第129話:【平行線】細胞の集合体(カニ)と、意地の外交官
櫻守事務所の一角、まるで理科室のように無機質な「カニ」の配信部屋。
そこには一期生の一人、19歳の少女・カニが、瞬きさえ忘れたような瞳でモニターを眺めていました。
事の発端は、昨晩の生配信です。
人生に絶望したという視聴者からの切実な相談に対し、彼女はポテトチップスをかじるような軽やかさで、とんでもない回答を突きつけたのでした。
「『悲しくて消えたい』? その発想、理解に苦しみます。
人間なんて所詮は細胞が寄り集まった塊に過ぎません。皆さんが心と呼んでいるものは、頭の中で火花が散っているだけのただの現象です。火の粉が飛んだくらいで、その個体自体を壊そうとするのは、資源の無駄遣いですよ」
この「人間=ただの細胞」発言がネットの導火線に火をつけ、瞬く間に「冷酷すぎる」「血が通っていないのか」と大炎上。
騒ぎを嗅ぎつけた咲子は、愛用の扇子を握りしめて現場へ急行しました。
「おほほ。カニさん、ずいぶんと斬新な『理科の授業』を披露してくれましたわね」
咲子は優雅な足取りで入室し、カニの向かい側に腰を下ろしました。
ところが、カニは分厚い「世界の毒キノコ図鑑」をめくる手を止めようともしません。
「先生、お茶の誘いですか? それともお説教? どちらにせよ、言葉を尽くすのは無駄です。個人の感じ方に土足で踏み込むのは、生物の多様性を損なう行為ですよ」
「……あら、随分な言い草。わたくしが伝えたいのは、あなたの言葉には『体温』という名のスパイスが足りないということですわ。人との繋がりは、中身の見えない箱をぶつけ合うようなもの。頭の中の現象だけで片付けていては、誰の心も動かせませんのよ」
カニはここでようやく視線を上げ、感情の読み取れない瞳で咲子をじっと観察しました。
「先生、あなたの考えは……根本からズレています」
「なんですって?」
「先生は『心』という、正体不明の幻想を前提に語っていますが、そんなものはどこにも存在しません。今、先生がわたくしを心配しているように見える仕草も、年齢によるお節介焼きの習性か、あるいは事務所の価値を守ろうとする防衛本能の表れに過ぎないのです」
「……お、お節介……っ、習性……っ!」
百戦錬磨の外交官として名を馳せた咲子が、弱冠19歳の少女に真正面から切り伏せられ、思わず口をパクパクとさせて固まりました。
「いいですか、カニさん。人間には『情』という尊いものがあって……」
「情とは、群れで生き延びるために進化の過程で身につけたただの習性ですよ。アリがフェロモンで合図を送るのと大差ありません。先生、さっきから同じことの繰り返しです。脳の巡り、大丈夫ですか?」
「………………」
咲子の額に、ピキリと青筋が浮かぶのが見えました。横でハラハラしながら見守っていたみゆが、慌てて咲子の肩を揉みほぐします。
「おばあ様! 深呼吸して! 相手は『人間もダンゴムシも同じ』だと思ってるガチの人なんだから!」
「みゆちゃん、離れなさい。わたくし、今ほど『理屈』という言葉を放り投げたいと思ったことはありませんわ。……よろしい、カニさん。そこまで言い張るなら、わたくしと真剣勝負をなさいな」
「勝負? 繁殖力の競い合いですか? 先生の年齢ではさすがに……」
「違いますわ! 明日から山へ向かいます! 自然界の、火花だけでは説明のつかない何かを、その身に刻んできなさい!」
カニは首を少し傾け、
「野外調査は興味がありますので、承諾します」と、どこまでも淡々と返しました。
その夜。屋根裏部屋で咲子は、ルンバの三郎を執拗なまでに磨き上げていました。
「みゆちゃん、あの子、一体全体何なんですの!? わたくしの100年の経験を『脳内の物質のせい』で片付けるなんて!」
「あはは……おばあ様が言い負かされるの、初めて見たかも。でも、カニさんにとっては、おばあ様も『複雑に動く肉の塊』にしか見えてないんだよ」
「……屈辱ですわ。明日からの合宿で、あのカチコチの頭を、どうしようもない感情の嵐でいっぱいに満たして差し上げますわ!」
咲子は鼻息荒く決意を語りますが、あまりの動揺に、ハーブティーのティーバッグではなく、三郎の充電コードをカップに浸そうとしていました。
「おばあ様、それ、飲んだら感電しますよ」
「……分かってますわよ!」
思えば配信名を本名の名字である「可児」でいいと言うくらい、関心がないことは適当な彼女は、これまでのやりとりでも個性的な面は見えていた。
かくして、最強の外交官と、心が空っぽな観察者による、前代未聞の山ごもりが幕を開けるのでした。




