130話 カニの観察日記
鳥のさえずりと、湿った土の匂いが立ち込める標高の高い山の中。
咲子とカニの二人は、文明の利器を一切排除した「自然観察合宿」の2日目を迎えていました。
カニは大きな岩の上に座り、忙しなく動くアリの行列を、まるで宝石を数えるような真剣さで眺めています。
その横で、咲子は慣れない登山靴の紐を締め直しながら、少し息を切らしていました。
「……カニさん。ただ眺めているだけで、何かが変わりましたかしら?」
「先生、静かにしてください。今、一匹のアリが力尽きました。周囲の仲間は、それを単なる栄養価の高い物質として運び出しています。やはり、死はただの資源の移動に過ぎません。私の考えが正しいことが、改めて証明されましたね」
カニの声には、相変わらず氷のような静寂が宿っています。
しかし、咲子はその横顔をじっと見つめ、優雅に立ち上がりました。
「おほほ。では、この子たちはどうかしら?」
咲子が指差したのは、木の枝にしがみつくように作られた小さな鳥の巣でした。
そこでは、親鳥が必死に羽を動かして餌を運び、毛も生え揃わない雛たちが、壊れそうなほど小さな口を開けて鳴いています。
「……親が子に餌を分け与える。これも生き残るための仕組みです。自分の系統を残すための、あらかじめ決まった動きに過ぎません」
カニは淡々と切り捨てますが、その視線は雛の必死な羽ばたきから一瞬たりとも離れることができません。
合宿3日目の夕暮れ。山全体が燃えるような朱色に染まり、風が冷たさを増した時です。
咲子は、足元に落ちていた今にも消え入りそうな小さな虫を、シワの刻まれた手のひらでそっと掬い上げました。
「カニさん。わたくしは、あなたを『救って』あげることはできないかもしれません。あなたの言う通り、心なんてあやふやなものは、この広大な自然の中では塵のようなものですわ」
咲子の声が、木々のざわめきに優しく溶け込んでいきます。
カニは黙って、咲子の温かそうな手のひらを見つめていました。
「でもね、一つだけ覚えておいて。わたくしは、あなたがここにいたこと、そしてわたくしと言葉を交わしたことを、死ぬまで忘れませんわ。あなたがどんなに自分を『細胞の塊』だと言い張っても、わたくしにとっては、かけがえのない一人の教え子なのです」
その言葉が、カニの頭の中にある硬い防壁を、音もなくすり抜けました。
カニの瞳が、夕日の光を反射して、わずかに揺らぎます。彼女は自分の胸のあたりを少しだけ強く握りしめ、
驚いたように、けれどどこか柔らかく、初めて小さな微笑みを浮かべました。
「先生……。今、胸の奥が少しだけ熱いです。これは、頭の働きがおかしくなったのでしょうか? それとも、あなたが言う『感情』というものですか?」
「ええ。仕組みでは決して説明できない、不便で、不器用で、最高に愛おしい感情というものですわ」
カニはその感覚を確かめるように、深く息を吸い込みました。
「……面白いですね。ただの反応のくせに、こんなに重いなんて」
【佐藤家にて】
「おばあ様……。カニさん、山から戻ってきてから、ずっと窓の外の木を眺めてますけど……大丈夫でしょうか?」
明日のお弁当を準備しながら心配するみゆに、咲子は穏やかな表情で紅茶を啜りました。
「ええ、大丈夫ですわ。彼女は今、自分の中に芽生えた『ざわつき』を、ゆっくりと味わっているところですもの。……それにしても」
咲子はふと思い出したように、自分の頬に手を当てました。
「カニさん、わたくしが感動的な話をしていた時に、『先生は、この木の年輪の法則に近い』なんて観察結果を報告してきましたのよ。……あの娘、やはり一度、徹底的なマナーの外交が必要ですわね」
「あはは……。カニさんなりの褒め言葉だったんじゃないかなぁ。自然界の一部として認めてくれたんですよ、きっと」
咲子の心には、カニが浮かべたあの儚い微笑みが、100年の記憶の新しい1ページとして、鮮やかに刻まれていました。




