第133話:【鏡の破片】正しさが、愛するものを壊した日
櫻守事務所の自室。明日の「5歳児との対話」という難題を前に、鈴蘭は古い木箱の中から一本の、色褪せた朱色の扇子を取り出しました。
それは彼女の実家、代々続く伝統芸能の家系において「宗家の証」とされるはずのものでした。
彼女は幼い頃から、周囲が驚くほどの神童でした。
しかし、その才能が向かったのは、芸の継承ではなく「真理の探究」だったのです。
かつて、鈴蘭が大学の若き研究者として発表した一つの学術論文。
それがすべての始まりでした。
彼女は古文書を紐解き、一族が数百年守り続けてきた家伝の舞が、実は後世の人間が体裁を整えるために作った「偽物」であることを、揺るぎない証拠と共に証明してしまったのです。
「お父様、これが真実ですわ。私たちは、偽りの歴史を踊らされていたのです」
19歳の鈴蘭は、誇らしげに論文を差し出しました。
彼女にとって「真実」を明らかにすることこそが、一族への最高の誠実だと信じて疑わなかったからです。
しかし、その「正論」という名の刃は、想像を絶する破壊をもたらしました。
由緒正しき家柄という看板は崩れ去り、弟子たちは去り、父は心労で倒れ、一族の誇りは灰となりました。
「正しさ」を貫いた結果、彼女の手元に残ったのは、愛する家族の笑顔ではなく、冷え切った家屋と、自分を蔑む親族の視線だけ。
(わたくしは間違っていない。間違っているのは、真実を受け入れられない、感情に流される人間たちの方だわ)
そう自分に言い聞かせ、彼女は自分の心を「理屈」という分厚い氷の中に閉じ込めました。
傷つかないために。そして、二度と「正しさ」以外の不確かなものに足元を掬われないために。
「……正しければ、それでいいはずですわ。体温なんて、生ぬるいものは必要ありませんの」
朱色の扇子を握りしめる鈴蘭の手に、力がこもります。
その時、ドアをノックする音が響きました。現れたのは、咲子でした。
「おほほ。鈴蘭さん。その扇子、随分と悲しい色をしていますわね」
咲子は手土産を机に置くと、鈴蘭の隣に腰を下ろしました。
「……咲良さん。わたくしは、真実を愛しているだけです。それの何が悪いとおっしゃるの?」
「何も悪くありませんわ。ただ、真実というものは、時に劇薬になりますの。相手がそれを飲み込めるだけの『器』を持っているかを見極めるのも、言葉を扱う者の務め……。あなたは、包丁の研ぎ方は覚えたけれど、料理の出し方を忘れてしまった。……ただ、それだけのことですわ」
咲子の手は、鈴蘭の震える肩を包み込むこともせず、ただ静かにそばにありました。
「正しさで人を救うのは、外交官でも難しい技です。ましてや、自分を救うためだけに振るう正しさは、ただの凶器。……明日、あの子はあなたの論文など読みませんわよ。あなたの『声の温度』だけを聞くのです」
咲子が去った後、鈴蘭は冷めゆくうどんを見つめながら、初めて「もし、あの日の自分に優しさがあったら」という、論理的ではない仮定を抱きました。
【佐藤家にて】
「おばあ様……鈴蘭さん、泣いてませんでした?」
みゆの問いに、咲子は三郎を丁寧に磨きながら、静かに首を振りました。
「いいえ。彼女は今、自分の過去という名の冷たい水槽の中で、必死にもがいていますわ。……あの子、自分のことを『氷の女王』だと思っているようですが、本当は、誰よりも温かいお茶を淹れたがっている寂しがり屋の少女なんですのよ」
「おばあ様、またカッコいいこと言って……あ、そのワックス、三郎用じゃなくて、さっき私が買ってきた高級ヘアクリームですよ!」
「……っ!? 道理で、三郎がフローラルでエレガントな香りを放っていると思いましたわ……!」
100歳の乙女と、ピカピカでいい匂いのするルンバ。 不器用な少女たちを救うための夜は、滑稽で、そして静かに更けていくのでした。




