を剥き出しにした彼女を、家族も使用人も見たことがなかった。


「嫌、行きたくない! お父様、お願い、私をここにいさせて!」


「クララ、聞きなさい。お前の身を精霊から守るためなのだ」


「違うの、そうじゃないのよ! ニックスから……精霊様から離れてはいけないの。あの方は、独りぼっちで私を待っているのに!」


 その言葉に、伯爵は戦慄した。娘の口から出たのは「行きたくない」という子供らしい我儘ではなく、異界の存在に対する、抜き差しならない使命感だった。これほどまでに深く根を張っているのか――伯爵の決意は、もはや揺るぎない鉄の意志へと変わった。


 半ば強引に馬車へ押し込まれ、住み慣れた領地を離れる道中、クララは窓の外に広がる森に向かって、声を枯らして呼びかけ続けた。だが、馬車が領地の境界を越え、森の気配が遠のくにつれ、彼女の瞳からは次第に力が失われていった。


 王都のタウンハウスに着いてからの数ヶ月、クララは自室に籠もり、抜け殻のように泣いて暮らした。けれど、王都の喧騒と、精霊の介在しない乾いた空気が、少しずつ彼女の魂を現世へと引き戻していった。


 一年が過ぎ、二年が過ぎる頃には、かつての熱に浮かされたような執着は、憑き物が落ちたように消えていた。


 クララは王都の王立学校に通い始め、そこで同じ年頃の友人たちと笑い、学び、ごく普通の少女として花開いていった。かつて森の奥底で聞いた水の音も、青い髪の青年の寂しげな眼差しも、今では「幼い日の不思議な体験」という、色あせた絵画のような記憶へと姿を変えていた。


 ただ、時折クララの心の中で葦笛のヒューという音が忘れることを許さぬように響くことがあった。


『精霊に呼ばれた娘』


 その不吉な呼び名すら忘れ去られようとしていた、ある春の日のことである。


「クララ、久しぶりに領地の館へ行ってみないか。収穫祭も近いし、お前の友人たちも誘って構わないよ」


 朝食の席で、伯爵がふと、穏やかな声でそう持ちかけた。

 クララは一瞬、胸の奥で小さな雫が跳ねたような錯覚を覚えたが、すぐに華やかな笑顔で応えた。


「ええ、お父様。久しぶりですもの、森の空気も吸ってみたいわ」


 五年という月日は、止まっていた時間を動かすには十分すぎるほど長かった。

 だが、山々が、そしてあの静まり返った祠が、同じ月日をどのように過ごしていたか。それを慮る者は、その時の館には一人もいなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ